霞の心臓、満ちる色彩
第一章 霞む境界線
僕、空木透(うつぎ とおる)の身体は、心のありようを映す水面のようなものだった。喜びが胸を満たせば、その輪郭はくっきりと現実を掴み、友人の肩を叩く手のひらには確かな重みが宿る。けれど、深い孤独や虚無が心を浸すと、身体はたちまち霞のように色を失い、存在そのものが曖昧になる。風が僕の身体を通り抜けていくような、あの心許ない感覚には、もう慣れてしまった。
十七歳の誕生日を迎えた朝、世界は色彩を増したように見えた。同級生たちの腕や首筋から、小さな光の粒が生まれ始めていたからだ。それは『感情の雫』。青春期に経験した強烈な記憶が、その熱を保ったまま結晶化したものだ。教室には、淡い桜色の恋の雫や、燃えるような橙色の悔しさの雫が、甘く切ない香りを漂わせていた。誰もが、一年という限られた時間だけ許されるその輝きを、誇らしげに、あるいは少し照れくさそうに身に纏っていた。
僕を除いては。
僕の肌からは、ただの一粒たりとも雫は生まれなかった。僕の十七年間は、雫を結ぶほどの熱を持たなかったのだろうか。窓の外を眺める僕の指先は、また少し、透き通り始めていた。
第二章 盗まれた色彩
「透、最近元気ないね」
隣の席の浅葱陽菜(あさぎ ひな)が、心配そうに僕の顔を覗き込んだ。彼女の腕からは、いつも向日葵のような鮮やかな黄色の雫が、いくつも陽気に滲み出ていた。それは去年の夏、二人で自転車を飛ばして見に行った、水平線に沈む夕日の記憶なのだと彼女は笑っていた。
その日、僕が何気なく彼女の腕に触れた時だった。
ちり、と指先に微かな熱が走り、彼女の雫が一瞬だけ強く輝いたかと思うと、その光が僕の身体に吸い込まれていくような奇妙な感覚があった。陽菜が「あれ?」と小さく首を傾げた。彼女の腕にあった雫の一つが、心なしか色褪せて見えた。
それからだ。陽菜の快活な笑顔に、少しずつ影が差し始めたのは。彼女を彩っていた向日葵色の雫は日に日に輝きを失い、それに比例するように、彼女の口数は減り、瞳から光が奪われていった。
僕は気づいていた。彼女が色を失うたび、僕の霞んでいた身体が、ほんの少しだけ存在感を増していることに。僕は彼女の青春を、その輝かしい記憶ごと、盗んでいるのではないか。その恐ろしい疑念が、僕の心を冷たく蝕んでいった。
第三章 色のない石の囁き
街では『無色病』の噂が囁かれ始めた。十七歳の若者たちが、まるで燃え尽きたかのように急速に感情を失い、無気力になっていく奇病。原因は不明。ただ、青春の輝きそのものが奪われていくのだという。
僕は自分がその元凶なのではないかという恐怖から、誰とも触れ合うことを避けるようになった。部屋に閉じこもり、掌の中にある小さな石をただ握りしめる。幼い頃から肌身離さず持っている、何の変哲もない、色のない石。不思議なことに、この石だけは僕の身体のように透き通ることはなく、どんな時も変わらない確かな存在感で僕の手の内にあった。
ドアをノックする音が響く。陽菜だった。
「透、大丈夫? 学校、ずっと休んでるから……」
ドア越しに聞こえる彼女の声は、かつての張りを失い、か細く震えていた。僕が扉を開けると、彼女の腕の雫はほとんど消えかかっていた。その姿に、罪悪感が刃となって胸を抉る。
「ごめん……僕のせいだ」
絞り出した声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
「何言ってるの……?」
「君の記憶を、感情を、僕が……!」
僕は彼女に触れることもできず、ただ後ずさった。僕の指先は罪悪感でほとんど見えなくなっていた。陽菜の瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。それは、色も、温度も感じられない、ただの水滴のように見えた。
第四章 濾過される真実
このままでは、陽菜が消えてしまう。僕が消してしまう。
恐怖を振り払うように、僕は彼女の元へ走った。もう盗むのはやめだ。返す方法が分からなくても、せめて、何が起きているのか確かめなければ。僕は震える手で、彼女の細い腕を掴んだ。
