第一章 無味の聖域
僕、水野湊(みずの みなと)の世界は、味で満ちている。ただし、それは舌で感じるものじゃない。耳から入る「音」が、僕の脳内で勝手に味へと変換されるのだ。共感覚、と医者は言った。降りしきる雨音は微かな苦味を帯びた炭酸水、ピアノの旋律は溶けた黒蜜の甘さ、そして人の声は、その感情に応じて千変万化のフレーバーを奏でる。
お世辞は舌の上にべったりと残る人工甘味料の味。怒声は焦げ付いた鉄の味。陰口は、腐った果実のような不快な酸味を口内に広げる。だから僕は、人が苦手だった。彼らの言葉が、感情が、僕の知らないうちに体内へ侵入し、味覚をかき乱していく感覚に、いつも眩暈がした。教室の喧騒は、ありとあらゆる調味料をぶちまけた混沌のスープだ。僕はいつも、そのスープの中で溺れないよう、必死に息を潜めていた。
そんな僕にとって、唯一の安息の地があった。それが、柏木陽(かしわぎ はる)という存在だ。
陽は、僕とは正反対の人間だった。太陽のように明るく、誰にでも分け隔てなく優しい。彼の周りにはいつも人の輪ができていて、その中心で彼は屈託なく笑っていた。普通なら、僕が最も苦手とするタイプの人間のはずだった。しかし、彼の声だけは、僕の世界で唯一、何の味もしなかったのだ。
「無味」。それは水のように、空気のように、僕の感覚を刺激することなく、ただ静かに染み渡る。彼の「おはよう」も「また明日」も、喜びの言葉も、からかいの言葉さえも、すべてが無色透明だった。彼の隣にいる時だけ、僕は味の洪水から解放され、穏やかな静寂の中にいられた。僕にとって陽は、騒がしい世界にぽっかりと空いた、聖域そのものだった。
「湊、また難しい顔してる。眉間のシワ、定規で測れそうだぞ」
放課後の図書室。窓から差し込む西日が、古い本の匂いを運んでくる。僕が数式と格闘していると、向かいに座った陽がいたずらっぽく笑った。その声も、やはり味がない。僕は心地よさに包まれながら、顔を上げた。
「うるさい。お前には関係ないだろ」
「関係なくはないさ。友達の悩みは、僕の悩みでもあるんだから」
そう言って差し出された缶コーヒー。彼の指先が僕の手に触れた瞬間、僕は思わず息をのんだ。
一瞬。ほんの一瞬だけ、舌の奥に、ピリリとした鋭い**塩の味**が走ったのだ。
すぐにその感覚は消え失せ、陽の声は変わらず無味のままだった。僕は首を傾げた。今の味はなんだ? 彼の声は味がしないはずなのに。僕の共感覚がおかしくなったのだろうか。
「……湊?」
心配そうに僕を覗き込む陽の瞳。その奥に、今まで気づかなかった微かな翳りが見えた気がした。僕は慌てて缶コーヒーを受け取り、その冷たさでごまかすように、胸の内の小さな棘から目を逸らした。
第二章 塩の雫
あの日以来、僕は陽を意識的に観察するようになった。僕が感じたあの鋭い塩味は、まるで静かな水面に落ちた一滴の雫のように、僕の心に小さな波紋を広げ続けていた。
陽は相変わらずだった。教室の中心で笑い、誰かの相談に乗り、時には僕をからかっては、その無味の声で僕を安心させた。僕らの友情は、傍から見れば何も変わっていない。しかし、僕だけが知る違和感は、日に日にその輪郭を濃くしていった。
気づいたのは、彼が一人でいる時の表情だ。教室の喧騒から離れ、窓の外を眺めている時。部活の帰り道、夕暮れの空を見上げている時。彼の横顔には、僕が今まで見たことのないような、深い寂しさが漂っていた。まるで、大切な何かを遠い場所に置き忘れてきたような、そんな表情だった。
そして、僕はもう一つ奇妙な事実に気づく。彼は、決して大声を出さない。驚いた時も、誰かを遠くから呼ぶ時も、彼の声量は常に一定なのだ。まるで、精密な機械で制御されているかのように。
