リフレイン・メモリー

リフレイン・メモリー

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第一章 螺旋のささやき

朝焼けがグラデーションを描く空の下、古い石畳の道で、アサヒはつま先を僅かに引っかけた。危ない、と思ったその瞬間、景色がほんのわずかに巻き戻るような奇妙な感覚に襲われる。一瞬前の、小石につま先が触れる寸前の光景がフラッシュバックし、次の瞬間には、何事もなかったかのように彼女の足は軽やかに路面を捉えていた。気のせいか、と首を傾げたアサヒだったが、胸の奥に微かな違和感が残る。まるで、何かの歯車が、一瞬だけ逆回転したような。

「アサヒ、今日も遅刻寸前?」

背後から、朗らかな声が響いた。振り返ると、柔らかな陽光を浴びて立つ親友のルナが、ふわりと笑っている。長い銀色の髪が風に揺れ、透き通るような白い肌が朝日に輝いていた。ルナは、この世界に蔓延する正体不明の奇病「忘却病」を患っていると診断されたばかりだったが、その面影はまだ薄れていなかった。

「ルナ!もう、心配したでしょう?」

「大丈夫だよ。ほら、見て。まだこんなに元気」

そう言って、ルナは腕を広げてみせた。だが、アサヒの胸には不安が渦巻いていた。忘却病は、発症すると記憶が徐々に失われ、最終的には存在そのものが曖牲となる、恐ろしい病だ。そして、治療法は未だ見つかっていない。

その日の夕刻、ルナの容態が急変した。激しい高熱にうなされ、意識は混濁している。医者からは、もう手の施しようがないと告げられた。絶望の淵に立たされたアサヒの心に、あの朝の奇妙な感覚が蘇る。もしかしたら、あれはただの錯覚ではなかったのではないか。

ルナの枕元で、アサヒは目を閉じた。何かに導かれるように、強く、強く願う。ルナを救いたい。どんな代償を払ってでも。すると、再びあの奇妙な感覚が全身を駆け巡った。目の前が光り、周囲の時間が数秒だけ巻き戻る。時計の針が逆行し、ルナの苦しげな呼吸が少しだけ穏やかになった。

「これは……」

アサヒは自分が、失われた古代の技術「エコー」の使い手であることを悟った。エコーは、ごく短時間だけ時間を巻き戻す能力。しかし、古文書には恐ろしい代償が記されていた。「エコーは、その使用者にとって最も大切な『友情の記憶』を燃料とする」と。アサヒはルナを救うため、その代償を覚悟した。

第二章 偽りの救済

アサヒは、ルナの病状の進行を遅らせるため、そして奇病の根源を探るため、エコーを使い始めた。最初は、ルナが薬を飲み忘れるのを防いだり、体調を崩す寸前で介抱したり、些細な出来事を修正するために使った。エコーを発動するたび、古い友との思い出がぼやけ、顔が思い出せなくなり、名前すら曖昧になる。だが、ルナの笑顔を見るたび、アサヒは「この程度の代償なら」と自分に言い聞かせた。

エコーは確かにルナの命を繋ぎ止めていた。だが、病状の根本的な改善には繋がらなかった。むしろ、エコーを使うたびに、ルナの体調は一時的に持ち直すものの、その後に訪れる悪化の波は、以前よりも強く、深くなっていった。ルナの肌の透明感は増し、声はか細くなり、時にはアサヒのことも見間違えるようになった。

「アサヒ……ねぇ、あの時、二人で初めて見た流星群のこと、覚えてる?」

ある日、ルナはかすれた声で尋ねた。アサヒは、その記憶が既にエコーによって奪われていたことに気づき、胸が締め付けられるような痛みを覚えた。

「もちろん、覚えてるよ。綺麗だったね」

アサヒは嘘をついた。嘘をつくたび、ルナとの間に見えない壁ができていくような気がした。自分が忘れていく記憶と、ルナが失っていく記憶。その二つが、別々の、しかし深く繋がった螺旋となって、二人を蝕んでいるように思えた。

