虹の残香
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虹の残香

第一章 透きとおる境界線

リナの指先は、いつも少しだけ透き通っていた。カフェの白いマグカップを包むと、指の向こうに青い花柄がぼんやりと滲む。それは彼女にとって、生まれついての景色だった。

「ねえ、リナ、聞いてる?」

向かいに座るクロエが、身を乗り出してリナの顔を覗き込む。弾むような声。太陽を閉じ込めたみたいな明るい笑顔。リナが世界で最も焦がれる光。

「うん、聞いてるよ。新しいパン屋さんの話」

リナは微笑み返した。だがその瞬間、クロエの熱っぽい眼差しに共鳴してしまったのか、指先の透明度がぐっと増した気がした。慌ててテーブルの下に手を隠す。

この体質は、秘密だった。他者に深く共感すればするほど、私の体は世界から薄れていく。逆に心を閉ざせば、鉛のように重く固まり、動けなくなる。だから私はいつも、人との間に薄い膜を張り、透きとおる境界線の上を歩いてきた。

最近、世間では奇妙な病が囁かれていた。『絆の病』。人々の胸に宿る『絆の種』が、美しい『共鳴石』になることなく、黒く枯れてしまうのだという。ニュースキャスターが深刻な声で語るその病が、自分の体の異変と無関係ではないような、冷たい予感が胸をよぎった。

窓の外では、細い雨がアスファルトを静かに濡らしていた。ガラスを伝う雨粒の向こうで、街の灯が滲んで揺れる。まるで、透きとおっていく私の輪郭みたいに。

第二章 枯れた種と虹の涙

その日は、教室の空気が張り詰めていた。クラスメイトの一人、ミカが授業中に倒れたのだ。駆けつけた教師に抱えられた彼女の制服の胸元が僅かにはだけ、リナは見てしまった。本来なら淡い光を放っているはずの『絆の種』が、まるで燃え尽きた炭のように黒く変色していたのを。

『絆の病』。

噂は現実となって、すぐそばまで迫っていた。教室は水を打ったように静まり返り、誰もが自分の胸元を無意識に押さえている。誰かの嗚咽が、その静寂を鋭く引き裂いた。

リナは、ミカの苦痛と、周囲の生徒たちの恐怖を、まるでスポンジのように吸い込んでいた。共感の波が押し寄せ、視界がぐらりと歪む。足元がおぼつかなくなり、壁に手をつくと、その手のひらはほとんど向こう側の壁紙の模様を透かしていた。

たまらなくなって教室を飛び出し、誰もいない渡り廊下で蹲る。どうして、と声にならない声が漏れた。ミカの青白い顔が、枯れた種が、瞼の裏に焼き付いて離れない。ぽろり、と涙が頬を伝い、コンクリートの床に落ちた。

その時だった。

涙が染みを作ったその場所に、小さな光の粒が生まれていることに気づいた。目を凝らすと、それは七色にきらめく、微細な結晶の粉だった。指でそっと掬い上げると、ほんのりと温かい。まるで、零れ落ちた感情そのものが、形を得たかのようだった。

第三章 噂の真相

自分の体に何が起きているのか。世界を蝕む病の正体は何なのか。答えを求めて、リナは街の片隅にある古い図書館に通い詰めた。埃とインクの匂いが満ちる静寂の中で、彼女は『共鳴石』に関する古文書を貪るように読み解いていった。

そして、ある一冊の、黄ばんだページに記された記述に、リナは息を呑んだ。

『共鳴石の育成には生命の輝きを要す。至高の共鳴は、最も近しい魂の輝きを糧とし、その絆を永遠の結晶へと昇華させる』

血の気が引いていくのが分かった。つまり、人々は自分の『絆の種』を育てるために、無意識のうちに、最も愛し、最も共感する相手から生命エネルギーを微量ずつ吸収していたのだ。『絆の病』は、おそらくそのシステムの均衡が崩れた結果だった。奪い合うエネルギーの連鎖が、どこかで断ち切られてしまった。

では、私は?

私は、奪うのではなく、与え続けていたのではないか。

だから、私の体は希薄になっていく。他人の喜びや悲しみに共鳴するたびに、私の存在そのものが、生命の輝きが、相手へと流れ出していたのだ。指先から零れ落ちる虹色の粉は、その証明だった。

冷たい真実が、石のように胃の底に沈む。これまでずっと孤独だと思っていたこの体質は、誰よりも深く、誰よりも愚直に、他者と繋がっていた証だったのだ。

第四章 クロエの影

リナが真実に気づいた頃から、クロエの様子が目に見えておかしくなっていった。あれほど輝いていた笑顔には影が差し、大好きな甘いものにも手を付けなくなった。

「最近、なんだかすごく疲れるの」

そう言って力なく笑うクロエの顔色は、明らかに悪い。リナは恐ろしくなった。クロエは、いつだって私に一番の共感を寄せてくれた。私の痛みを自分のことのように感じ、私の喜びを自分のことのように笑ってくれた。

