琥珀に眠る君の夏

琥珀に眠る君の夏

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第一章 色褪せるノスタルジア

僕、高槻湊(たかつき みなと)が暮らすこの海辺の町には、少し変わった風習がある。「憶い交換(おもいこうかん)」と呼ばれる、年に一度の夏の夜の儀式だ。人々は、自らの最も大切な記憶を一つだけ選び、琥珀色の小さな結晶――「記憶晶石」へと変換する。そして、その夜、広場に集まった者たちで、誰が誰とも知れず、その晶石を交換し合うのだ。他人の温かい記憶を受け取る者もいれば、悲しい記憶を手放す者もいる。それは、魂のデトックスであり、共同体の奇妙な絆の形だった。

僕は、この儀式が苦手だった。一度晶石にして手放した記憶は、二度と自分の中には戻らない。曖昧な映像の断片として思い出せるかもしれないが、それに伴う匂いや温度、胸を締め付けるような感情は、永遠に失われる。だから僕は、高校二年生になる今まで、一度も憶い交換に参加したことがなかった。僕には、絶対に手放したくない記憶があったからだ。

それは、小学校の夏休みの記憶。隣に住んでいた幼馴染の栞(しおり)と二人で、裏山の秘密基地から見た、空を埋め尽くすほどの流星群。栞の驚いた顔、湿った草の匂い、遠くで鳴く虫の声。そのすべてが、僕の宝物だった。写真部の僕が初めてカメラを手にし、その完璧な一瞬を切り取った一枚の写真は、今でも机の上に飾ってある。

その異変に気づいたのは、今年の憶い交換の儀式を一週間後に控えた、蒸し暑い午後のことだった。額縁の中の写真が、まるで長い年月を経た古文書のように、ふわりと色褪せている。特に、隣で笑う栞の姿が、陽炎のように滲んでいた。

「嘘だろ……」

思わず呟き、写真を手に取る。昨日までは、確かに鮮やかな色彩を保っていたはずだ。胸騒ぎがして、僕は栞の家へと走った。

「湊? どうしたの、そんなに慌てて」

縁側で麦茶を飲んでいた栞は、僕の顔を見てきょとんとしている。彼女の黒髪が、潮風に優しく揺れていた。

「栞、これ……」

僕が差し出した写真を見て、彼女の表情からすっと色が抜けた。その目は、何かを諦めたような、ひどく寂しい色をしていた。

「……そっか。もう、そんな時期なんだね」

「どういうことだよ! なんで写真が色褪せるんだ? まるで、記憶が薄れていくみたいに……」

町には、不気味な噂があった。憶い交換に参加せず、強い記憶を独り占めし続けると、その記憶は罰として少しずつ腐り、消えていくのだと。

栞は、僕から視線を逸らし、遠くの水平線を見つめた。

「……仕方ないことだよ、きっと。形あるものは、いつか壊れるんだから」

その答えは、僕が求めているものではなかった。彼女は何かを知っている。僕の知らない、この町の秘密を。写真の中の栞が、まるで「さよなら」を告げているように見えて、僕はどうしようもない焦燥感に駆られていた。大切なものが、指の間から零れ落ちていく。その感覚だけが、やけに鮮明だった。

第二章 差し出された琥珀

写真の色褪せは、日を追うごとに進んでいった。栞の輪郭は曖昧になり、流星群のきらめきは鈍い光の染みに変わり果てていく。僕の頭の中にある記憶そのものも、まるで霧がかかったように不鮮明になっていく気がした。あの夜の草の匂いが思い出せない。栞の笑い声が、遠く聞こえる。

