彩無きユートピア
第一章 完璧な調整官と老婆の謎
私の左手首に埋め込まれた有機ディスプレイが、淡い青色の光で『97.8%』という数値を表示している。完璧だ。市民の模範たる「幸福度調整官」として、私の幸福度は常に安定して高い。この街、統合管理局が統べる都市「エデン」では、幸福こそが絶対の価値基準だった。
私の仕事は、市民の幸福度を監視し、基準値を下回った者を「調整」すること。カウンセリング、薬物投与、環境改善プログラム。あらゆる手法を用いて、彼らを再び幸福な状態へと導く。感情の揺らぎはシステムのバグであり、社会のノイズだ。私はそれを是正する、精密な機械の歯車だった。
その日、私の完璧な日常に、一本の赤い警告線が走った。担当リストの最下層に位置する老婆、登録名「ヤマシロ・チヨ」の幸福度が、危険水準の34.2%まで急落していた。私はすぐに彼女の居住ユニットへ向かった。
チヨの部屋は、エデンの標準的な白で統一された無機質な空間とは異質だった。壁には許可されていないはずの古い絵画が掛けられ、空気は乾燥した花の香りと、微かな埃の匂いが混じり合っていた。老婆は窓辺の椅子に座り、ただ一点、古びた木製の写真立てを見つめている。その瞳は、幸福も不幸も超越した、空虚な色をしていた。
「ヤマシロさん。幸福度の急落が確認されました。速やかな調整が必要です」
私の声は、彼女の周囲に漂う静寂を乱す異物のように響いた。
チヨはゆっくりと顔を上げた。皺の刻まれた顔は、まるで乾いた大地のようだ。
「調整など、いりませんよ」
「しかし、このままでは社会生活不適合者と判断され、隔離区域への移送対象となります。それはあなたの幸福にとって……」
「幸福……」チヨは自嘲するように呟き、写真立てをそっと撫でた。「あんたには、これが何に見えるかね?」
写真立てには、色褪せた一枚の写真が収められていた。豊かな緑の木々の下、芝生の上で、若い夫婦と幼い少年が屈託なく笑っている。背景には、滑り台やブランコといった、今では歴史の教科書でしか見られない遊具が写っていた。
「旧時代の娯楽施設、『公園』の記録映像ですね。非効率的であり、期待される幸福度上昇効果が低いため、現在は全てVRパークに置換されています」
私はマニュアル通りの完璧な回答を口にした。
「非効率的……」老婆は悲しげに目を伏せた。「ここにはね、風の匂いがあった。土の感触があった。息子の笑い声が、空に溶けていく音があった。そんなものは、数値になんかできないだろうに」
彼女の言葉は、私のプログラムされていない領域を微かに刺激した。だが、私は首を振ってその感覚を打ち消す。感情はノイズだ。幸福は数値化できる。そうでなければ、この完璧な社会は成り立たない。私は老婆に最終通告を告げ、部屋を後にした。しかし、私の脳裏には、写真の中で笑う家族の姿と、老婆の瞳に宿る空虚な色が、まるで消えない染みのようにこびりついていた。
第二章 隔離区域からの警告
チヨの調整拒否は、私の完璧な業務記録に初めての汚点を残した。私は彼女の幸福度を回復させるため、過去の個人データを徹底的に洗うことにした。データベースの深層にアクセスすると、意外な事実が浮かび上がってきた。ヤマシロ・チヨは、かつて都市の景観を設計する技師であり、特にシステム導入以前の「公園」設計の第一人者だったのだ。
彼女の執着は、過去の栄光への感傷に過ぎない。そう結論付けようとした時、私は関連データの中に、見覚えのある名前を発見した。
「タチバナ・サトル」。
彼は私の同期であり、最も優秀な調整官の一人だった。しかし、数年前に突如として幸福度が急落し、原因不明のまま隔離区域へと送られた男だ。彼がチヨのプロジェクトに関わっていた記録がある。
