ファインダー越しの約束

ファインダー越しの約束

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第一章 彩度ゼロのファインダー

柏木湊(かしわぎみなと)の世界は、常に彩度が低かった。大学の講義室、アルバイト先のコンビニ、そして自室の四畳半。目に映るすべてのものが、まるで古いモノクロ映画のように色褪せて見えた。人との間に見えない壁を作り、感情の起伏を極力なくして生きることが、彼なりの処世術だった。

そんな湊にとって、橘陽介(たちばなようすけ)だけが唯一の例外だった。太陽を丸ごと飲み込んだような男。誰にでも屈託なく笑いかけ、その場の空気を一瞬で塗り替えてしまう。正反対の二人がなぜ親友なのか、周囲はいつも不思議がったが、湊自身にもよく分からなかった。ただ、陽介の隣にいる時だけは、自分の世界の彩度が少しだけ上がる気がしていた。

その陽介が、「世界中を放浪してくる」と宣言し、大きなバックパックを背負って日本を発ったのは、一週間前のことだ。しばらく会えなくなる寂しさよりも、これでまた静かな日常に戻れるという安堵の方が大きかった自分に、湊は少しだけ罪悪感を覚えていた。

だから、郵便受けに分厚い封筒を見つけた時、それが陽介からのものだと直感し、胸がざわついた。エアメールではない。日本の、見慣れた切手が貼られている。震える指で封を切ると、中から出てきたのは、古びたアパートの鍵と、一枚だけ折り畳まれた便箋だった。

『湊へ。

もし、俺が死んだら、この手紙を開けてくれ』

心臓が氷の塊で殴られたような衝撃が走った。なんだ、これは。いつもの悪趣味な悪戯か? しかし、続く文章は陽介らしからぬ、静かで真剣な響きを持っていた。

『この鍵は、俺の部屋の鍵だ。悪いが、頼みたいことがある。俺の代わりに、旅をしてほしい。詳しいことは部屋にある。これは、お前への最後の我儘だ。頼んだぞ、親友』

陽介が死んだ? 馬鹿な。一週間前、彼は元気そのものだった。空港で見送った時の、日焼けした笑顔が脳裏に焼き付いている。混乱と疑念が渦巻く中、湊の足は自然と陽介のアパートへ向かっていた。錆びた鉄の階段を上り、渡された鍵を鍵穴に差し込む。カチャリ、と乾いた音がして、扉はあっけなく開いた。

部屋の中は、がらんとしていた。陽介の体温がまだ残っているような錯覚を覚える。部屋の中央に置かれたローテーブルの上に、湊が見慣れたものが乗っていた。彼が愛用している一眼レフカメラ。そして、その横には、日本全土が描かれた大きな地図が広げられていた。地図の上には、赤いペンでいくつもの印が付けられ、矢印で結ばれている。最初の印が指し示す場所には、小さな文字でこう書かれていた。

『旅の始まり。まずはここからだ。最高の写真を撮ってきてくれ』

ファインダーを覗いても、いつもピントが合わないのは、世界の方ではなく、自分自身の心の方だと、湊はまだ気づいていなかった。

第二章 陽のあたる場所へ

陽介の意図は、皆目見当もつかなかった。しかし、あの「最後の我儘だ」という言葉が、鉛のように湊の心に沈んでいた。彼は荷物をまとめ、陽介のカメラを首から下げ、地図が示す最初の目的地、伊豆半島の南端にある小さな漁師町へと向かった。

潮風が頬を撫で、錆びたトタン屋根が連なる風景は、どこか懐かしさを感じさせた。陽介が残したメモには、「灯台の見える丘で、最高の笑顔を撮れ」とだけ書かれていた。灯台はすぐに見つかったが、問題は「最高の笑顔」の方だった。

