僕と陽介にとって、世界は二人だけのプラネタリウムだった。町の外れにある、名前もない小高い丘。そこが僕らの特等席だった。草の匂いと夜の静寂に包まれながら、二人で寝転んで星空を見上げる。それが、僕らの世界のすべてだった。
陽介は、いつだって僕の隣で星座早見盤をくるくる回しながら、遠い星々の物語を語ってくれた。彼の声が夜空に溶けていくのを聞いているのが好きだった。永遠にこの時間が続けばいいと、本気でそう思っていた。
だから、陽介の父親の転勤が決まったと聞かされた日の夜は、空がやけに滲んで見えた。
「来年のペルセウス座流星群、見られないな、一緒には」
出発を二日後に控えた夜、いつもの丘で陽介がぽつりと言った。僕の胸を、冷たい風が吹き抜ける。寂しさを見透かされないように、僕はわざと明るい声で応えた。
「仕方ないだろ。その代わり、すごいのが見えたら教えろよ」
「それじゃつまんない」
陽介はむくりと起き上がると、僕の目をまっすぐに見て言った。
「約束しよう、湊。一年後の今日、ペルセウス座流星群が極大になる夜。それぞれの場所で、同じ時間に空を見上げるんだ。そして、一番大きな流れ星を見つけたら、心の中で相手の名前を叫ぶ。どうだ? 星を渡るテレパシーみたいで、面白そうだろ」
星渡りの約束。その子供じみた、けれどロマンチックな響きに、僕は強く頷くことしかできなかった。それが、僕と陽介が交わした最後の約束になった。
陽介が去った町は、少しだけ彩度を失ったように見えた。最初の数ヶ月は、毎日のようにメッセージを送り合った。新しい学校のこと、部活のこと、陽介の世界が広がっていく様子が、画面の向こうから伝わってくる。僕は一人で丘に登り、星を見上げたが、隣に陽介がいない観測は、ただの夜空との対峙に過ぎなかった。星は綺麗なのに、その美しさを分かち合う相手がいないだけで、こんなにも冷たく見えるものなのか。
季節が巡り、連絡の頻度は緩やかになった。陽介からのメッセージには、僕の知らない友達の名前が登場するようになった。楽しそうな彼の日常を喜ぶべきなのに、胸の奥に澱のような孤独が溜まっていく。僕たちの「星渡りの約束」は、陽介の新しい世界の中で、もう忘れ去られた古い記憶になっているのかもしれない。そんな不安が、夏の湿った空気と共に心を重くした。
それでも、僕は約束を信じたかった。古い天体望遠鏡を磨き、流星群が最もよく見える方角を何度も確認した。僕だけでも、この約束を守り抜く。それが、僕に残された最後の意地だった。
約束の夜まで、あと一週間。悪夢は、天気予報という無機質な声で告げられた。大型の台風が日本列島に接近しており、流星群の夜、僕の住む地域は暴風域に入る確率が極めて高い、と。
目の前が真っ暗になった。この一年の支えだった細い糸が、ぷつりと切れる音がした。天候という、人間の力ではどうしようもない絶対的な壁。陽介に「今年は無理そうだ」と連絡しようとスマートフォンを手に取ったが、指が動かなかった。もし彼が「そっか、残念」とあっさりした返事を返してきたら? 僕たちの友情が、その程度のものだったと証明されてしまうのが怖かった。
そして、約束の夜が来た。窓の外は、激しい風雨がすべてを打ちつけている。空は分厚い絶望の雲に覆われ、星一つ見えなかった。僕は部屋の明かりを消し、光のない窓枠をただ見つめた。諦めと虚しさが、喉元までせり上がってくる。
その時、ふと陽介の言葉が蘇った。
『なあ湊、星が見えない夜でも、星はそこにあるんだよな』
いつだったか、曇り空を見上げて彼が言った言葉。そうだ。見えなくても、そこにある。僕たちの友情だって、きっと同じはずだ。
僕は、まるで何かに突き動かされるようにベランダへのドアを開けた。吹き付ける雨と風が、頬を容赦なく打つ。それでも僕は空を見上げた。厚い雲の向こう、遥か彼方にあるはずの星空を、そして同じ空の下にいるはずの陽介を、心の目で見つめた。
目を閉じ、一年間の出来事を走馬灯のように思い返す。一人で見た星空。陽介からの何気ないメッセージ。募る孤独と、消えなかった微かな希望。僕は、想像できる限りの一番大きな流れ星を心に描き、ありったけの想いを込めて叫んだ。
――陽介!
その瞬間だった。まるで僕の声に応えるように、ポケットのスマートフォンが震えた。画面に灯ったのは、陽介からのメッセージ通知。震える指で開く。
『こっちは雲ひとつないぜ。さっき、とんでもなくデカいのが流れた。ちゃんとお前の名前、叫んどいたからな!』
メッセージには一枚の写真が添えられていた。満天の星がこぼれ落ちそうな夜空を背景に、少し大人びた陽介が、僕に向けてピースサインをしていた。
その写真を見た途端、僕の目から熱いものが止めどなく溢れ出した。頬を伝うのが雨なのか涙なのか、もうどうでもよかった。空が見えなくても、声が聞こえなくても、僕たちの心は、確かに星を渡って繋がっていた。
僕は、濡れた指で懸命に返信を打つ。
『こっちもだ。聞こえたぜ、お前の声』
見えない星を見上げた夜。それは、僕が陽介と見たどんな美しい星空よりも、強く、そして温かく、僕の胸に刻み込まれた。僕たちの友情は、空模様なんかで揺らぐほど、やわなものじゃなかったのだ。
星渡りの約束
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