第一章 色のない風景
僕、水島湊(みずしまみなと)には、秘密がある。他人の友情が「色」として見えるのだ。それは生まれつきの、呪いのような祝福だった。
大学のキャンパスを歩けば、世界は鮮やかな色彩で溢れている。肩を並べて笑い合う女子学生たちの間には、柔らかな桜色の靄(もや)が漂い、サークルの仲間たちの間には、エネルギッシュなオレンジ色の光の帯が幾重にも絡み合っている。それは関係性の濃淡や性質によって、絹糸のように繊細だったり、陽だまりのように温かかったり、時にはオーロラのように揺らめいたりした。僕はその光景を、ショーウィンドウの向こうの美しい商品を眺めるように、ただ見つめることしかできない。
なぜなら、僕自身は誰ともその「色」を紡ぐことができないからだ。僕の周囲は、いつも真空のように無色透明だった。
「湊、ぼーっとしてどうしたんだ? 講義、終わるぞ」
声の主は、柏木陽(かしわぎよう)。僕の、たった一人の親友だ。屈託のない笑顔で僕の肩を叩く。その陽との間にさえ、僕には何の色も見えなかった。他の誰かと陽が話す時、彼の周囲には快活な黄色の光が灯る。それなのに、僕との間には、何の色彩も、光の糸一本すら存在しないのだ。
「……ああ、ごめん。ちょっと考え事してた」
僕は曖昧に笑って誤魔化す。陽は「またかよ」と呆れたように笑い、僕の背中を押して教室の外へと促した。彼の大きな手のひらの温かさは感じるのに、僕らの関係性を証明する色は、どこにもない。
この能力のせいで、僕は友情というものを信じきれずにいた。人々が口にする「親友」という言葉の裏で、僕はその関係を繋ぐ色がどれほど脆く、細いものかを知っている。些細なことで変色し、ぷつりと切れてしまう様を、何度も見てきた。だから、色が見えない陽との関係は、果たして本物なのだろうか。僕が一方的に「親友」だと思い込んでいるだけで、陽にとっては、数いる友人の一人に過ぎないのではないか。そんな疑念が、黒い染みのように心を蝕んでいた。
その日の昼休み、事件は起きた。学食で陽と向かい合って座っていると、彼の所属するテニスサークルの仲間が数人、テーブルにやってきた。
「よお、陽! 今度の合宿の件なんだけどさ」
陽が彼らの方へ向き直った瞬間、僕の目は捉えてしまった。陽と仲間たちの間に、燃えるような、鮮やかなオレンジ色の光が、太い綱のように力強く生まれるのを。それは、僕が今まで見たどんな色よりも濃く、揺るぎない結束を示していた。
その光景は、僕の胸を鋭利な刃物で抉るようだった。陽が僕に向き直ると、そのオレンジ色は嘘のように消え、再び僕らの間にはがらんとした無色が広がる。
「ごめん、湊。で、何の話だっけ?」
陽の声が、やけに遠くに聞こえた。僕はカチャリとフォークを皿に置く。食欲は、もうどこかへ消え失せていた。僕らの間にあるこの透明な空間は、友情の不在証明なのだ。僕がどれだけ陽を大切に思っていても、彼からの色が見えない限り、この関係は偽物だ。
僕はこの時、決意した。何としてでも、陽との間に「色」を生み出してみせると。そうでなければ、僕の心は孤独に耐えきれず、壊れてしまうだろう。
第二章 渇望と歪み
それからの僕は、まるで何かに取り憑かれたようだった。陽との間に色を紡ぐことだけを考え、行動した。
まず、陽の好きなものを徹底的に真似ることから始めた。彼が聴いているインディーズバンドのCDを全て買い揃え、歌詞を覚え、彼が好きだと言っていた映画監督の作品を徹夜で観た。
「陽、このバンドの新譜、最高だよな」
「この監督の初期作品、光の使い方が天才的だ」
僕がそう熱っぽく語ると、陽は「お、湊もハマったのか! 嬉しいな」と喜んでくれた。その瞬間、僕は期待を込めて僕らの間にある空間を見つめる。だが、そこに色は生まれなかった。ただ、陽の笑顔が少しだけぎこちなく見えた気がした。
次に、物理的な接触を増やしてみた。講義の合間に理由もなく肩を叩いたり、彼の持ち物を「見せて」と手に取ったりした。だが、僕の行動は不自然だったのだろう。陽は「最近どうしたんだ、湊。なんか変だぞ」と、困惑した表情を浮かべるようになった。その彼の表情を見るたびに、僕の心は焦りで黒く塗りつぶされていくようだった。
