星屑のアルカディア

星屑のアルカディア

9
文字サイズ:

***第一章 錆びた鍵と最後の頼み***

相葉拓海の葬儀は、まるで彼の人生を凝縮したかのように、穏やかで、少しだけ風変わりだった。祭壇には満面の笑みを浮かべた写真。その周りを囲むのは、彼が愛した天体望遠鏡と、ガラクタにしか見えない自作の発明品の数々。俺、水野圭介は、現実感のないまま焼香を終え、その日から心にぽっかりと穴が空いたような、それでいて何も感じないような、奇妙な一ヶ月を過ごしていた。

そんなある日の午後、法律事務所から一通の封書が届いた。拓海の遺言に関するものだった。指定された日時に事務所へ赴くと、初老の弁護士が事務的な口調で用件を切り出した。
「相葉拓海氏のご遺言に基づき、こちらをお渡しします」
差し出されたのは、使い古されたブリキの工具箱のような、重たい木箱だった。表面は擦り切れ、角の金具は赤錆が浮いている。そして、南京錠が一つ。その鍵は、埃をかぶった小さな封筒に入れられていた。

「拓海が、俺に……?」
「はい。『他のものは全て処分して構わないが、これだけは必ず親友の圭介に渡してほしい』と。強いご遺志でした」

その夜、俺はアパートの床に座り込み、木箱を前に途方に暮れていた。仕事の疲れが鉛のように体にのしかかる。現実主義の俺にとって、幼馴染で唯一の親友だった拓海は、いつだって夢見がちな少年そのものだった。三十路を過ぎても、彼の瞳は星空や未発見の昆虫、そして実現不可能な発明品に輝いていた。ここ数年、仕事にかまけて疎遠になっていたが、彼のそんな部分が、少しだけ重荷になっていたのも事実だ。

ため息と共に出てきたのは、苛立ちにも似た感情だった。死んでまで、また俺を振り回すのか。
錆びた鍵を錠に差し込むと、ぎしり、と嫌な音がした。力を込めると、カチリと乾いた音を立てて錠が開く。蓋を持ち上げると、樟脳の匂いと、古い木の香りがふわりと鼻をかすめた。

箱の中身は、拍子抜けするほどシンプルだった。丁寧に梱包された木製の部品。バルサ材や檜だろうか、精巧に切り出されたそれらは、何かの模型の一部らしかった。そして、一枚の便箋。そこには、拓海の癖のある、少し丸っこい文字が並んでいた。

『圭介、これを完成させてくれ。最後の頼みだ』

その一行だけが、やけに大きく見えた。説明も、理由もない。ただ、一方的な要求だけがそこにあった。俺は便箋をくしゃりと握りつぶしそうになり、寸前で思いとどまった。なんだよ、これ。冗談にしては、たちが悪すぎる。夜の静寂の中、未完成の模型は、まるで俺の空虚な心を形にしたかのように、ただ黙って横たわっていた。

***第二章 記憶の設計図***

拓海の「最後の頼み」を無視することは、なぜかできなかった。週末、俺は床に広げた部品と、丸められた設計図を睨みつけていた。それは、二人が子供の頃に飽きもせずスケッチブックに描いていた空想の乗り物――帆船と飛行船を合体させたような、「空飛ぶ船・アルカディア号」の設計図だった。

「馬鹿馬鹿しい……」
呟きながらも、俺の手はカッターと接着剤を握っていた。設計図には、寸法や手順だけでなく、拓海らしい奇妙な注釈がびっしりと書き込まれていた。

『船体の竜骨は、俺たちが初めて秘密基地を作ったあの森の、一番高い木のように、まっすぐ力強く』
『帆柱に使う木材は、小学生の夏休み、二人で捕まえたカブトムシの背中の色に塗ること』
『甲板を貼り合わせる時は、あの頃の夕立の後の、湿った土の匂いを思い出して』

最初は意味不明な指示に悪態をつきながら、俺は作業を進めた。バルサ材の軽い手触り、カッターの刃が木を削る乾いた音、接着剤のツンとした匂い。それらが混ざり合ううちに、俺の意識はコンクリートの部屋を離れ、遠い過去へと遡っていった。

そうだ、あの森の木は、空を突き刺すように伸びていた。秘密基地の床板は雨に濡れて、独特の甘い匂いがした。カブトムシの艶やかな黒光りは、夏の陽射しを弾いて宝石のようだった。忘れていたはずの光景が、匂いが、音が、指先から蘇ってくる。

模型作りは、いつしか過去を再構築する旅のようになっていた。拓海との日々が、部品の一つ一つに宿っているかのようだった。蝉時雨の帰り道、分け合った一本のアイス。夜の校庭に忍び込み、寝転がって見た流星群。くだらないことで笑い転げ、本気で喧嘩もした。大人になるにつれて、そんな輝かしい記憶は、仕事の締め切りや人間関係の煩わしさの奥底に沈み、色褪せてしまっていた。

「なんで今さら、こんなことを……」

拓海の意図は、まだ分からない。だが、苛立ちは消え、代わりに胸の奥に小さな灯りがともるような、温かくも切ない感覚が広がっていた。俺は、いつから拓海とちゃんと向き合っていなかっただろう。最後に交わした会話は、当たり障りのない仕事の愚痴だけだった。彼の瞳の奥にあったはずの輝きを、俺は見ようともしていなかった。

