昨日が消えた朝

昨日が消えた朝

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第一章 空白の設計図

午前六時三十分。電子音の無機質な連なりが、水島亮(みずしま りょう)の意識を浅い眠りの底から引き上げた。いつも通り、右手を伸ばしてスマートフォンのアラームを止めようとした、その瞬間。指が宙で凍りついた。

どうやって?

あまりに馬鹿げた問いが、脳裏に雷のように突き刺さる。スマートフォンのどの部分を、どの指で、どれくらいの力で触ればいいのかが、全く分からない。まるで初めて見る未知の物体のように、黒い板が枕元でただけたたましく鳴り響いている。

混乱しながらも、なんとか指先で画面をめちゃくちゃにスワイプすると、不意に音は止んだ。静寂が戻った部屋で、亮は自分の右手をじっと見つめる。見慣れた、少し節くれだった三十二歳の男の手だ。しかし、それはまるで、自分のものではない借り物のように感じられた。

異常は続いた。洗面台の前に立ち、歯ブラシを手に取る。いつも使っている、毛先が少し開いた青い歯ブラシ。だが、それをどう口に入れ、どの角度で動かせばいいのか、その「手順」が頭から完全に抜け落ちていた。試行錯誤の末、なんとか歯磨き粉の泡を立てたものの、その動きは生まれたての赤ん坊のようにぎこちなく、歯茎にブラシを突き立ててしまい、微かな血の味が口の中に広がった。

クローゼットを開け、スーツに着替える段になって、亮の混乱はパニックへと変わった。ワイシャツのボタンを留める順番。そして、最大の難関はネクタイだった。昨日まで、鏡も見ずに数秒で結べたはずの、ウィンザーノット。それが今、彼の首元でただの紺色の布切れとして、だらりと垂れ下がっている。結び方の記憶が、脳のどこを探しても見当たらない。まるで、重要なデータが記録されたハードディスクが、きれいにフォーマットされてしまったかのようだ。

「どうなって……いるんだ……」

絞り出した声は、掠れていた。鏡に映る自分は、紛れもなく水島亮だ。寝癖のついた髪も、少し疲れの見える目元も、昨日までの自分と何ら変わりはない。だが、その内側で、身体の動かし方を司る「設計図」が、ごっそりと失われていた。

通勤の準備は困難を極めた。コーヒーの淹れ方が分からず、インスタントの粉をマグカップに放り込むだけでお湯を注いだ。いつもなら絶対にしない、無作法な飲み方だ。玄関のドアノブを回す角度、靴べらの使い方、鍵をかける方向。その一つ一つが、彼にとって初体験の儀式となった。

マンションを出て、駅へと向かう道すがら、彼は愕然として足を止めた。

どっちだ?

毎日、同じ時間に家を出て、同じ歩道橋を渡り、同じコンビニの前を通り過ぎて駅へと向かう。その不動のルーティンが、彼の日常の根幹だった。しかし今、彼の前には二つの道が伸びており、どちらが駅へと続く「正解」の道なのか、全く判別がつかなかった。

身体から、血の気が引いていく。失われたのは、単なる身体的な動作の記憶だけではない。二十年以上この街に住み、築き上げてきたはずの「日常」という名の、巨大で緻密な迷路の地図そのものが、彼の頭から消え去ってしまったのだ。

第二章 他人の輪郭

なんとかスマートフォンの地図アプリを頼りに駅へたどり着き、会社に遅刻せずに出勤することはできた。しかし、亮の受難はまだ始まったばかりだった。自分のデスクに座り、パソコンの電源を入れる。パスワードを要求するログイン画面が表示された瞬間、彼の指はキーボードの上で完全に停止した。思い出せない。自分の存在を証明するための、あの無意味な文字列が。

万事休すかと思われたが、ディスプレイの隅に貼られた一枚の付箋が彼を救った。『緊急用:MizuRyo_0415』。おそらく、以前の自分が万が一のために残した保険だろう。彼はその几帳面さに感謝しながらも、自分の記憶力の欠如に深い溜息をついた。

業務が始まると、亮は自分が「水島亮」という名の、全くの他人を演じているような感覚に陥った。彼はシステムエンジニアだった。指が覚えているはずのショートカットキーは沈黙し、効率化のために組んだはずのマクロの使い方も分からない。同僚から「水島さん、この前の件、例のサーバーでどうなってます?」と尋ねられても、「例のサーバー」がどれを指すのか見当もつかなかった。彼は曖昧に頷き、「確認します」と答えるだけで精一杯だった。