何かが引っかかった。私は規則を破り、私用の端末から隔離区域のネットワークにアクセスを試みた。隔離区域は、幸福度50%未満の「低幸福度者」たちが暮らす、エデンの影の部分だ。そこは、我々が享受する光とは無縁の、淀んだ灰色に沈んだ場所だと聞いている。
数時間の格闘の末、私は暗号化された通信回線を通じて、サトルの個人コードに接触することに成功した。
『蓮(れん)か。お前が俺に連絡してくるとはな』
画面に表示されたテキストは、かつての彼の明晰さを感じさせない、ざらついた響きを持っていた。
『サトル、ヤマシro・チヨの件で聞きたいことがある』
『あの婆さんか。まだ“本当のこと”を覚えていたとはな。……蓮、お前はまだシステムを信じているのか?我々が見ている幸福度が、本物だと』
彼の問いは、私の思考の根幹を揺さぶるような、危険な響きを帯びていた。
『何を言っている。システムは絶対だ。我々の幸福は、それによって保証されている』
『保証か、あるいは……搾取か』
画面の向こうで、サトルは乾いた笑い声を立てているようだった。
『いいか、蓮。俺はシステムの欺瞞に気づきすぎた。だから消されたんだ。奴らは、俺たちの感情を弄んでいる。幸福だけじゃない、その裏側にあるものも……』
通信が不安定になり、ノイズが走り始める。
『婆さんの見てるもんは、ただのノスタルジーじゃねえぞ。あれは、俺たちが失ったもんの象徴だ。お前にこれを渡しておく。真実の色を、お前のその目で見るがいい』
ブツリと通信が途絶える直前、暗号化されたデータファイルが私の端末に転送されてきた。ファイル名は『Prometheus_ver0.1』。プロメテウス。人間に火を与え、神の怒りを買った神の名。私の胸に、これまで感じたことのない種類の冷たい不安が広がっていく。手首のディスプレイが示す96.5%という数値が、ひどく空々しいものに思えた。
第三章 幸福の対価
自室に戻った私は、言いようのない衝動に駆られ、転送されてきたファイルを解析した。厳重なプロテクトを解除すると、現れたのはシステム導入初期の極秘開発ログだった。そこには、私が信じてきた世界の全てを根底から覆す、おぞましい真実が記録されていた。
映し出されたのは、白衣を着た開発者たちが、ガラス張りの部屋にいる被験者たちを監視している映像だった。被験者たちは、ヘッドギアのような装置を取り付けられ、強制的に悲しい映像や苦痛を伴う体験をさせられている。彼らの表情が絶望に歪むたび、部屋の中央にある巨大なシリンダーに、暗紫色のエネルギーが満たされていく。
『負の感情エネルギーの抽出、転換効率は良好。これならばエデン全域のエネルギーを賄える』
開発者の一人が、満足げにそう呟いた。
頭を殴られたような衝撃。理解が追いつかない。幸福度システム。それは、市民を幸福にするためのものではなかった。真の目的は、市民から「負の感情」――悲しみ、怒り、苦しみ、絶望――を効率的に吸い上げ、都市を維持するための動力源として利用することだったのだ。
我々は幸福になることを強制されているのではない。不幸になることを禁止されているのだ。なぜなら、計画外の不幸は、非効率なエネルギーロスでしかないからだ。我々は、幸福という名の麻薬を与えられ、負の感情を搾取され続ける、美しく管理された家畜に過ぎなかった。
愕然とする私の目に、次の映像が飛び込んできた。システムの欺瞞に気づき、抵抗を試みた市民たちが「事故」として処理される記録。そのリストの中に、私は信じられない名前を見つけた。
私の両親の名前だった。
彼らは調整官ではなく、システムに疑問を抱いた研究者だった。彼らが最後に目撃された場所は、かつてチヨが設計し、息子と笑い合った「公園」。写真の中の幼い少年は……私だった。