アサヒは、古代の文献をさらに深く読み解いた。エコーの伝承は断片的で、多くが失われている。しかし、ある文献の一節が、彼女の目を強く惹きつけた。それは、エコーを使うことによって「最も親しい存在の魂が削られる」という、恐ろしい示唆だった。だが、それが何を意味するのか、具体的な記述はなかった。アサヒはそれを、能力を使いすぎた場合の比喩表現だろうと、都合よく解釈しようとした。ルナを救うためには、エコーを使うしかない。そう信じて疑わなかった。だが、胸の奥で、微かな疑念が芽生え始めていた。この「救済」は、本当に正しいのだろうか。

第三章 零れ落ちる時間

ルナの症状は、目に見えて悪化していた。視線が定まらず、言葉を発することさえ困難になっていく。アサヒは焦り、さらにエコーを多用するようになった。その結果、失われる記憶は加速度を増した。かつては鮮明だった幼少期の友人たちの顔は、もはや影絵のようになり、彼女たちの声は風の音に溶けて消えていった。しかし、ルナを救うことだけが、アサヒの心を支える唯一の光だった。

ある夜、ルナは深い眠りにつく前、奇妙な言葉を口にした。「忘れないで……私を、忘れないで……アサヒが私を忘れたら、私は……」その言葉は、途中で途切れてしまったが、アサヒの心に深い衝撃を与えた。忘却病は、患者自身の記憶が失われる病のはずだ。なぜルナは、アサヒが自分を忘れることを恐れるのだろうか?

アサヒは再び、古代の文献を貪るように読み漁った。これまで見落としていた一文が、目に飛び込んできた。それは、エコーの核心であり、アサヒが知りたくなかった真実だった。

「エコーの力は、その使用者の魂を支える最も深き絆の記憶を燃料とし、その記憶の対象となる存在の生命力を静かに蝕む。失われる記憶は、同時にその記憶の対象の存在そのものの輪郭を薄れさせる」

アサヒの視界が歪んだ。エコーは、アサヒが友情の記憶を失うたびに、その記憶と最も深く結びついた存在、つまりルナの生命力を削っていたのだ。ルナの「忘却病」は、アサヒがエコーを使い続けた結果、引き起こされたものだった。アサヒがルナを救おうとすればするほど、ルナの命を奪っていたのだ。

そして、さらに衝撃的な真実が、古文書の隅に記されていた。

「対象の存在が完全に消滅する時、失われた記憶は、使用者の心に深い虚無として戻る。それは、友情の代償を、存在が消えた後も払い続ける地獄である」

アサヒの価値観は、根底から揺らいだ。自分が、どれほど愚かで、恐ろしいことをしていたのか。ルナの病が、自分自身の能力によって引き起こされたものだと知った瞬間、アサヒは全身の血が凍り付くような絶望に襲われた。あの、朝の奇妙な巻き戻りの感覚。あの時、既に歯車は狂い始めていたのだ。

ルナは全てを知っていたのだろうか? アサヒが記憶を失うたび、自分自身の存在が薄れていくことを、ルナは感じていたのだろうか。それでもルナは、アサヒに「救ってほしい」と願った。それは、アサヒが自分を忘れてしまっても、アサヒの記憶の中に自分が生き続ける限り、ルナの存在が消えないと信じていたからではないか。

アサヒは、膝から崩れ落ちた。友を救うために選んだ道が、実は友を滅ぼす道だった。これ以上の皮肉があるだろうか。

第四章 選択の淵

真実を知ったアサヒは、自らを深く呪った。自分がルナを苦しめていたのだ。ルナの生命力を奪い、存在を希薄にしていたのは、他の誰でもない自分だった。エコーは、友情を代償とするだけでなく、友情そのものを破壊する毒だったのだ。

アサヒはルナの傍らに座り、その痩せ細った手を握りしめた。ルナの目はうつろで、アサヒの顔を見ても、もう認識しているのかさえ判然としない。だが、アサヒは語りかけた。これまで失ってきた記憶の断片を、一つずつ思い出しながら。

「ルナ……ごめんね。私が、私のせいで……」

アサヒの目から、止めどなく涙が溢れ落ちた。自分がエコーを使うのをやめれば、ルナの生命力の消失は止まるかもしれない。しかし、既にルナの病状は末期で、エコーを使わなければ、あっという間に消えてしまうだろう。だが、エコーを使い続ければ、ルナの存在はさらに薄れ、最終的には完全に消え去ってしまう。そして、その虚無だけが、アサヒの心に残る。