昼休み、彼は社員食堂で途方に暮れた。いつも自分は何を食べていたのだろう。カレーか、日替わり定食か、それとも蕎麦か。彼の前には無数の選択肢が広がっていたが、どれ一つとして「これだ」という確信が持てない。

「水島さん、珍しいですね。今日はカツ丼ですか」

背後から声をかけたのは、隣の部署の佐藤だった。

「いつもはヘルシーに、ざる蕎麦じゃないですか。何かいいことでも?」

「あ、ああ……まあ、そんなところだ」

亮は愛想笑いを浮かべながら、その言葉を脳に刻みつけた。「俺は、いつもざる蕎麦を食べる人間らしい」。

その日から、亮の奇妙な日常が始まった。彼は周囲の人間の言動や、過去の自分が残したメモ、スケジュール帳の記述などを手掛かりに、「昨日までの水島亮」の輪郭を必死でなぞり始めた。朝はブラックコーヒーを飲む。通勤電車は前から三両目に乗る。昼食はざる蕎麦。仕事では冷静沈着で、滅多に冗談を言わない。

彼は、まるで完璧な役作りに励む俳優のように、失われた自分を演じ続けた。しかし、その行為を重ねれば重ねるほど、彼の心は乾いたスポンジのように虚しさを吸い込んでいった。

「水島亮」という人間は、驚くほど予測可能で、変化を嫌い、無味乾燥なルーティンの繰り返しで構成されていた。その事実に、彼は気づき始めていた。この、自分が必死で模倣している男は、本当に自分自身なのだろうか。習慣という名の鎧を一枚ずつ着込んでいくたびに、鎧の下の「本当の自分」が誰なのか、ますます分からなくなっていく。夜、一人になった部屋で、彼はただ茫然と天井を見つめた。自分は一体、誰なんだ?

第三章 褪色のダイアリー

週末、亮は「自分探し」を本格化させるため、自室の徹底的な調査に乗り出した。昨日までの自分が何を考え、何を感じていたのか。その痕跡が、どこかにあるはずだった。本棚に並ぶのは、プログラミングの専門書と、数冊のビジネス書だけ。音楽も聴かなければ、映画のDVD一枚すらない。まるで、修行僧の庵のように、そこには個人的な「色」が全く存在しなかった。

諦めかけたその時、クローゼットの奥、季節外れのコートが仕舞われた段ボール箱の後ろに、小さな木箱が隠されているのを見つけた。埃をかぶったその箱には、鍵もかかっていない。恐る恐る蓋を開けると、中から出てきたのは、一冊の古びた大学ノートと、一枚の色褪せた写真だった。

写真は、高校の制服を着た少年と少女が、満開の桜の木の下で、はにかみながら笑っているものだった。少年の顔は、間違いなく若い頃の自分だ。しかし、その表情は、亮が知る「水島亮」のものではなかった。屈託がなく、自信に満ち、まるで世界のすべてを肯定しているかのような、まぶしい笑顔。隣の少女は、愛おしそうに彼を見つめていた。

息を呑み、彼はノートを開いた。インクが滲んだ、勢いのある筆跡。それは、彼が書いたとは思えないほど、情熱的で、奔放な言葉で埋め尽くされていた。

『四月十日。今日、生まれて初めてライブハウスに行った。腹の底まで響くギターの音。汗だくで叫ぶボーカル。俺はここにいるんだって、全身で叫びたくなった。いつか俺も、あんな風に、誰かの心を揺さぶる絵を描きたい』

『六月三日。美咲が、俺の絵を好きだと言ってくれた。世界で一番嬉しい言葉だった。彼女となら、どこへだって行ける気がする。卒業したら、二人でバイクに乗って、日本の果てまで旅をするんだ』

ページをめくる手が震える。そこにいたのは、ロックミュージックを愛し、絵を描くことに情熱を燃やし、世界を旅することを夢見る、全くの別人だった。今の自分とは、何一つ共通点のない、まばゆい光を放つ少年。

そして、日記は、ある年の秋の日付で、突然途切れていた。最後のページは、涙の跡なのか、インクが大きく歪んでいた。

『九月二十日。ごめん。ごめん、美咲。俺が、あの時、もっとしっかりしていれば……』

そこで文章は終わっていた。亮は混乱したまま、木箱の底に一枚だけ残っていた、折り畳まれた新聞の切り抜きを手に取った。日付は、日記の最後の記述の翌日。小さな三面記事だった。