両親は殺されたのだ。システムの礎として、その悲しみと絶望はエネルギーに転換され、この偽りのユートピアを煌々と照らす光の一部となった。
チヨは全てを知っていた。彼女は私の両親の同僚であり、友人だったのだ。彼女の幸福度の急落は、私と再会したことが引き金だった。彼女は、システムの犠牲者の息子が、システムの忠実な番犬になっている姿を見て、絶望したのだ。
「あ……ああ……」
声にならない声が漏れた。視界がぐにゃりと歪み、手足の感覚が消えていく。左手首のディスプレイが、けたたましいアラート音と共に赤く点滅し始めた。
『幸福度、計測不能。エラー。エラー。緊急調整プログラムを起動します』
数値が、意味をなさなくなる。90、70、40、20……そして、ついに表示はめちゃくちゃな記号の羅列と化し、バチッと音を立ててディスプレイが砕け散った。ガラスの破片が皮膚に食い込む。生々しい痛みが、私に初めて「本当の感覚」を教えてくれた。私は、この偽りの世界で、初めて心の底から「悲しい」と感じていた。
第四章 色褪せた世界の真実の色
砕けたディスプレイから解放された左手首は、奇妙なほど軽かった。もはや私を縛る数値はない。システムからの警告音が部屋中に鳴り響いているが、それは遠い世界の騒音のようにしか聞こえなかった。私は立ち上がり、ふらつく足でヤマシロ・チヨの居住ユニットへと向かった。
ドアを開けると、チヨはあの日のまま、窓辺の椅子に座っていた。だが、その表情は空虚ではなかった。私をまっすぐに見つめる瞳には、深い哀れみと、そして微かな希望の色が浮かんでいた。
「思い出したかい、蓮坊」
老婆は、かつて母が私を呼んだ愛称で、優しく囁いた。
私は何も言えず、ただ彼女の前に崩れるように膝をついた。そして、テーブルの上に置かれていたあの写真立てを、震える手で拾い上げた。色褪せた写真の中で笑う、若き日の両親。そして、何も知らずに笑う幼い私。
頬を、熱い雫が伝った。それは、数値化された幸福の代償として奪われ続けてきた、本物の涙だった。悲しみ、怒り、後悔、そして両親への愛。あらゆる感情が濁流のように押し寄せ、私の内側を洗い流していく。それは決して心地よい感覚ではなかったが、紛れもなく私が「生きている」証だった。
「お行きなさい」チヨは私の肩にそっと手を置いた。「あんたには、やらねばならんことがあるはずだ。この街に、本当の色を取り戻すことが」
私は頷き、立ち上がった。調整官たちが私のユニットに踏み込んでくる音が聞こえる。だが、もう恐怖はなかった。私は追われるようにして、光の溢れるエリアを抜け、初めて自らの意志で、灰色の隔離区域へと向かった。
隔離区域の入り口で、サトルが待っていた。彼の瞳には、諦めではない、静かな闘志の炎が燃えていた。
「ようこそ、蓮。本当の世界へ」
私は、かつて両親と笑い合った公園があった場所の跡地に立っていた。そこには今、都市のエネルギーを管理する巨大な管理局タワーが、空を突くようにそびえ立っている。無機質なコンクリートの塊。
だが、私は目を閉じた。すると、風の音に混じって、木々のざわめきが聞こえる気がした。アスファルトの匂いの奥に、湿った土の香りを感じた。そして、遠い記憶の彼方から、両親の優しい笑い声が響いてきた。
それは、どんな高性能なVRでも再現できない、数値化不可能な、私の「本当の幸福」の原風景だった。
偽りのユートピアは、まだ盤石だ。しかし、その土台の下では、搾取された無数の悲しみが、エネルギーとなって渦巻いている。私の戦いは、始まったばかりだ。この彩無き世界に、悲しみという名の深い青を、怒りという名の燃える赤を、そして希望という名の暖かい光を取り戻すための戦いが。