忘却のプリズムを拾う君

忘却のプリズムを拾う君

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第一章 虹色のガーベッジ

僕、水野湊には秘密がある。他人が捨てた記憶の欠片が見えるのだ。

それは、誰かが「忘れたい」と強く願った瞬間に、その場にぽとりと零れ落ちる。ガラス細工のように脆く、淡い光を放つそれは、僕は密かに「忘却のプリズム」と呼んでいた。

放課後の屋上。フェンスに寄りかかり、微睡むような午後の光を浴びていた幼馴染の高槻陽菜の足元に、それを見つけた。空色に乳白色が混じった、小さな雫の形をしたプリズム。陽菜が俯いた拍子に、まるで涙のようにこぼれ落ちたのだ。

「陽菜、何かあった?」

「……ううん、別に。ちょっと考え事」

彼女は曖昧に笑って、僕から視線を逸らす。最近の陽菜は、いつもそうだ。僕と陽菜の間には、薄くて透明な膜が一枚、いつの間にか張られてしまったようだった。僕は彼女が落としたプリズムを、誰にも気づかれないようにそっと拾い上げ、制服のポケットに滑り込ませた。ひんやりとした感触が、指先から罪悪感のように伝わってくる。

僕の部屋の窓辺には、拾い集めたプリズムを入れたガラス瓶がいくつも並んでいる。夕陽を浴びてきらきらと輝く様は、まるで宝石箱のようだ。喧嘩したカップルが落とした怒りの赤。テストで悪い点を取った生徒の後悔の灰色。告白できずに終わった恋の、切ない桜色。

プリズムにそっと触れると、持ち主の記憶が断片的に流れ込んでくる。音もなければ、匂いもない、ただサイレント映画のような光景だけが。僕は他人の痛みに触れながら、それが決して自分のものではないという事実に、どこか倒錯した安堵感を覚えていた。他人の不幸を収集する、最低な趣味。でも、やめられなかった。空っぽな自分を、他人の感情の色彩で満たしているような気がしたからだ。

ポケットの中の、陽菜が落とした空色のプリズムをそっと取り出す。触れるのが少し怖かった。僕の知らない陽菜の痛みを知ってしまうことが。それでも、指先が抗えない引力に導かれて、その冷たい表面に触れてしまう。

――映像が流れ込む。陽菜の視点だ。夕暮れの教室。机に突っ伏して泣いている誰か。その背中を、陽菜はただ黙って見つめている。悲しそうで、どうしようもなく苦しそうな顔で。泣いているのは、僕だった。なぜ僕が泣いているのか、その理由は靄がかかったように見えなかった。

第二章 サイレント・フィルム

陽菜との距離は、日を追うごとに広がっていった。彼女は何か大きな秘密を一人で抱え込み、その重さに耐えるように、時折ふっと遠い目をする。僕が何かを尋ねても、彼女は力なく笑うだけだった。その笑顔が、僕にはひどく痛々しく見えた。

僕は、陽菜の落とすプリズムを探すようになった。彼女を理解したいという気持ちと、彼女の秘密を覗き見たいという下劣な好奇心がないまぜになって、僕を駆り立てた。図書室の片隅で、帰り道のバス停で、僕は彼女が零した小さなプリズムをいくつも見つけた。

それらは、どれも断片的な映像しか見せてくれなかった。古いアルバムをめくる僕たちの写真。ブランコが揺れる公園。そして、決まって登場する、顔のぼやけたもう一人の男の子。僕と陽菜、そして『彼』。三人の姿が映るたび、僕の胸は理由のわからない郷愁と痛みで締め付けられた。

「湊は、昔のこと、何か覚えてる?」

ある日の帰り道、陽菜がぽつりと言った。夕焼けが彼女の横顔をオレンジ色に染めている。

「昔って?」

「ううん、なんでもない。忘れて」

そう言って彼女はまた、口を閉ざしてしまう。その足元に、また一つ、小さな菫色のプリズムが落ちるのを、僕は見逃さなかった。

僕の部屋のガラス瓶は、陽菜のプリズムで満たされていった。空色、菫色、月光の色。どれもが切なく、美しい光を放っていたが、核心には決して触れさせてくれない。まるで、パズルのピースが決定的に足りないみたいに。

僕は苛立っていた。陽菜が僕に隠し事をしていることに。そして、彼女の心に踏み込めない自分自身の臆病さに。プリズムを通して他人の心を覗き見ることでしか、誰かと繋がれない。そんな自分が、ひどく醜い生き物のように思えた。

雨が降りしきる金曜日。ずぶ濡れで帰ってきた僕を、玄関で母が心配そうに出迎えた。

「湊、来週の土曜日、覚えてる? 大地の命日よ」

その名を聞いた瞬間、心臓が氷の塊になったように冷たくなった。大地。そうだ、そんな名前の奴がいた。僕と陽菜の、もう一人の幼馴染。どうして、忘れていたんだろう。いや、違う。僕は忘れてなどいなかった。ただ、思い出さないように、心の奥底の一番暗い場所に、鍵をかけて押し込んでいただけだ。