失うくらいなら。

手放した方が、ましだ。

僕は、生まれて初めて「憶い交換」に参加することを決意した。あの記憶を、誰かの手で、別の形で生き長らえさせることができるのなら。

決意を伝えると、栞は何も言わずに僕を見つめ、それから小さく頷いた。

「……分かった。手伝うよ」

記憶晶石の生成は、町の中心にある古い灯台守の家で行われる。熟練の「記憶師」が、特殊な装置を使って記憶を抽出するのだ。僕は栞に付き添われ、軋む木の階段を上った。

「どの記憶にするか、決めたの?」

道中、栞が尋ねた。彼女は毎年、憶い交換に参加している。どんな大切な記憶を、彼女は手放してきたのだろう。

「……決めたよ。もちろん、あの流星群の記憶だ」

僕がそう言うと、栞は一瞬、息を呑んだように見えた。その瞳が悲しげに揺れる。

「本当に……それでいいの? もっと、他の記憶じゃだめ?」

「一番大切なものじゃなきゃ意味がないんだろ? この儀式は。中途半端な記憶じゃ、この色褪せは止められない」

僕の言葉に、栞はそれ以上何も言わなかった。ただ、唇をきつく結んでいる。

記憶師の前に座り、僕は目を閉じた。頭に被せられたヘッドセットから、柔らかなパルスが流れ込んでくる。

「さあ、最も強く、鮮明に、その記憶を思い浮かべて」

記憶師の穏やかな声に導かれ、僕は意識を集中させる。夏の夜。秘密基地。隣にいる栞。だが、どうしても映像がはっきりと結ばない。色褪せた写真のように、ディテールが欠けている。

(ダメだ……これじゃ、晶石にできない)

焦りが募る。その時、ふと、全く別の光景が脳裏をよぎった。それは、去年の文化祭の準備の日。誰もいない放課後の美術室で、夕陽を浴びながら黙々と背景画を描く栞の横顔。ペンキの匂い。西日が彼女の髪を金色に染めていた、ただそれだけの、何でもない一瞬。

なぜか、その記憶は驚くほど鮮明だった。

(これなら……)

僕は、咄嗟に思い浮かべる記憶を切り替えた。流星群の夜ではなく、美術室の午後の記憶を。一番大切なものではないかもしれない。でも、今の僕が最も鮮やかに思い出せる、温かい記憶だった。

やがて装置が止まり、目の前の受け皿に、ころん、と小さな琥珀色の石が転がり出た。夕陽の光を閉じ込めたような、温かい色の晶石だった。それを手に取ると、僕の頭から、文化祭の記憶がすっぽりと抜け落ちていることに気づいた。寂しい、というよりは、不思議な感覚だった。

灯台を出ると、栞が心配そうな顔で待っていた。

「……大丈夫だった?」

「ああ」

僕は晶石を握りしめたまま頷いた。彼女は僕の手の中の琥珀を一瞥し、そして、何かを堪えるように、そっと目を伏せた。その横顔が、僕がたった今手放した記憶の中の彼女と、寂しげに重なって見えた。

第三章 砕かれたプリズム

憶い交換の夜が来た。浜辺には無数の提灯が灯され、町の誰もが、小さな琥珀を手に広場へと集まってくる。幻想的な光景だが、僕の心は落ち着かなかった。これから、見ず知らずの誰かの記憶と、僕の記憶が交換される。

儀式は静かに始まった。人々は輪になり、目を閉じる。合図と共に、右隣の人へ、自分の記憶晶石を渡していく。温かいもの、冷たいもの、ざらついたもの。いくつもの晶石が僕の手を通り過ぎていく。そして、鐘の音が鳴り響いた時、僕の手の中に残ったのは、ひんやりと冷たく、どこか儚げな光を放つ、小さな雫のような形の晶石だった。

それが、栞の晶石だと分かったのは、偶然だった。いや、運命だったのかもしれない。僕がその晶石を握りしめた瞬間、奔流のように、僕のものではない記憶が流れ込んできたのだ。

――それは、僕が大切にしていた、あの流星群の夜の記憶だった。

だが、視点が違った。僕の視点ではなく、栞の視点から見た光景だった。空を見上げる僕の横顔。驚きに目を見開く僕を見て、嬉しそうに微笑む彼女の感情。

(どうして……栞の晶石に、僕の記憶が?)

混乱する僕の脳裏に、次々と記憶が流れ込む。

――中学の卒業式。僕は友達と騒いでいて気づかなかったけれど、栞は校門の陰で、僕に渡すつもりだった花束を抱え、泣いていた。その記憶。

――高校の入学式。人見知りする僕を心配して、彼女がわざと明るく話しかけてくれた時の、少しだけ震えていた声。その記憶。

――僕が写真コンクールで落ち込んでいた時、夜遅くまで電話で励ましてくれた、あの夜の記憶。

それらはすべて、栞が「憶い交換」で手放してきた記憶の断片だった。そして、最後の記憶が流れ込んできた時、僕はすべてを理解した。

――事故だった。

小学校の夏休み、僕らは秘密基地の木から落ちた。僕は頭を打ち、流星群の夜を含む、その夏の一部の記憶を失ったのだ。絶望する僕を見かねた栞は、その年から、憶い交換に参加するようになった。