「なあ、陽。お前って、悩みとかないのか?」
ある日の帰り道、並んで歩く影が長く伸びるアスファルトの上で、僕は思い切って尋ねた。僕の質問は、熟れすぎたトマトのような、少し甘ったるくて水っぽい味がした。
陽は一瞬足を止め、僕の方を向いた。彼の表情はいつもと同じ、穏やかな笑みだ。
「どうしたんだい、急に。僕だって人間だよ。悩みの一つや二つ、あるに決まってる」
その声は、やはり水のように澄んでいる。無味だ。
「でも、お前の声からは、何の味もしないんだ。嬉しいのか、悲しいのか、何も分からない。まるで……感情がないみたいに」
言ってしまってから、後悔した。僕の共感覚は、僕だけの秘密だ。他人に話したところで理解されるはずもないし、何より、僕らの友情の根幹にある「無味」という前提を、僕自身が揺るがしかねない。
「感情がない、か。面白いことを言うな、湊は」
陽は困ったように笑い、僕の肩を軽く叩いた。その手が触れた瞬間、まただ。あの時と同じ、ピリッとした塩の味が、舌の上を駆け抜けた。今度は前よりもはっきりと、長く。
それはまるで、涙の味に似ていた。
僕らの間に、気まずい沈黙が落ちる。夕暮れのチャイムが、遠くで物悲しいメロディを奏でていた。その音は、僕の口の中に冷え切った紅茶の渋みを広げた。
第三章 空虚な残響
僕らの間に生まれた小さな亀裂を、これ以上見て見ぬふりはできなかった。僕は真実を知りたかった。あの塩味の正体も、陽が時折見せる寂しげな表情の理由も。そして何より、僕らの友情が、本当に僕の感じている通りのものなのかを確かめたかった。
翌日の放課後、僕は陽を学校の屋上に呼び出した。フェンスの向こうには、オレンジ色に染まった街並みが広がっている。吹き抜ける風が、僕の不安を煽るようにシャツを揺らした。
「陽。大事な話があるんだ」
僕の声は、緊張で震えていた。きっと、ひどく苦い味がしただろう。
「僕には、音を味として感じる力がある。共感覚ってやつだ。だから、人の声を聞くと、その人の感情が味になって伝わってくる。お世辞は甘ったるくて、悪意は腐った味がする」
陽は何も言わず、ただ静かに僕の話を聞いていた。その表情からは、やはり何も読み取れない。
「でも、お前の声だけは違うんだ。どんな時も、何の味もしない。無味なんだ。だから、俺はお前の隣が一番安心する。お前だけが、俺にとっての……聖域なんだ」
僕は、ありったけの勇気を振り絞って告白した。これで、すべてが分かるはずだ。
僕の言葉を聞き終えた陽は、ゆっくりと顔を上げた。その顔には、いつもの穏やかな笑みはなかった。代わりに浮かんでいたのは、僕が今まで見たこともないほど、深く、痛々しい悲しみの色だった。
「……そうか。だから、湊は僕と」
陽はそう呟くと、おもむろに首筋に手をやった。そして、襟元に隠されていた小さな黒い装置を、僕に見せた。それは肌に直接貼り付けられており、細いコードがシャツの中へと伸びている。
僕が呆然とそれを見つめていると、陽は諦めたように、静かに語り始めた。その声は、相変わらず無味のまま、空虚に響いた。
「これは、発声補助装置。僕は、小さい頃の事故で声帯をひどく痛めてね。それ以来、自分の声じゃ、ほとんど音が出せないんだ」
頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。
「今、湊が聞いているこの声は、僕の喉の微細な振動や呼気をこの機械が読み取って、合成している人工音声なんだ。だから、感情の機微なんて乗らない。どんなに嬉しくても、どんなに悲しくても、同じ音、同じ……湊の言う『無味』のままだ」