僕の渇望は、やがて歪んだ嫉妬へと変わっていった。陽が、あのオレンジ色の光を放つサークルの仲間たちと楽しそうに話しているのを見かけると、胸の奥がどす黒い感情で満たされた。まるで、自分だけが仲間外れにされたような気分だった。僕は彼らの輪に無理やり割って入り、陽の注意を自分に向けようと必死になった。
「陽、次の講義、一緒に行こうぜ」
僕が陽の腕を掴むと、サークルの仲間の一人が怪訝な顔で僕を見た。その視線に気づいた陽は、僕の手をそっと外し、「ごめん、こいつらと話があるから、先行っててくれ」と、少しだけ低い声で言った。
その言葉は、僕を突き放す冷たい壁のように感じられた。僕らの間の透明な空間が、以前よりもさらに広く、冷たくなった気がした。帰り道、一人で歩くアスファルトに、冷たい雨が降り始める。僕の能力は、祝福なんかじゃない。他人の幸福な関係性をただ見せつけ、自分の欠落を浮き彫りにするだけの、残酷な呪いだ。
どうしてなんだ、陽。僕たちは、親友じゃなかったのか? 小学校からの付き合いで、誰よりもお互いのことを知っているはずなのに。なぜ、君は僕にだけ、その証を見せてくれないんだ。
雨粒が頬を伝う。それが涙なのか雨なのか、もうわからなかった。色を求めるあまり、僕は陽との関係で最も大切な何かを、自らの手で壊しているのかもしれない。そんな恐怖に襲われても、僕はもう、引き返すことができなかった。
第三章 無色の真実
絶望の縁を彷徨っていた僕に、転機が訪れたのは、本当に偶然のことだった。必修単位のために仕方なく履修していた「比較民俗学」のレポート提出で、老教授の研究室を訪れた時のことだ。
白髪を無造作に束ねた篠崎教授は、僕のレポートを一瞥すると、「君、面白いことに興味があるんだね」と、分厚い眼鏡の奥の瞳を細めた。僕がレポートのテーマに選んだのは、『世界各地の伝承に見られる“縁”の可視化について』だった。もちろん、自身の能力を手がかりに、藁にもすがる思いで調べたものだ。
「水島君、君は“情の澱(おり)”という言葉を聞いたことがあるかね?」
教授は埃っぽい書架から、和綴じの古びた文献を取り出してきた。
「これは江戸時代中期の、ある修験者の手記の写しなんだがね。この男は、君と同じように、人々の間の繋がりを“色”として見ることができたらしい」
僕は息を飲んだ。自分以外に、同じ能力を持つ人間がいた…?
「彼は最初、その能力を神仏からの授かりものだと信じていた。色鮮やかな関係を築く人々を羨み、色のない関係を卑下した。だが、ある時気づいたんだ。彼が見ていた“色”とは、友情や愛情そのものではない。それは、関係性にまとわりつく、不純物の色だったのだと」
「不純物…ですか?」
「そう。期待、依存、見返りを求める心、同情、執着…そういった、純粋な関係性を濁らせる感情の“澱”だよ。手記にはこうある。『誠の絆に、色は無し。水が清ければ清いほど無色透明であるように、真の信頼はただそこに在るのみ。色を求めしは、己の心の濁りを映す鏡なり』とね」
教授の言葉が、雷鳴のように僕の頭蓋に響き渡った。
色を求める心。それは、僕自身の心の濁り…?
僕が追い求めていた、あの鮮やかな桜色や、嫉妬したオレンジ色は、友情そのものではなく、依存や同調圧力といった「澱」の色だったというのか。だとすれば、僕が陽との間に見ていた「無色」は…。
「教授…では、何の色もない関係というのは…」
「この手記によれば、それこそが最も稀有で、尊い繋がりの証だということになる。何の期待も、見返りも求めない。ただ相手の存在そのものを肯定し、受け入れている。そんな、奇跡のような均衡の上に成り立つ関係…それが“無色透明”の正体かもしれん」
全身の血が逆流するような衝撃だった。僕がずっとコンプレックスに感じ、不在の証明だと思い込んでいた「無色」こそが、最高の友情の証だった…?