湊にとって、見知らぬ人にカメラを向けることは、裸で人前に立つよりも難しいことだった。ましてや、笑顔を撮るなど。彼は丘の上で何時間も逡巡した。通り過ぎる観光客、談笑する老夫婦。シャッターチャンスはいくらでもあったが、彼の指は動かない。陽介はなぜ、自分に最も苦手なことをさせるのか。

日が傾き始めた頃、一人の老漁師が、網の修繕をしながら湊に声をかけてきた。「兄ちゃん、さっきからそこで何してるんだ?」。湊はしどろもどろに、写真を撮りに来たと告げた。老人は「そうかい」とだけ言うと、深く刻まれた皺をさらに深くして笑った。「ここの夕日は格別だぞ。海が燃えてるみてえに見えるんだ」。

その瞬間、湊は無意識にカメラを構えていた。ファインダー越しに見る老人の笑顔は、長年潮風に晒された岩肌のように力強く、そして温かかった。カシャッ。乾いたシャッター音が、やけに大きく響いた。撮れた。初めて、自分から他人の心を捉えにいった写真だった。

その一枚を皮切りに、湊の旅は少しずつ色づき始めた。陽介の地図は、彼を様々な場所へといざなった。京都の竹林では、着物姿の女性たちの楽しげな後ろ姿を。北海道のラベンダー畑では、父親の肩車ではしゃぐ幼い少女を。彼は、陽介の指示通り「笑顔」を探し続けた。

旅先での出会いは、湊の心の壁を少しずつ溶かしていった。最初はぎこちなかったが、カメラを介することで、人と話すきっかけが生まれた。写真を見せると、誰もが嬉しそうに笑ってくれた。ファインダー越しに見る世界は、もうモノクロではなかった。人々の笑顔が、風景に鮮やかな色彩を与えていく。陽介が自分にこの旅を託した理由が、少しだけ分かった気がした。きっと彼は、殻に閉じこもる湊を、この陽のあたる場所へ連れ出したかったのだ。

旅の記録が増えるたびに、陽介への感謝と、同時に拭いきれない疑問が募っていく。彼は本当に死んでしまったのか。こんなにも素晴らしい旅を計画しておきながら、なぜ。答えは、最後の目的地にあるはずだった。地図が示す最終地点。それは、星空が美しいことで知られる、長野の山中にある小さな天文台だった。

第三章 星の降らない夜

最後の目的地である天文台へ向かう道は、険しい山道だった。バスを乗り継ぎ、最後は息を切らしながら坂を上る。夕闇が迫る頃、湊は白いドーム型の屋根を持つ、古びた天文台にたどり着いた。しんと静まり返った敷地には、誰の姿も見えない。ただ、冷たい夜風が木々を揺らす音だけが響いていた。

「柏木湊さん、ですか」

背後からかけられた澄んだ声に、湊ははっとして振り返った。そこに立っていたのは、陽介のアルバムで何度も見たことのある、彼の妹のひかりだった。陽介によく似た、大きな瞳が心配そうに湊を見つめている。

「お待ちしていました。兄から、湊さんが来ると聞いていましたから」

「陽介から? 陽介は、ここにいるのか?」

湊の問いに、ひかりは小さく首を横に振った。そして、彼の心を根底から揺るがす事実を、静かに、しかしはっきりと告げた。

「兄は、海外旅行になんて行っていません。ずっと、病院にいるんです」

ひかりの言葉が、すぐには理解できなかった。病院? なぜ。彼女は続けた。

「兄は、もうほとんど目が見えないんです。網膜の病気で…進行が早くて、もう光をぼんやりと感じるくらいしか。手術も、もう…」

頭を鈍器で殴られたようだった。陽介が、あの太陽のような男が、光を失いつつある? 湊が旅先で見てきた美しい景色も、人々の輝く笑顔も、陽介はもう自分の目で見ることができない。

「だから、湊さんにお願いしたんです」。ひかりは涙を堪えながら言った。「兄は、湊さんの目が好きだって、いつも言っていました。湊のファインダーを通した世界は、優しくて、温かいんだって。だから、自分の代わりに、湊さんの目で世界を見て、写真に切り取ってほしかったんだと思います」