アサヒは、究極の選択を迫られた。エコーを使い続け、ルナの存在をわずかながらでもこの世に繋ぎ止めるのか。それとも、エコーを捨て、ルナとの残りの時間を、記憶を失うことなく、ただ見守るのか。

一縷の希望を求めて、アサヒは古代の書物を再び紐解いた。しかし、どのページにも、エコーの呪縛から逃れる方法は記されていなかった。ただ、「一度紡がれたエコーの螺旋は、決して逆巻かない」と、冷酷な言葉が刻まれているだけだった。

「ルナ……私、もうエコーは使わない」

アサヒは、ルナの頬をそっと撫でながら、決意を口にした。それは、ルナの命を終わらせることを意味していた。しかし、同時に、ルナからこれ以上、存在を奪わないことでもあった。そして何よりも、アサヒ自身がルナとの残された記憶を、これ以上失わないための決断だった。

ルナの唇が、微かに動いた。か細い声が、アサヒの耳に届く。「アサヒ……ありがとう……」

それは、まるで、アサヒの選択を肯定するような言葉だった。その瞬間、アサヒは悟った。真の友情とは、何かを与えたり、何かを救ったりすることだけではない。時には、受け入れ、手放し、共に苦しみ、そして記憶として刻み続けることなのだと。アサヒは、自らの能力への依存から解き放たれ、友情の真の意味に到達したのだった。

第五章 永遠の残像

アサヒは、それから一切エコーを使うことをやめた。ルナの病状は、日を追うごとに進行した。透明感が増した肌は陽光を透過し、髪は雪のように白くなった。声はほとんど出なくなり、その存在は、まるで夜明けの霧のように儚げだった。だが、アサヒは、ルナの傍らに寄り添い続けた。失われた記憶を悔やむのではなく、残された時間を、ただルナと共に生きることを選んだ。

二人は、かつて共に笑った思い出を語り合った。アサヒが語り、ルナはかすかに頷いたり、微笑んだりするだけだったが、その瞳には、確かに友情の光が宿っていた。アサヒは、ルナの小さくなった手を握りしめ、その温もりを肌で感じた。風の匂い、鳥のさえずり、夕焼けの茜色。五感を研ぎ澄ませ、ルナとの今を、心に深く刻み込んだ。

ある夕暮れ時、窓から差し込む最後の光がルナの顔を照らしていた。ルナは、アサヒの顔をじっと見つめ、ゆっくりと、しかしはっきりと口を開いた。

「アサヒ……私のこと、ずっと、覚えていてね……」

それが、ルナの最後の言葉だった。アサヒの腕の中で、ルナの身体は、まるで粒子となって宙に溶けていくかのように、静かに、そして確実に消えていった。ルナが消えた後、残されたのは、アサヒの腕の中に残る、微かな温もりと、虚空に響くルナの声の残響だけだった。

アサヒは、泣き崩れた。しかし、その涙は、絶望の涙だけではなかった。深い悲しみの中に、ルナとの間に結ばれた、決して失われることのない絆への感謝があった。エコーによって失われた記憶は、決して戻らない。だが、アサヒがエコーを使うことをやめ、ルナとの「今」を共に生きたこと。そして、ルナが最後に望んだ「記憶」は、アサヒの心の中に、永遠の光として刻まれた。

アサヒは、ルナとの思い出の場所を巡った。流星群を見た丘、秘密の小川、そして、ルナと初めて出会った石畳の道。あの朝、アサヒがつまずきそうになった小石が、まだそこにあった。アサヒはそれを拾い上げ、手のひらで温めた。失われた記憶は、アサヒの心に深い空白を残したが、その空白は、ルナというかけがえのない友の存在を、より鮮やかに浮き彫りにした。

記憶は、脆く、時に裏切る。しかし、心に刻まれた友情は、形を変えて、永遠に生き続ける。アサヒは、小石を握りしめ、前を向いて歩き始めた。足元に広がる道は、記憶を失った過去の道とは違う。ルナとの友情が、未来を照らす、新たな道だった。

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