第三章 僕が忘れたレクイエム

土砂降りの雨の中、僕は傘も差さずに家を飛び出した。大地。その名前が、頭の中で何度も反響する。忘れていたはずの記憶の扉が、軋みを立てて開こうとしていた。

あの公園へ向かう。僕と陽菜と大地が、いつも三人で集まっていた場所。雨に打たれたブランコが、虚しく揺れている。その足元に、それを見つけた。今まで見たこともないほど大きく、あらゆる光を内包した、虹色のプリズム。それはまるで、砕かれた希望の欠片そのものだった。

これが、陽菜がずっと抱えていた秘密の核心なのだと直感した。僕は震える手でそれを拾い上げる。ごめん、陽菜。心の中で謝りながら、僕はそのプリズムに、強く、強く指を押し当てた。

――閃光。流れ込んできたのは、陽菜の記憶ではなかった。

それは、紛れもなく僕自身の記憶だった。

小学三年生の夏の日。蝉の声が降り注ぐ、あの公園。僕と陽菜と大地が、秘密基地にしていた大きな樫の木の下で遊んでいる。僕たちは、近くの工事現場からくすねてきた錆びた鉄パイプを、「伝説の剣」と呼んで振り回していた。

些細なことで、僕と大地は喧嘩になった。理由はもう思い出せない。ただ、悔しくて、腹が立って、僕はとんでもない嘘をついた。「お前の母さん、お前のこと嫌いだって言ってたぞ!」。我ながら最低の嘘だった。大地は真っ赤な顔で僕を睨みつけ、そして泣きながら走り出した。

「待って、大地!」

陽菜の悲鳴のような声が響く。僕は呆然と立ち尽くしていた。大地は道路に飛び出した。そこに、一台のトラックが――。

ブレーキの軋む音。衝撃音。そして、静寂。

僕の嘘が、大地を殺した。

その瞬間、僕の世界は砕け散った。耐えきれない罪悪感と恐怖。「忘れたい」。僕は心の底から、血を吐くように願った。この記憶を、この一日を、僕の人生から消し去ってしまいたい、と。その願いが、この虹色の巨大なプリズムを生み出したのだ。僕は自分自身で、最も大切な記憶と感情を切り捨てていた。

陽菜はずっと知っていたのだ。僕が記憶を失っていることも、その原因も。彼女は僕を傷つけまいと、一人でこの重すぎる真実を何年も抱え続けてきた。僕が「サイレント・フィルム」として見ていた、泣いている僕の背中。あれは、事故の直後、何もかも忘れてただ泣きじゃくる僕を、陽菜が慰めてくれていた場面だったのだ。彼女の苦しそうな顔の意味を、僕は今、ようやく理解した。

第四章 夜明けのプリズム

雨はいつの間にか上がっていた。僕は虹色のプリズムを握りしめたまま、陽菜の家の前に立っていた。インターホンを押す指が、鉛のように重い。

ドアを開けて出てきた陽菜は、僕の姿を見て息を呑んだ。僕が手にしているプリズムに気づき、その瞳が哀しみで揺れる。

「……思い、出したんだね」

か細い声だった。僕は、ただ、こくりと頷くことしかできなかった。

「ごめん」

やっとのことで絞り出した声は、ひどく掠れていた。

「僕が、忘れてて、ごめん。陽菜に、一人で全部背負わせて……本当に、ごめん」

涙が、後から後から溢れてきた。それは後悔の涙であり、陽菜への感謝の涙であり、そして、大地への贖罪の涙だった。

陽菜は何も言わず、僕の隣にそっと座り込んだ。

「湊のせいじゃないよ」

彼女は震える声で言った。

「あれは、事故だった。誰も悪くない。でもね、私、怖かったの。湊が全部思い出したら、壊れちゃうんじゃないかって。だから、言えなかった」

彼女も泣いていた。僕たちは、まるで失われた時間を取り戻すかのように、夜が明けるまで語り合った。大地の好きだったもの、三人で交わしたくだらない約束、そして、僕が忘れてしまっていた、たくさんの温かい記憶。

僕の部屋に戻った僕は、窓辺に並べたガラス瓶を手に取った。色とりどりのプリズムが、朝日を浴びて最後の輝きを放っている。他人の痛みを覗き見ることで自分を保っていた、空っぽだった僕。でも、もう必要ない。

僕は窓を開け、瓶を逆さにした。キラキラと光る無数のプリズムが、まるで宝石の雨のように空に舞い、そして、光の粒子となって溶けるように消えていった。最後に、僕が握りしめていた虹色のプリズムを空に放る。それはひときわ強い光を放ち、夜明けの空に吸い込まれていった。

忘れることは、救いじゃない。痛みも、後悔も、罪悪感も、すべて抱えたまま生きていく。それが、僕が選ぶべき道なのだ。

隣には、陽菜が立っていた。彼女は僕の手をそっと握る。その温かさが、何よりも確かなものとして僕に伝わってきた。

僕たちの本当の青春は、きっと、ここから始まる。失われた過去の上に、二人で新しい物語を築いていくのだ。空には、洗い流されたような青がどこまでも広がっていた。

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