錆びた鉄の匂いと、古い紙の乾いた香りが混じり合うその場所を、僕と陽介は「天文台」と呼んでいた。町の外れにある、今はもう使われていない小さな観測施設。そこが僕たちの秘密基地だった。活発で太陽みたいな陽介と、日陰の隅で機械いじりをしているのが好きな僕。正反対の僕たちが、なぜかいつも一緒にいたのは、二人とも、この場所から見上げる夜空が好きだったからだ。
「ケンタ、見てみろよ! 夏の大三角だぜ」
屋上の手すりから身を乗り出して、陽介が指をさす。僕は彼の隣で、古びた双眼鏡のピントを合わせながら頷いた。彼の声は、夏の夜風に乗って心地よく耳に届く。この時間が永遠に続けばいいと、本気でそう思っていた。
その永遠が終わることを知らされたのは、蝉の声が少しだけ弱くなった八月の終わりのことだった。
「親父の転勤で、来月引っ越すことになった」
天文台のドームの中で、陽介はこともなげにそう言った。壁に立てかけてあった、壊れたままの古いプラネタリウム投影機を磨きながら。僕は、手にしていたスパナをカラン、と床に落とした。陽介との間に、見えないガラスの壁ができたような気がした。距離が、時間を、僕たちの友情をすり減らしていく。そんなありふれた未来が、やけに鮮明に想像できて、胸の奥が冷たくなった。
陽介が引っ越す日まで、あと一週間。僕たちの間には、ぎこちない空気が流れていた。陽介は努めて明るく振る舞ったが、その笑顔が薄い膜のように見えるのを、僕は知っていた。このまま、ありきたりの言葉で別れてしまうのは嫌だった。陽介との友情が、こんなふうに色褪せて終わるなんて、耐えられなかった。
何か、僕たちの証を残したい。陽介が、遠い街へ行っても、この場所を、僕を、思い出せるような何かを。その時、視界の隅に入ったのが、あの古いプラネタリウムだった。いつか二人で「これを直して満天の星を見てみたい」と語り合った、夢の機械。
これだ、と思った。陽介の夢は宇宙飛行士になること。ならば僕が、彼のためだけの宇宙を、この天文台に作り上げよう。
その日から、僕は学校が終わると天文台に駆け込み、投影機の修理に没頭した。油と埃にまみれ、古い設計図と格闘する。足りない部品は、ジャンク屋を巡って探し回った。指先は傷だらけになり、眠たい目をこすりながら、半田ごてを握り続けた。陽介を驚かせたい一心だった。焦りと期待が入り混じった熱が、僕を突き動かしていた。
引っ越しの前日。夜になっても、投影機はうんともすんとも言わなかった。原因は分かっている。駆動部の中枢にある、星形の小さな歯車。それが摩耗しきって、動力を伝えられずにいたのだ。同じ規格の部品は、どこを探しても見つからなかった。
「……もう、無理だ」
呟きは、がらんとしたドームに虚しく響いた。僕は工具を床に投げ出し、その場にへたり込んだ。陽介に何もしてやれないまま、明日が来てしまう。無力感と悔しさで、視界が滲んだ。
その時だった。ギィ、と重い鉄の扉が開く音がした。振り向くと、そこに陽介が立っていた。息を切らし、額に汗を浮かべている。
「やっぱり、ここにいた。一人で抱え込むなよ、相棒」
そう言って笑う陽介の右手には、小さな真鍮色の歯車が握られていた。僕が探していたものと、瓜二つの星形の歯車が。
「じいちゃんの古い懐中時計に入ってたんだ。もしかしたらって思って……お前、ずっとこれ、直そうとしてたんだろ」
言葉が出てこなかった。僕が陽介を驚かせようとしていたように、陽介も僕のために何かをしようとしてくれていた。僕たちが互いを想う気持ちは、同じ形をしていたのだ。陽介は僕の隣に黙って座ると、その歯車をそっと差し出した。僕は涙をこらえながら、それを受け取った。言葉はいらなかった。カチリ、と最後のピースがハマる音が、僕たちの友情の音のように聞こえた。
二人で組み上げた投影機のスイッチを入れる。一瞬の静寂の後、モーターのかすかな駆動音と共に、ドームの天井に光の点が灯り始めた。一つ、また一つと星は増え、やがて僕たちの頭上は、寸分の隙間もないほどの満天の星で埋め尽くされた。息をのむほど美しい、僕たちだけの宇宙だった。
「すげえ……」陽介が、子供のように目を輝かせて呟いた。「ケンタ、お前はやっぱり、天才だよ」
「お前が、最後の星を見つけてくれたからだ」
僕はそう返すのが精一杯だった。
星空の下、僕たちは久しぶりに肩を並べて座った。陽介が静かに口を開く。
「なあ、ケンタ。俺たち、これからどんなに離れても、この星空を思い出せば、いつでも繋がってる。そうだろ?」
彼の横顔を照らす星の光が、やけに眩しい。僕は溢れそうになるものをぐっとこらえて、力強く頷いた。
「ああ。そうだな。僕たちの秘密基地は、宇宙になったんだから」
翌日、僕は笑顔で陽介を乗せた車を見送った。胸にあったはずの不安は、もうどこにもなかった。僕たちの頭上には、昼間でも見えない無数の星が輝いている。あの星屑のコンパスが、僕たちの進む道を、いつまでも照らし続けてくれるはずだから。遠い空の下で同じ星を見上げる親友を想い、僕はそっと空に手を振った。
星屑のコンパス
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