***第一章 謎の小包***
笹森樹(ささもり いつき)の日常は、整然としていて、波風ひとつ立たなかった。都心のデザイン事務所でグラフィックデザイナーとして働く彼の生活は、合理性と効率性で塗り固められている。人間関係は浅く、広く。誰かと深く関わるのは、時間と感情の無駄遣いだと、いつからか思うようになっていた。
そんな彼の凪いだ日常に、小石が投げ込まれたのは、ある雨の日の午後だった。配達員が置いていったのは、茶色い紙に包まれた小さな小包。差出人の名前はなく、ただ、懐かしい丸文字で樹の住所だけが記されていた。その文字を見た瞬間、樹の心臓が不自然に跳ねた。忘れたくても忘れられなかった、親友の筆跡だった。
相葉陽向(あいば ひなた)。太陽のような笑顔と、突拍子もない行動でいつも樹を振り回していた高校時代の親友。そして、十年前に理由も告げず、ぷっつりと姿を消した男。
震える手で包みを開けると、中から出てきたのは一台の古いフィルムカメラだった。使い込まれて角が擦り切れた、銀色のボディ。それは、陽向が高校時代にアルバイト代を貯めて買った、彼の一番の宝物だったはずだ。なぜ、今になってこれが? カメラの背面にある小さな窓には、「24」という数字が表示されている。撮り終えられたフィルムが、まだ中に入ったままなのだ。
十年前のあの日、陽向は「ちょっと旅に出る」とだけ書いた一枚のメモを残して消えた。裏切られた、と樹は思った。あれほど分かち合った時間も、交わした約束も、陽向にとっては些細なことだったのだと。その裏切りが、樹の心に固い蓋をした。もう誰も、あんなふうに信じるものか、と。
樹はカメラをテーブルに置き、しばらく眺めていた。これを現像すべきか、否か。陽向の十年分の不在が、ずしりと重くのしかかる。もし、この中に彼の身勝手な言い訳でも写っていたら? 自分の心を乱すだけの結果になるかもしれない。それでも、指先は無意識にカメラを撫でていた。あの頃の陽向は、よく言っていた。「未来の自分に手紙を書くように、未来の誰かに写真を撮るんだ」と。
このフィルムは、十年越しの陽向からの手紙なのだろうか。樹は深く息を吸い、近所の写真店へと向かう決心をした。雨上がりのアスファルトの匂いが、妙に鼻をついた。
***第二章 陽向の足跡***
数日後、現像された写真を受け取った樹は、カフェのテーブルで一枚一枚、ゆっくりとそれをめくっていた。窓の外では、せわしない街の景色が流れていく。しかし、樹の時間は、写真の中に閉じ込められた過去へと引き戻されていた。
そこに陽向の姿はなかった。一枚も。
写っていたのは、見知らぬ風景ばかりだった。ひなびた漁港に停泊する古い漁船。夕日に染まる田んぼのあぜ道で笑う老婆。夏の入道雲の下、ひまわり畑ではしゃぐ子供たち。そして、寂れた商店街の猫。どれもこれも、陽向が撮ったであろう、彼の視点そのものだった。まるで、彼が見た世界の断片を、そのまま切り取って送ってきたかのようだった。
「一体、何を考えてるんだ、お前は……」
樹はため息をついた。だが、その中に一枚、見覚えのある風景があった。古びた灯台が写る、海辺の町の写真だ。高校時代、二人でよくバイクを飛ばして訪れた場所だった。写真の隅に、小さなカフェの看板が写り込んでいる。『海猫亭』。昔はなかった店だ。
何かに導かれるように、樹は週末、その町へ向かった。潮の香りが記憶を呼び覚ます。目的のカフェはすぐに見つかった。店のドアを開けると、カラン、と心地よいベルの音が鳴る。白髪のマスターに写真を見せると、彼は目を細めた。
「ああ、この写真を撮った若者のこと、覚えてますよ。人懐っこい笑顔の……ひなた、君だったかな」
樹の心臓が大きく脈打った。「彼、どこに行ったかご存知ですか?」
「さあ……。彼はしばらくこの町にいて、よくうちに来ては、町の人たちの写真を撮っていました。『この景色の温かさを、誰かに伝えたくて』なんて、照れ臭そうに笑ってね。でも、ある日ふらりといなくなってしまった。渡り鳥みたいな人でしたよ」
手がかりはそれだけだった。しかし、樹は諦めなかった。他の写真にも、場所を特定できそうなヒントが隠されていた。錆びた駅名標、特徴的な橋、山の稜線。樹はまるで宝探しをするように、陽向の足跡を辿る旅を始めた。
北陸の小さな村では、写真に写っていた老婆の孫娘に会った。彼女は「お兄ちゃんが撮ってくれた祖母の写真は、今も遺影として飾ってあるんです。最高の笑顔だから」と涙ぐんだ。四国の山村では、陽向が子供たちに写真の撮り方を教えていたという話を聞いた。行く先々で出会う人々は、誰もが陽向のことを温かい眼差しで語った。
樹の中で、十年かけて固まった陽向のイメージが、少しずつ溶けていくのを感じていた。彼が思っていたような、無責任で身勝手な人間ではなかったのかもしれない。彼が見ていた世界は、こんなにも優しくて、温かい光に満ちていたのか。旅を続けるうちに、樹の心には、陽向への怒りではなく、純粋な問いが浮かんでいた。
――陽向、お前はどこで、何をしているんだ?
