絵の具とテレピン油の匂いが混じり合う放課後の美術室。俺、海斗は巨大なキャンバスの前で立ち尽くしていた。締め切りまであと一週間だというのに、パレットの上でくすんだ色が混ざり合うだけで、描きたいものは何ひとつ形にならなかった。焦りが、鉛のように腹の底に溜まっていく。
「よぉ、海斗。まだやってんのか」
背後からかけられた屈託のない声に、びくりと肩が震えた。振り向くと、そこに陽介が立っていた。陽介は俺の幼馴染で、そして、俺が逆立ちしても敵わない才能を持つやつだった。
「陽介……。お前こそ、もう終わったんだろ」
「まあな。でも、なんか物足りなくてさ」
そう言うと、陽介は俺の隣にイーゼルを立て、真っ白なキャンバスを置いた。そして、まるで呼吸でもするかのように、迷いなく木炭を走らせる。数分後、そこには躍動感あふれる馬の姿が浮かび上がっていた。たてがみの流れ、筋肉の躍動、その瞳に宿る野生の光までが、たった数本の線で表現されている。神様は不公平だ。俺が何日もかけて捻り出そうとしているものを、こいつは鼻歌交じりで生み出してしまう。
「やっぱ、お前の隣で描くのが一番しっくりくるな」
無邪気に笑う陽介の横顔が、西日に照らされて眩しかった。その光が、俺の心に濃い影を落とす。俺たちは、いつからこんなに遠くなってしまったのだろう。
陽介を避けるようになったのは、自然な流れだった。彼の才能を前にすると、自分の努力がすべて無価値に思えてならなかったからだ。「すごいな」という言葉は、喉の奥で嫉妬の棘に変わり、口に出せなくなった。陽介は何度も「最近、付き合い悪いじゃん」と声をかけてきたが、俺は「コンクールで忙しい」というありきたりな嘘で逃げ続けた。空っぽのキャンバスを前に、俺は陽介ではなく、自分自身の才能のなさを呪っていた。友情という綺麗な言葉が、ひどく偽善的に聞こえた。
そして、締め切り前日の夜。俺はついに筆を折った。描きかけの醜い絵は、俺の劣等感そのものだった。怒りと絶望にまかせてキャンバスを床に叩きつけ、破り捨てようとした、その時だ。足元に、見慣れたスケッチブックが落ちているのに気づいた。陽介の忘れ物だった。
魔が差した、としか言いようがない。俺は震える手でそのスケッチブックを拾い、ページをめくってしまった。そこに広がっていたのは、信じられない光景だった。
スケッチブックは、俺の絵で埋め尽くされていた。窓辺で本を読む横顔。昼飯を頬張る気の抜けた顔。そして、キャンバスに向かう真剣な眼差し。何十枚、何百枚と描かれた俺の姿。そのどれもが、驚くほど優しい線で描かれていた。最後のページに、一枚のメモが挟まっているのが見えた。
『海斗のあの青が、俺には出せない。何度塗り重ねても、あんなに深く、静かな光にはならない。諦めずに描き続ける、あの一途な光が、羨ましい』
心臓を鷲掴みにされたような衝撃だった。陽介が? この俺に? 羨ましい、だと? 陽介が描く馬の瞳の光も、空の広がりも、その源泉は、俺が必死にキャンバスに向かう姿にあったというのか。俺が嫉妬していた光は、俺自身が放っていた光の反射だったのかもしれない。そう思った瞬間、涙が溢れて止まらなかった。
その時、美術室の扉が乱暴に開いた。息を切らした美術教師が叫ぶ。
「相沢! 篠田が倒れた! 過労らしい、今、病院に運ばれたぞ!」
陽介、と呟いた声は掠れていた。あいつは、自分の絵を描きながら、俺のことまで見ていてくれたのか。俺が逃げている間も、ずっと。
病院の白いベッドで眠る陽介の顔は、ひどく穏やかだった。傍らには、まだところどころ空白の残る、コンクール用のキャンバスが立てかけられていた。俺は、美術室に投げ捨ててきた自分のキャンバスを思い出した。まだ、終わっていない。俺は病室を飛び出し、夜の闇の中を走った。
コンクールの会場に、俺たちの絵は隣り合って飾られていた。
陽介の絵は、天賦の才が溢れる圧巻の作品だったが、どこか切実な祈りのようなものが込められていた。そして俺の絵。技術は拙い。構図も平凡だ。けれど、俺は持てるすべてを、あの夜の想いを、パレットナイフでキャンバスに刻みつけた。友への懺悔と、感謝と、そして祈りを込めて。それは、不格好だが、確かな光を放っているように見えた。
「お前の絵、すげー良かったよ」
人混みの中から、聞き慣れた声がした。少し痩せた陽介が、照れ臭そうに笑っていた。
「俺には描けない光だ。あの青、最高だよ」
「……陽介」
「わりぃな、心配かけて」
俺は首を横に振った。言葉はうまく出てこない。ただ、心の底から込み上げてくる熱い思いを込めて、こう言うのが精一杯だった。
「お前がいたから、描けたんだ」
陽介は一瞬きょとんとして、それから、昔のようにくしゃりと笑った。才能とか、評価とか、そんなものよりもずっと大切なものが、確かにここにある。俺たちはどちらかが太陽で、どちらかが月というわけじゃない。互いの光を映し合い、照らし合うことで、ようやく輝ける二つの星なのだ。
会場の窓から差し込む光が、俺たちの足元に二つの影を並べていた。それはもう、以前のようにどちらかが濃いというわけではなく、同じ濃さで、どこまでも伸びていくように見えた。
光の在り処
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