湊は、その場に崩れ落ちそうになった。陽介が自分に「笑顔の写真を撮れ」と、あれほど執拗に指示した理由が、ようやく分かった。それは、内向的で人付き合いが苦手な湊が、陽介がいなくなった後も、一人で世界と繋がっていけるようにという、彼の最後の願いだったのだ。自分の視力が失われていく絶望の中で、彼は親友の未来を案じていた。あの手紙は、万が一のためのものだったが、彼は生きている間に、この「最後の我儘」を湊に託したかったのだ。

「最低だ、俺は…」。湊の口から、か細い声が漏れた。陽介の苦しみに全く気づかず、のんきに旅を楽しんでいた自分が許せなかった。自分のことしか考えていなかった。友情という言葉の意味さえ、本当は何も分かっていなかった。

見上げた夜空には、満天の星が輝いているはずだった。しかし、湊の目には、一つの光も見えなかった。彼の世界は、再び彩度を失い、深い闇に包まれていた。

第四章 君のいた景色

数日後、湊は都内の病院の一室に立っていた。ベッドの上で横たわる陽介は、湊の記憶の中にいる彼よりもずっと痩せて、陽光を浴びていない肌は青白かった。しかし、湊の入ってきた気配を察すると、ゆっくりと顔を上げ、穏やかに笑った。その笑顔は、昔と少しも変わっていなかった。

「おかえり、湊。いい旅だったか?」

もうほとんど見えていないはずの瞳が、まっすぐに湊を捉えているように感じた。湊は、こみ上げる嗚咽を必死に堪え、頷いた。そして、旅で撮りためた写真を、一枚一枚、陽介の手に渡していった。

「これは、伊豆の漁師さんだ。夕日が綺麗だって、笑ってくれたんだ。こっちは、京都で会った子たちで…」

声を震わせながら、湊は写真に写る人々の物語を語った。陽介は、その写真を指先でそっと撫でながら、静かに耳を傾けていた。彼の指が、写真の中の笑顔の輪郭を確かめるように動く。

「そっか…。いい笑顔だな。お前の撮る写真は、やっぱり温かいよ。ちゃんと、伝わってくる」

その言葉に、湊の堪えていた涙腺が決壊した。陽介は、見えなくても「見よう」としてくれていた。湊が切り取った光を、懸命に感じようとしてくれていたのだ。

湊は最後に、一枚の写真を陽介に手渡した。それは、あの天文台で撮った写真だった。満天の星空の下、ひかりが寂しそうに空を見上げている。そして、その隣には、まるで誰かが立つべき場所であるかのように、不自然な空間が空いていた。

「これは、お前のために撮ったんだ。いつか、お前と一緒に見るために、場所を空けておいた」

陽介は何も言わず、ただその写真を胸に抱きしめた。かすかに震える肩が、彼の万感の想いを伝えていた。

その数週間後、陽介は眠るように静かに旅立った。

季節は巡り、春が訪れた。湊はあの日以来、カメラを片手に街を歩くことが日常になっていた。もう、風景だけを撮ることはない。公園で無邪気に遊ぶ親子、カフェの窓辺で笑い合う恋人たち、商店街で立ち話をする老人たち。彼のファインダーは、ごく自然に人々の営みに向けられるようになった。

陽介はいなくなった。しかし、湊がファインダーを覗くたび、彼の声が聞こえる気がした。「いい笑顔だな、湊」。

カシャッ。

桜並木の下でシャッターを切る。その軽やかな音は、失われた光への鎮魂歌であり、未来へと続く希望の序曲でもあった。陽介が遺してくれた温かい視線は、湊のレンズを通して、この色鮮やかな世界に永遠に生き続ける。二人の友情が奏でる、終わらないメロディのように、その音は春の空にどこまでも響き渡っていった。

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