彼女は、毎年毎年、僕との思い出の中から、最も輝いている記憶を一つ選び、晶石に変えた。そして、その晶石を僕の枕元にそっと置き続けたのだ。他人の記憶晶石に触れても、通常はぼんやりとしたイメージしか伝わらない。だが、元々共有していた記憶だからか、あるいは彼女の強い想いのせいか、その記憶は僕の中で再構築され、まるで僕自身の記憶であるかのように根付いた。

彼女は、僕が失った夏を取り戻すために、自分の青春のひとかけら、ひとかけらを、僕に与え続けてくれていたのだ。

僕が宝物だと思っていた記憶は、栞がくれたものだった。

僕の写真が色褪せたのは、罰などではなかった。記憶の源である彼女自身が、度重なる抽出で摩耗し、限界に達していた証だったのだ。彼女は、僕の記憶を守るために、自分の中の僕を、少しずつ消していくしかなかった。

握りしめた雫形の晶石が、砕け散ってしまいそうなほど悲しく光っていた。広場の喧騒が、遠くに聞こえる。僕は、自分の愚かさと、彼女の途方もない優しさに打ちのめされ、その場に立ち尽くしていた。

第四章 夜明けのプロローグ

僕は走っていた。人波をかき分け、提灯の明かりが届かない、暗い砂浜へと。栞は、きっとそこにいる。すべてを差し出して、空っぽになった心が還る場所に。

案の定、彼女はそこにいた。波打ち際に一人、裸足で佇み、寄せては返す波をただじっと見つめていた。その背中は、あまりにも小さく、儚く見えた。

「栞っ!」

僕の声に、彼女の肩がびくりと震える。ゆっくりと振り返ったその顔には、何の感情も浮かんでいなかった。まるで、美しいガラス玉から魂が抜き取られてしまったかのように。

「……湊。どうして、ここに」

か細い声だった。

「どうしてって……お前のせいだろ! なんで、何も言ってくれなかったんだ!」

僕は彼女の腕を掴んでいた。溢れ出す感情を抑えられない。怒りなのか、悲しみなのか、感謝なのか、もう分からなかった。

「……言えるわけ、ないじゃない」

栞の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

「だって、それは湊が『湊自身の宝物』として、大切にしてくれた記憶だから。あれはもう、私のものじゃなくて、湊のものだったから」

その言葉に、胸を抉られるような痛みが走った。僕は、彼女がくれた光を自分のものだと信じ込み、その光が翳ることだけを恐れていた。彼女がその光を生み出すために、どれほどの闇を歩いてきたのかも知らずに。

僕は、掴んでいた腕をそっと離し、自分のポケットから、あの琥珀色の晶石を取り出した。文化祭の午後の記憶。僕が、初めて自分の意志で「大切だ」と感じた、ささやかな記憶。

それを、栞の冷たい手のひらに乗せた。

「これは、俺の記憶だ。去年のお前だよ。美術室で、夕陽に照らされてた」

栞が、驚いて僕の顔を見る。

「この記憶は、お前がくれたものじゃない。俺が、俺の目で見て、心に刻んだ記憶だ。だから、今度は俺がお前にあげる」

僕の記憶晶石が、彼女の手の中で、温かい光を放ち始めた。

「俺は、お前がくれた夏を忘れない。絶対に。でも、失くしたものを数えるのはもう終わりにする。これからだ。これから、二人で新しい記憶を作っていこう。俺がお前のために、何度でもシャッターを切るから」

栞の瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出した。彼女は、僕が渡した晶石を胸に強く抱きしめる。それは、失われた記憶の代わりにはならないかもしれない。でも、それは間違いなく、空っぽだった彼女の世界に灯った、新しい最初の光だった。

僕たちは、夜が明けるまで、砂浜でたくさんのことを話した。失われた記憶のこと、これからのこと。東の空が白み始め、世界が新しい色を取り戻していく。僕のポケットには、栞がくれた雫形の晶石が、今はもう穏やかな光を宿して眠っている。

記憶は、琥珀のように固まって、過去に閉じ込められるものじゃない。それは、誰かに手渡し、未来へと繋いでいく、光のバトンなのかもしれない。僕らは多くのものを失った。でも、それ以上に大切なものを、この夜明けの浜辺で見つけたのだ。

僕と栞の、本当の夏が、今、始まろうとしていた。

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