聖域だと思っていた場所は、がらんどうの廃墟だった。安らぎだと思っていた静寂は、機械が作り出した偽りの響きだった。僕が陽との友情の証だと信じていた「無味の声」は、彼のコンプレックスそのものであり、彼が必死に隠してきた痛みの結晶だったのだ。
あの塩味は、彼の汗。僕に触れるたび、この秘密がバレるのではないかと緊張し、流していた冷や汗の味だったのだ。
僕が彼の声に安らぎを感じていたその裏で、彼は自分の「本物の声」がないことに、どれだけ苦しんできたのだろう。
「ごめん。ずっと、騙すつもりじゃなかったんだ。でも、君が僕の声を……僕の隣を、そんな風に言ってくれるから。本当のことを言えなかった」
陽の声が、途切れる。僕は何も言えなかった。僕の友情は、僕の都合の良い感覚の上に成り立っていた、ただの幻想だったのか。風の音が、やけに大きな金属音となって、僕の耳の中で錆びた釘の味をさせた。
第四章 心音の味
あの日以来、僕は陽を避けるようになった。彼に合わせる顔がなかった。僕が聖域だと信じていたものは、彼の苦しみの上に築かれた砂の城だった。その事実が、鉛のように重く僕の胸にのしかかった。
陽がいなくなった僕の世界は、再び不快な味の洪水に飲み込まれた。教室の喧騒、廊下をすれ違う人々の囁き声、すべてが僕の味覚を容赦なく攻撃する。しかし、以前とは何かが違っていた。以前はただ不快なだけだったその味の洪水の中に、今は耐え難いほどの「空虚さ」があった。陽の不在という名の、味のない空白。それは、かつて感じていた安らぎとは全く違う、胸を締め付けるような痛みだった。
僕は、陽の「無味の声」に安らぎを感じていたんじゃない。
陽という存在そのものに、救われていたんだ。
その事実に気づいた時、僕は走り出していた。行き先は、分かっていた。錆びた扉を押し開けると、あの日のままの屋上があった。フェンスに寄りかかり、一人で夕日を眺めている陽の背中があった。
僕の足音に気づいて、陽が振り返る。その瞳が、驚きに見開かれた。
僕は、彼の数歩手前で立ち止まり、息を整えた。どんな言葉も、僕の口の中ではきっと、後悔の苦い味がするだろう。それでも、伝えなければならなかった。
「味がなくたっていい。機械の声だって、構わない」
僕は、真っ直ぐに彼の目を見て言った。
「俺は、お前の声が聞きたいんじゃない。お前と、話がしたいんだ。陽と、一緒にいたいだけなんだ」
僕の言葉を聞いた陽の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。彼は唇をきつく結び、震える手で、首の装置に触れた。そして、意を決したように、その電源を、切った。
シン、と世界から音が一つ消えた。
陽は僕の前に歩み寄り、口を開いた。そこから発せられたのは、声にならない、か細い息の音だけだった。「カ、ヒュ……」という、ほとんど空気の摩擦音のような音。でも、彼は必死に何かを伝えようとしていた。その瞳は、これまで僕が見たどんな人間の声よりも、雄弁に感情を語っていた。
その瞬間だった。
僕の口の中に、ふわりと、今まで感じたことのない味が広がった。
それは、ほんのり温かくて、少ししょっぱくて、そして微かに、陽の光のような甘さを含んだ、複雑で、けれど信じられないほど優しい味だった。
言葉の味じゃない。音の味でもない。
彼の瞳が、必死な身振りが、僕のすぐそばで鳴り響く彼の心臓の音が、僕に直接語りかけてくる、魂そのものの味。
僕らはもう、言葉を交わさなかった。ただ隣に並んで、ゆっくりと沈んでいく夕日を眺めていた。僕の世界から、不快な味が消えたわけじゃない。でも、僕の世界には、新しい味が一つ加わった。言葉や音を超えた場所で、心と心がつながる時にだけ感じられる、特別な味が。
それはきっと、僕と陽がこれから築いていく、本当の友情の味だった。