***第三章 星屑の告白***

模型作りは佳境に入っていた。船体は優美な曲線を描き、帆柱が天を突く。残すは、船の心臓部ともいえる羅針盤だけだった。設計図によると、羅針盤は特別な部品ケースに入っているはずだった。俺がその小さな木箱を開けた時、設計図のロール紙の芯が、不自然に固いことに気がついた。

何か詰まっている。指で探ると、固く巻かれたもう一枚の紙片が引きずり出された。それは黄ばんだわら半紙で、拓海の文字でびっしりと何かが書かれていた。それは、彼が俺に宛てた、本当の「設計図」だった。

『圭介へ。この手紙を読んでいるということは、君はアルカディア号をほとんど完成させてくれたんだね。ありがとう。そして、ごめん』

その書き出しに、心臓が嫌な音を立てた。

『驚かせたくなくて、ずっと言えなかったんだ。僕は数年前から、少しずつ記憶が消えていく病気だった。最初は昨日の夕食を忘れるくらいだったのが、だんだんと人の名前や、大切な出来事まで、霧の中に消えていくようになった。まるで、ハードディスクのデータが壊れていくみたいに』

ページをめくる手が震えた。知らなかった。そんなこと、一言も……。

『一番怖かったのは、君のことを忘れてしまうことだった。圭介との思い出は、僕の人生そのものだったから。だから、この船を作ることにしたんだ。これはただの模型じゃない。僕の記憶の箱舟なんだよ。竜骨は、君が骨折した僕を背負ってくれた時の、頼もしかった背中。帆は、二人で見た夕焼けの色。一つ一つの部品に、僕が消えてほしくないと願った君との記憶を、必死で詰め込んだんだ』

涙が、設計図の上に落ちて染みを作った。最近の拓海の、どこか上の空な態度。時折、会話が噛み合わなかったこと。俺はそれを、彼の夢見がちな性格のせいだと片付け、苛立ちさえ覚えていた。だが、違った。彼は、失われていく記憶の奔流の中で、必死に俺との繋がりという名の錨を下ろそうと、もがいていたのだ。

『君に会うのも辛かった。君の名前が喉まで出かかっているのに、言葉にならない時があった。君が話してくれた先週の出来事を、覚えていないフリをしたこともあった。冷たい奴だと思っただろう? ごめん。君を傷つけるくらいなら、忘れていく僕を、君にも忘れてほしかった。でも、やっぱり駄目だった。僕が生きた証は、僕たちの友情の中にしかないんだ』

嗚咽が漏れた。喉の奥が焼け付くように熱い。俺はなんて愚かだったんだ。親友のたった一人の孤独な闘いに、全く気づかずにいた。自分の物差しで彼を測り、勝手に失望していた。箱の中にあったのは、未完成の模型なんかじゃなかった。それは、拓海が記憶の星屑を拾い集めて紡いだ、魂の告白そのものだった。

『もし君がこれを完成させてくれたなら、僕の記憶は、僕の魂は、この船の中で生き続ける。だから、最後の頼みだ。この船に、君の記憶も乗せて、未来へと航海させてやってくれ』

手紙は、そう結ばれていた。俺は床に突っ伏し、子供のように声を上げて泣いた。

***第四章 夜明けの航海***

涙は枯れ果て、代わりに静かな決意が胸を満たしていた。俺は顔を上げ、夜を徹して最後の仕上げに取りかかった。羅針盤を取り付ける指は、もう迷わなかった。それは拓海の魂を、あるべき場所へと導くための儀式だった。

窓の外が白み始める頃、アルカディア号は完成した。それは決して完璧な模型ではなかったかもしれない。少し歪んだマスト、接着剤のはみ出した跡。だが、俺には何よりも美しく、尊いものに見えた。拓海と俺の、三十年分の時間がそこに凝縮されていた。

俺は完成したアルカディア号を、壊れ物を扱うようにそっと抱え、アパートを飛び出した。向かう先は決まっていた。街を見下ろす、二人の思い出の丘だ。息を切らして坂を駆け上ると、東の空が燃えるような茜色に染まり始めていた。

冷たい夜明けの空気の中、俺はアルカディア号を空に掲げた。

もちろん、船は飛ばない。物理の法則を無視する奇跡は起こらない。

だが、俺の目にははっきりと見えた。朝日を浴びて黄金に輝くアルカディア号が、その木製の体から光の粒子をキラキラと撒き散らしながら、ふわりと宙に浮くのを。帆は夜明けの風をいっぱいに孕み、甲板のへさきには、あの頃と変わらない、屈託のない笑顔の拓海が立っていた。彼は俺に向かって一度だけ手を振ると、朝焼けの大空へと、高く、高く、昇っていった。

「……行ったか、拓海」

俺は呟いた。頬を伝うのは、もう悲しみの涙ではなかった。
胸の穴は、塞がってはいなかった。だが、その空洞には、拓海が遺してくれた無数の星屑がキラキラと輝き、温かい光で満たされていた。

友情とは、共に過ごした時間の長さや、物理的な距離で測るものではないのかもしれない。どれだけ深く相手を想い、その記憶を心に刻み、未来へと繋いでいくか。それこそが、友情の本質なのかもしれない。

拓海のいない世界は続く。だが、俺はもう一人ではない。心の中に、星屑の海原を往く、一隻の船があるのだから。
俺は空っぽだった心に再び羅針盤が据えられたような、静かで力強い感覚を覚えながら、新しい光に満ちた世界へと、ゆっくりと歩き出した。

TOPへ戻る