まさか。

その「まさか」は、最悪の形で現実のものとなった。ある放課後、リナと別れて一人で坂道を下っていくクロエの背中が、ふらりと揺れた。リナが駆け寄ると、クロエは胸を押さえて苦しそうに息をしていた。

「大丈夫…、ちょっと、眩暈が…」

強がるクロエのブラウスの襟元から、それが覗いていた。輝きを失い、ひび割れ、枯れ始めている彼女の『絆の種』。

ああ、とリナは天を仰いだ。神様、なんて残酷なんだ。

クロエが私を想ってくれる、その優しい共感が、彼女自身の命を蝕んでいた。私がクロエを想い、共感すればするほど、私の体は透きとおり、その純粋なエネルギーを受け取ったクロエの種は、世界の歪んだ法則の中で悲鳴を上げていた。

私たちの友情そのものが、クロエを枯らしていた。

第五章 虹色の決意

もう、迷っている時間はない。リナの体は、すでに夕暮れの光を朧げに透かすほど希薄になっていた。声も、風にかき消されそうなほどか細い。でも、心だけは、かつてないほど強く、確かにここにあった。

リナはクロエの手を引いた。ほとんど重みを感じない、頼りない手だった。

「クロエ、お願い。一緒に行ってほしい場所があるの」

二人がたどり着いたのは、街を見下ろす丘の上にある、静かな湖だった。茜色に染まった空が、鏡のような水面に映り込んでいる。

「リナ…?どうしたの、体…」

クロエが不安そうにリナを見つめる。彼女の瞳には、夕陽を透かしたリナの輪郭が、蜃気楼のように揺らめいて映っていた。

「ごめんね、クロエ。今まで、言えなかった」

リナは、自分の体質のこと、世界の法則のこと、そして、どれだけクロエを大切に想っているかを、途切れ途切れの言葉で伝えた。

「だから、これは私のわがまま。私の、最後の贈り物」

クロエは何も理解できないまま、ただ涙を浮かべて首を横に振る。リナはそんな彼女に、最後の力を振り絞って微笑みかけた。それは、今までで一番、心の底からの笑顔だった。

第六章 透明なエコー

「クロエ、ずっと、ずっと一緒にいるよ」

リナはそっと、衰弱した親友を抱きしめた。

その瞬間、リナの体は内側から眩い光を放った。それは単なる光ではなかった。幾千、幾万の虹色の結晶の粉となり、彼女の存在そのものが、愛情と共感のエネルギーへと変容していく。

「リナっ!」

クロエの悲鳴が響く。だが、その声に応える形はもうない。

リナだった光の全てが、優しく、そして暖かく、クロエの胸へと流れ込んでいく。枯れかけていた『絆の種』に、虹色の光が注がれ、そのひび割れを癒し、輝きを満たしていく。

やがて光が収まった時、リナの姿はどこにもなかった。ただ、きらきらと輝く虹色の粉が、夕暮れの風に舞い、湖面を渡っていくばかり。

クロエの胸の中で、一つの奇跡が起きていた。黒く枯れかけていた種は消え、そこには完璧なカットを施された宝石のような、温かい光を放つ『共鳴石』が静かに脈打っていた。その輝きは、どこか懐かしい、優しい色をしていた。

第七章 君のいない世界で

クロエは、湖畔の草の上で目を覚ました。どれくらい眠っていたのだろう。夕日はとっくに沈み、空には満月が浮かんでいた。

ひどく悲しい夢を見ていた気がする。誰か、とても大切な人を失ったような、胸が張り裂けそうな喪失感。なのに、その人の名前も、顔も、どうしても思い出せない。

ただ、胸の奥だけが、信じられないほど温かかった。

そっと胸元に触れると、服の上からでも分かる。そこには、完成した『共鳴石』があった。手に入れた幸福の証。それなのに、なぜだろう。涙が止めどなく溢れてくる。

それから、世界は少しずつ変わった。『絆の病』は嘘のように消え去り、人々は再び穏やかな絆を取り戻していった。

クロエは日常に戻った。カフェで一人、窓の外を眺める。ふと、風に乗って虹色の光の粒が舞ったような気がして、空を見上げた。その瞬間、胸の共鳴石が、それに呼応するように、とくん、と優しく脈打つ。

彼女はもう、親友の名前を思い出すことはないだろう。

けれど、冷たい風が吹く日も、心が挫けそうな夜も、胸に宿るその温かい光が、彼女を一人にはしない。それは形を失った友情のエコー。永遠に響き続ける、透明な愛の残香。

クロエはそっと胸を押さえた。大丈夫。私は、一人じゃない。

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