「もう一度、君の雫に触れさせてほしい」
陽菜はこくりと頷いた。僕は目を閉じ、意識を集中させる。――吸い取るな。受け取るんだ。彼女の痛みを、悲しみを、そしてかつてあった喜びの全てを。
その瞬間、凄まじい奔流が僕の中に流れ込んできた。陽菜が見た夕日の燃えるような色彩。初めてコンクールで賞を取った時の、心臓が跳ね上がるような高揚感。そして、僕に向けられた、数えきれないほどの優しい笑顔。彼女の青春が、僕の中で鮮やかに再生される。
だが、流れ込んできたのはそれだけではなかった。見知らぬ誰かの、嫉妬のどろりとした雫。絶望の氷のように冷たい雫。世界中の、ありとあらゆる青春の感情が、僕という器に注ぎ込まれてくる。身体が引き裂かれそうなほどの苦痛。しかし、その混沌の奥で、何かが静かに濾過されていく感覚があった。濁った水から不純物が取り除かれ、一筋の純粋な光だけが抽出されていく。
掌の『色のない石』が、初めて微かな熱を帯びて輝いた。
――ああ、そうか。僕は『器』であり、同時に『濾過装置』だったのか。
世界中の青春の悲喜こもごもを一度受け止め、その中から濁りのない純粋な『希望』の感情だけを取り出し、再び世界へ還すための。
第五章 約束の夜明け
僕に残された時間は、もう僅かだった。十八歳の誕生日が、僕という個の存在の終着点だ。
僕は陽菜に全てを話した。僕が『濾過装置』として生まれたこと。もうすぐこの世界から消え去ること。そして、それは悲しい終わりではないこと。
陽菜は静かに涙を流していたが、やがて顔を上げた。その瞳には、かつての強さが戻り始めていた。
「透が世界の一部になるなら、私はもう寂しくないよ」
彼女はそう言って、震える手で僕の頬に触れた。
「忘れてしまっても、きっと覚えている。あなたからもらった、この胸の温かい輝きだけは」
それは、僕たちが交わした最後の約束になった。
僕は自分の内で結晶化した、一点の曇りもない光の雫を指先に集めた。それは、数多の感情を濾過して生まれた、純粋な『希望』の雫。僕はそれを、そっと陽菜の額に触れさせた。雫は彼女の肌に溶けるように染み込み、その瞬間、陽菜の瞳に鮮やかな向日葵の色が、力強く蘇った。
第六章 満ちる世界、空ろな僕
十八歳の誕生日。夜明けの光が、窓から静かに差し込んでくる。
僕の身体は、もうほとんど輪郭を失っていた。足元からゆっくりと光の粒子に変わり、空気に溶けていく。痛みも、悲しみもない。ただ、世界と一つになるという、途方もない安堵感だけがあった。
陽菜、ありがとう。僕をただの化け物ではなく、役割のある存在だと教えてくれた君に。
さようなら、僕が生きた世界。
心の中で呟いた瞬間、僕の身体は完全に透明になり、個としての存在が消滅した。次の瞬間、僕がいた場所から、無数の色鮮やかな雫が噴水のように溢れ出した。赤、青、黄、緑――あらゆる青春の色を湛えた雫が、光の蝶のように空へと舞い上がり、世界中に散っていく。それはまるで、地球という惑星が初めて見る、希望に満ちた朝焼けのようだった。
第七章 青春の残響
数年の時が流れた。『無色病』は、いつしか人々の記憶からも薄れ、過去の奇妙な現象として語られるだけになった。
大学生になった陽菜は、時折、十七歳の頃の記憶を辿ろうとすることがあった。不思議なほどに曖昧で、霞がかっている。けれど、胸の中心には、決して消えない温かい光が灯っているのを感じていた。悲しいことがあっても、挫けそうになっても、その光がいつも彼女を支えてくれた。
ある晴れた日の午後、彼女はキャンパスの芝生に座り、空を見上げていた。その時、一瞬だけ、空に虹色の光が瞬いたような気がした。
「……透」
誰の名前だったか、もう思い出せない。でも、その響きはとても懐かしく、胸の奥を優しく揺さぶった。
彼女の掌には、陽の光を受けてきらりと輝く『色のない石』が握られていた。それは、誰の感情でもない、未来への無限の『可能性』を秘めた石。世界中のどこかで、今日もまた、新たな青春が芽生えている。その輝きの一つ一つに、かつて空木透という少年が存在した証が、永遠に刻み込まれていることを、もう誰も知らなかった。