『高校生カップル、バイク事故。女子生徒死亡、男子生徒は意識不明の重体』

全身の血が、急速に凍りついていくような感覚。頭の中で、バラバラだったピースが、恐ろしい形を成して組み合わさっていく。

事故。記憶。人格。

ああ、そうか。

俺が失ったのは、「昨日までの習慣」なんかじゃなかったんだ。

高校時代の事故で、俺は、日記にいた「彼」と、その記憶の大部分を失った。そして、目覚めた俺は、悲しむ両親を安心させるため、心配をかけない「安定した、真面目な人間」になるために、必死で新しい自分を作り上げた。それが、システムエンジニアの「水島亮」だった。几帳面で、感情を表に出さず、決められたルーティンを正確にこなす、安全なペルソナ。

そして今、何かのきっかけで、その二十年近くかけて作り上げた後天的な「習慣」のデータだけが、綺麗に消し飛んでしまったのだ。だから、今ここにいるのは、事故後の作り物の自分でもなく、事故前の情熱的な自分でもない。そのどちらでもない、全ての習慣を失った、がらんどうの「素の自分」。

床に座り込んだまま、亮は動けなかった。自分が誰なのか、ようやく分かった。自分は、誰でもなかったのだ。

第四章 未知のコンパス

真実を知った夜、亮は眠れなかった。喪失感と、それとは正反対の、奇妙な解放感が胸の中で渦巻いていた。彼は、二人の人間を失った。一人は、写真の中で笑っていた、夢見る少年。もう一人は、昨日まで完璧に演じてきた、安定したサラリーマン。どちらも自分であり、自分ではなかった。

彼は、もはや「昨日までの水島亮」を演じることをやめた。翌日、会社に行くと、彼は初めて自分の意思で行動した。いつもと違う車両に乗り、社員食堂ではざる蕎麦ではなく、直感で美味そうだと感じた生姜焼き定食を選んだ。同僚は「水島さん、最近どうしたんですか?」と不思議そうな顔をしたが、彼はただ「少し、気分転換です」と微笑んだ。その笑顔が、以前の作り笑いとは全く違う、自然なものであることに、彼自身が一番驚いていた。

彼は、失われた習慣を取り戻そうとは思わなかった。過去の自分(日記の少年)に戻ることも、作り物の自分(システムエンジニアの亮)に戻ることも、どちらも違うと感じていた。彼は今、三十数年の人生で初めて、ゼロから自分自身を創造する権利を手に入れたのだ。それは恐ろしくもあるが、それ以上に、胸が躍るような自由だった。

物語が終わってから、初めての週末。亮は、あの日以来初めて、アラームをかけずに眠った。自然に目が覚めたのは、太陽がすっかり高くなった午前九時だった。彼はベッドから起き上がると、クローゼットからラフなシャツとジーンズを取り出して着替えた。そして、目的もなく、ただふらりと外へ出た。

いつもは駅へと向かう道とは逆方向へ、気の向くままに歩く。知らない路地裏、古びた神社の境内、子供たちの笑い声が響く公園。彼の目には、すべてが新鮮な驚きに満ちて映った。道端に咲く、名も知らぬ紫色の花に足を止め、そっと顔を近づけてその香りを吸い込む。風が頬を撫でる感触、遠くで聞こえる教会の鐘の音、アスファルトを踏みしめる靴底の感覚。五感のすべてが、世界の輪郭を鮮やかに捉えていた。

彼はまだ、自分がどんなコーヒーを好み、どんな音楽に心を動かされ、どんな映画で涙を流すのかさえ知らない。彼の内面は、まだ空白の設計図のままだ。しかし、その空白は、もはや恐怖の対象ではなかった。それは、これから描かれるべき、無限の可能性を秘めたキャンバスだった。

公園のベンチに腰掛け、亮は柔らかい日差しの中で、ゆっくりと空を見上げた。青く澄み渡った、どこまでも続く空。

彼の日常は、もはや退屈なルーティンの繰り返しではない。毎日が新しい発見に満ちた、未知への旅の始まりとなったのだ。

彼は、晴れやかな表情で、小さく、しかし確かな声で呟いた。

「さて、今日は何をしようか」

その問いは、答えを待たず、澄み切った秋の空気に溶けていった。

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