感情の残滓

感情の残滓

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第一章 蜜の味

ネオンの光が滲むショーケースの中で、琥珀色の液体が満たされたヴァイアルが静かに鎮座している。商品名『Euphoria-Prime』。現代社会が生み出した最高級の嗜好品、純度99.9%の「幸福感」だ。俺、蒼井湊の仕事は、これを売ること。感情取引所のエリートブローカーとして、俺は顧客の乾いた心に、金で買える潤いを注ぎ込んできた。

「素晴らしい……まるで神の吐息に触れたかのようだ」

対面に座る老富豪が、特殊な吸入器で霧化した感情をゆっくりと肺に満たし、恍惚の表情でため息をついた。俺の鼻腔にも、そのおこぼれが届く。蜜のように甘く、完熟したライチと微かな金木犀が混じり合った、人工的な至福の香り。俺は共感覚の持ち主で、他人の感情を「味」や「匂い」として感じ取ることができる。この能力のおかげで、俺はトップブローカーの地位を築いた。顧客が求める感情の機微を、誰よりも正確に味わい、提供できるからだ。

「最高級のドナーから抽出した、一点の曇りもないポジティブな感情です。今ロットは特に質が高い」

俺はマニュアル通りの笑みを浮かべて応じた。だが、その完璧な「味」に、俺の心は少しも動かなかった。精製され、規格化された感情は、どれも無菌室で育てられた果実のようだ。美しいが、土の匂いがしない。ざらついた皮の食感も、虫食いの痕もない。あまりに綺麗すぎて、空虚だった。

取引を終え、ガラス張りのオフィスから眼下の都市を見下ろす。雨に濡れたアスファルトが、無数の光を乱反射していた。人々は皆、感情のサブスクリプションに加入し、日々の精神状態をアプリで管理する。悲しみや怒りは専門業者に買い取ってもらい、喜びや安らぎをダウンロードする。効率的で、合理的で、そしてひどく寂しい世界。俺もまた、そのシステムの歯車として、感情を右から左へ流すだけの空っぽな器だった。

その夜、いつものように取引所の裏路地を抜けて帰ろうとした時、ゴミ集積場の影から、一人の老人が現れた。痩せこけた体に、継ぎ接ぎだらけのコートを羽織っている。こんな場所にいるのは、合成感情すら買えない最貧困層だろう。

「……いい匂いがするな、あんた」老人は濁った瞳で俺を見つめた。「極上の蜜の匂いだ。だが、後味が悪い」

俺は警戒して足を止めた。

「何か用ですか」

「あんた、わかるクチだろう」老人はしわがれた声で言った。「本当の味と、まがいものの味の違いが。探しているんじゃないのかね、感情の"残滓"を」

残滓。その言葉が、俺の心の奥底に沈殿していた澱を、静かにかき混ぜた。忘れていたはずの、遠い日の記憶。妹の雫と分かち合った、不揃いだが本物の感情の味。老人の瞳の奥に、俺は何か、この世界の真実につながるひとかけらを見た気がした。

第二章 乾いた渇望

老人の言葉が、頭から離れなかった。「感情の残滓」。それは、精製される前の、誰かの生身の心からこぼれ落ちた、不純で、だからこそ真実味のある感情のかけらを意味するのだろうか。俺が顧客に提供している滑らかな蜜の味とは正反対の、ざらついた砂のような味。

翌日から、俺は『Euphoria-Prime』の出所を密かに調べ始めた。トップブローカーの権限を使っても、データベースには分厚い壁が立ちはだかる。製造元、ドナー情報、抽出プロセス——すべてが「CLASSIFIED(機密)」の赤い文字で塗り潰されていた。会社は、幸福の源泉を神秘のベールで覆い隠すことで、その価値を吊り上げているのだ。

俺は会社の正規ルートを諦め、裏社会の情報屋に接触した。支払ったのは金ではない。俺が長年かけて溜め込んできた、高純度の「後悔」の感情データだ。それは鉄錆の味がする、ひどく重たい感情だった。情報屋はそれを珍味のように受け取ると、口の端を歪めて言った。

「"ファーム"を探してるのか。あんたも物好きだな」

ファーム。農場。その単語が意味するものを察し、俺の背筋に冷たいものが走った。情報屋によれば、市場に流通する感情の大部分は、ボランティアから提供される低純度のものか、化学的に合成されたものだという。だが、富裕層が求める最高級品は違う。それは「ファーム」と呼ばれる非公開施設で、特別な才能を持つ「ドナー」から、半ば強制的に抽出されているというのだ。

「そいつらは感情の泉だ。尽きることなく、純粋な感情を湧き出させる。ファームはそいつらを生かさず殺さず、ただ感情を搾り取るためだけの場所さ」

その話を聞きながら、俺は幼い頃の記憶を思い出していた。両親を早くに亡くし、妹の雫と二人、施設で育った。貧しく、不安な毎日だったが、雫はいつも太陽のように笑っていた。彼女が笑うと、俺の口の中には、ひだまりで干した布団のような、温かく優しい甘さが広がった。彼女が泣くと、しょっぱい海の味がした。俺の共感覚は、雫と感情を分かち合うことで、より鋭敏になっていったのだ。

その雫が、十五歳の誕生日の直前に、忽然と姿を消した。施設は単なる家出として処理した。俺は必死で探したが、何の手がかりも見つからなかった。あの無邪気な感情の泉は、一体どこへ消えてしまったのか。いつしか俺は、雫を探すことを諦め、感情の味を分析する能力だけを武器に、この乾いた世界でのし上がってきた。