陽との日々が、走馬灯のように頭を駆け巡る。僕が悩んでいる時、彼は何も聞かずにただ隣にいてくれた。僕が成功した時、自分のことのように笑ってくれた。そこには、見返りを求める心も、依存する重さもなかった。ただ、水のように、空気のように、当たり前に僕のそばにいてくれた。
僕は、なんて愚かだったんだろう。世界で一番美しい宝物を足元に置きながら、道端に転がるガラス玉の輝きに目を奪われていたなんて。
陽がサークルの仲間と見せていたオレンジ色は、仲間意識という名の同調圧力や、集団への帰属欲という「澱」だったのかもしれない。僕が他の人々と紡げなかったのは、僕が心のどこかで、相手に「色」という見返りを求めていたからだ。
でも、陽との間には、それが必要なかった。僕たちは、ただ、僕たちであればよかったのだ。
「ありがとうございました…!」
僕は教授に深々と頭を下げ、研究室を飛び出した。雨はすっかり上がっていた。水たまりに映る空は、どこまでも澄み渡っている。早く、陽に会わなければ。伝えたいことが、たくさんあった。
第四章 ただ、隣にいること
僕は大学の構内を走り、陽を探した。息を切らして見つけた彼は、中庭のベンチに一人で座って、ぼんやりと空を眺めていた。僕の姿に気づくと、少し驚いたように目を見開いた。
「湊…」
「陽っ…!」
僕は彼の前に立つと、肩で息をしながら、言葉を紡いだ。うまく話せる自信はなかったが、それでも、伝えなければならなかった。
「俺、ずっとお前に言えなかったことがあるんだ。俺には、人の友情が色になって見える。でも、お前との間には、何の色も見えなかった。だから、不安だった。俺たちの関係は、本物じゃないんじゃないかって…」
陽は黙って僕の話を聞いていた。彼の表情は、夕暮れの逆光でよく見えない。
「色が見たくて、必死だった。お前の好きなものを真似したり、無理やり気を引こうとしたり…最低なこと、たくさんした。ごめん。でも、俺、今日わかったんだ。間違ってたのは、俺の方だった」
僕は一度言葉を切り、大きく息を吸った。
「俺たちに色がないのは、それが本物だからだったんだ。何も混じってない、透明な関係だからだったんだ。俺、それに気づかなくて…お前を傷つけた。本当に、ごめん」
涙が、堪えきれずに溢れた。自分の愚かさと、陽への申し訳なさで、胸が張り裂けそうだった。俯く僕の頭に、ぽん、と温かいものが置かれた。陽の手だった。
「…そうか。お前、そんなことで悩んでたのか」
顔を上げると、陽は、いつものように穏やかに笑っていた。
「色なんて見えなくても、そんなのずっと前から知ってたよ。俺たちは、俺たちだろ? それ以外に、何かいるのか?」
その言葉に、僕の心のダムは完全に決壊した。嗚咽が漏れる。陽は何も言わず、ただ僕の肩を抱いてくれた。彼のTシャツ越しに伝わる体温が、どんな鮮やかな色よりも、温かく、確かなものに感じられた。
僕が見ていた世界は、ひっくり返った。呪いだと思っていた能力は、本当の繋がりとは何かを教えてくれる、羅針盤になった。孤独だと思っていた僕の足元には、誰よりも固く、透明な絆が結ばれていた。
それ以来、僕の目に映る世界から色が消えたわけではない。キャンパスを行き交う人々は、今も様々な色の糸を揺らめかせている。でも、もうその色に心を乱されることはない。僕は知っているからだ。本当に大切なものは、目には見えない。色にも、形にもならない。
夕暮れの道を、陽と二人で並んで歩く。言葉は少ない。でも、僕らの間の無色透明な空間は、もう空虚ではなかった。そこには、言葉にできないほどの信頼と、安らぎと、名前のつけられない温かい感情が満ちている。
ふと、陽が僕を見て、悪戯っぽく笑った。
「で、今の俺たちって、何色に見えるんだ?」
僕は笑って首を振る。
「さあな。でも、多分、世界で一番きれいな色だと思うよ」
僕らの輪郭を、夕日が優しく縁取っていた。もう、色を探す必要はない。ただ、隣にいること。その温かさこそが、僕たちの全てだった。