情報屋が渡してきたデータチップを握りしめる。これを使えば、会社のメインフレームにバックドアから侵入できるかもしれない。危険な賭けだ。だが、俺の中の何かが、もう引き返せないと叫んでいた。老人の言葉、ファームの噂、そして雫の記憶。ばらばらだったピースが、恐ろしい一つの絵を形作ろうとしていた。

第三章 幸福の源泉

深夜のオフィスに、俺は一人残っていた。窓の外では、広告用の飛行船がゆっくりと空を横切り、合成された「安らぎ」の香りを街に振りまいている。情報屋から受け取ったデータチップを使い、俺は会社の最も深い階層のセキュリティを突破した。指先が冷たく、心臓が嫌な音を立てている。

ディスプレイに、ついに『PROJECT: EDEN』という名のファイルが表示された。それが「ファーム」の正式名称だった。クリックすると、ドナーたちのリストが現れる。IDナンバー、年齢、性別、そして「感情特性」の分析データ。彼らは人間ではなく、まるで家畜の血統書のように管理されていた。ページをスクロールする指が震える。俺は何を探している? いや、何を見つけることを恐れている?

そして、俺はその名前を見つけてしまった。

ID: D-077

NAME: AOI, SHIZUKU

AGE: 25

CHARACTERISTIC: Unrivaled Purity of Joy and Empathy. Source of “Euphoria-Prime”.

(特性:比類なき純度の喜びと共感性。『Euphoria-Prime』の源泉)

蒼井、雫。

息が止まった。時間が凍りつき、世界から音が消える。モニターの光が、俺の顔を青白く照らし出していた。俺がずっと探し続けていた妹。彼女は、生きていた。だが、それは生きていると呼べる状態ではなかった。添付された映像ファイルを開くと、そこには白い部屋のベッドに横たわる雫の姿があった。頭部には無数の電極が取り付けられ、生命維持装置に繋がれている。その表情は穏やかだったが、瞳には何の光も宿っていなかった。彼女は、この社会を支える最高級の幸福感を生み出すための、ただの「源泉」として、魂を抜かれたまま生かされていたのだ。

俺が顧客に売ってきた、あの蜜のように甘い幸福の味。あれは、雫の魂を削って作られたものだったのか。俺は、妹の魂を切り売りして、富と地位を築いてきたのか。

「う、あ……ああああああっ!」

声にならない叫びが喉から迸った。口の中に、強烈な味が広がる。それは、絶望と、後悔と、どうしようもない自己嫌悪が混じり合った、腐った鉄と塩水の味だった。俺は床に崩れ落ち、嗚咽した。俺が感じていた空虚さの正体はこれだったのだ。俺は知らず知らずのうちに、最も大切な存在を消費し、その残骸の上で生きていた。この世界の輝かしい幸福は、愛する妹の犠牲の上に咲いた、毒の花だったのだ。

第四章 残滓の味

俺の中で何かが切れた。復讐? 贖罪? そんな言葉では足りない。ただ、雫を取り戻す。それだけが、俺に残された唯一の真実だった。俺はブローカーとして培った全ての知識と人脈、そして自分の感情すらも武器に変えることを決意した。

俺は最後の取引を仕掛けた。ターゲットは、感情取引所のメインサーバー。商品は、俺自身の全感情。数日かけて、俺は自分の内面を深く掘り下げ、雫を失ったあの日から溜め込んできた、ありったけの負の感情をデータ化した。怒りは、喉を焼く唐辛子。悲しみは、氷点下の金属の味。そして、自分自身への憎悪は、腐臭を放つヘドロの味。それら全てを凝縮したデータ・ウイルスを作り上げた。

決行の夜、俺はサーバー室に侵入し、ウイルスをシステムの中枢に流し込んだ。それは、社会の精神安定を司るシステムへの、最大のテロ行為だった。ウイルスが拡散するにつれ、街中の感情供給システムがバグを起こし始める。幸福感をダウンロードした人々の口に苦味が広がり、安らぎの香りが不協和音を奏でた。システムが混乱し、ファームの警備が手薄になった一瞬の隙を突いて、俺は雫が囚われている施設へと向かった。

白い部屋で、雫は眠るように横たわっていた。彼女の身体から無数のチューブを乱暴に引き抜き、その軽い体を抱きかかえる。十年ぶりに触れた妹は、まるで人形のように生気がなかった。

「雫、迎えに来たぞ」

囁きかけるが、返事はない。彼女の感情は、もうほとんど残っていないのかもしれない。

施設を脱出し、夜明け前の街を彷徨う。システムが麻痺した都市は、奇妙な静けさと混沌に包まれていた。ネオンは消え、人々は与えられた感情ではない、自分自身の戸惑いや不安を、久しぶりにその顔に浮かべていた。

俺は雫を抱きしめ、路地裏に座り込んだ。これからどうなるのか、どこへ行けばいいのか、全くわからない。だが、不思議と心は凪いでいた。ふと、雫の頬に俺の涙が落ちた。その時、俺は微かな「味」を感じた。それは甘くも、苦くも、辛くも、しょっぱくもなかった。ただ、温かい水の味。無味無臭の、けれど確かな温もりを持つ、命の源の味だった。

街には、不揃いな感情の匂いが混じり合い始めていた。誰かの苛立ち、赤ん坊の泣き声、恋人たちの囁き。それらは決して洗練されてはいない、生の感情の「残滓」だった。

俺は雫の頬に残る、その温かい無味の安らぎを、もう一度味わった。失われた雫の感情は、すぐには戻らないだろう。この世界が本当の感情を取り戻すにも、長い時間がかかるはずだ。だが、それでいい。俺たちはこれから、この混沌とした世界で、一つ一つ、本物の味を探していくのだ。

空が白み始め、新しい一日が始まろうとしていた。それは、幸福が約束された世界ではない。だが、俺と雫にとっては、ようやく始まる、真実の物語の第一歩だった。

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