***第三章 天文台の真実***
最後の写真。それは、満天の星空だった。無数の星々が、まるで宝石を散りばめたように夜空を埋め尽くしている。その隅に、銀色のドームを持つ小さな建物が写っていた。樹はその場所を知っていた。
高校二年の夏、二人で見た流星群の夜。陽向は興奮した面持ちで言ったのだ。「なあ樹、いつか絶対、あの山の上にある天文台に行こうぜ。あそこからなら、宇宙に手が届くかもしれない!」
それは、果たされなかった約束の場所だった。
樹は車を走らせ、山道を登った。カーブを抜けるたびに、胸の鼓動が速くなる。十年越しの再会。どんな顔で会えばいい? 何を話せばいい? 怒りも、寂しさも、何もかもが混ざり合って、言葉にならない感情が渦巻いていた。
やがて、木々の向こうに、写真と同じ銀色のドームが見えた。樹は車を停め、天文台へと歩いた。入り口の前に、一人の女性が静かに立っていた。陽向ではない。しかし、その柔らかな面差しに、どこか彼の面影があった。
「笹森、樹さん、ですか」
女性が問いかける。樹が頷くと、彼女は深くお辞儀をした。
「相葉海(うみ)です。陽向の、妹です」
妹。陽向に妹がいたなんて、一度も聞いたことがなかった。混乱する樹に、海は静かに、しかし、はっきりとした口調で告げた。
「兄は、八年前に亡くなりました」
時間が、止まった。耳鳴りがして、海の言葉が頭の中で反響する。嘘だ、と思った。何かの悪い冗談だ、と。しかし、彼女の瞳は、悲しいほどに真摯だった。
「兄は、若年性のアルツハイマー病でした。二十代前半での発症は、極めて稀なケースだったそうです」
海の話は、樹の十年を根底から覆すものだった。陽向が姿を消したのは、病が発覚した直後だった。彼は、自分の記憶が少しずつ失われていく恐怖と戦っていた。そして何より、大切な親友である樹に、そんな惨めな姿を見せたくなかった。負担をかけたくなかった。悲しませたくなかった。それが、彼の不器用な、あまりにも不器用な優しさだった。
「兄は、記憶が薄れていく中で、必死にシャッターを切り続けました。自分が忘れてしまっても、このカメラが覚えていてくれるように。そして、自分が愛したこの世界の景色を、最後にイツキに見てほしかったんだと思います」
旅先で出会った人々との温かい交流も、全ては消えゆく記憶との戦いの中で、陽向が必死に掴もうとした光だったのだ。
「このカメラを送ったのは、私です。兄の遺言でした。『僕がいなくなって、十年経ったら、いちばんの親友に、僕の最後の景色を届けてほしい』って」
涙が、頬を伝った。裏切られたと思っていた。自分だけが、置き去りにされたのだと。だが、違った。陽向はたった一人で、想像を絶する孤独と恐怖の中にいたのだ。樹が彼を憎んでいた十年間、陽向は樹のことを、ただの一度も忘れてはいなかった。
***第四章 君が見た星空***
海から、一通の封筒を手渡された。陽向が最後に書いた手紙だという。天文台の観測室で、樹はそれを開いた。そこには、震えるような、途切れ途切れの文字が並んでいた。
『イツキ、ごめん。うまく、思い出せない。でも、君の名前だけは、なぜか、ずっとここにある。君と見た夕焼けも、くだらない冗談も、忘れたくなかった。この写真が、僕の代わりに、君のそばにいてくれますように。……星が、きれいだ』
文字はそこで途切れていた。樹は声を上げて泣いた。子供のように、ただ嗚咽した。後悔と、感謝と、どうしようもないほどの愛しさが、胸を引き裂くようだった。陽向の友情は、樹が思っていたよりもずっと深く、そして切ないものだった。
数日後、樹は自分のカメラを首から下げ、陽向が旅した道を、もう一度一人で辿っていた。陽向が見た漁港を、陽向が笑いかけた老婆の家を、陽向が遊んだひまわり畑を。それは、失われた時間を取り戻すための、静かな巡礼だった。陽向の視線を、今度は自分の心に焼き付けるために。
そして、再びあの天文台へとやってきた。夜空には、あの日陽向が見たであろう、満天の星が広がっている。隣には誰もいない。ひどく静かだ。けれど、樹はもう一人だとは感じなかった。陽向の眼差しが、彼の友情が、星々の光となって、今も自分に降り注いでいる気がした。
樹はファインダーを覗き、星空にピントを合わせた。
「見てるか、陽向」
静寂が、彼の言葉を吸い込んでいく。
「……きれいだよ。すごく」
カシャッ、と乾いたシャッター音が響いた。それは、未来の誰かに宛てたものではない。過去のかけがえのない友人と、これからを生きていく自分自身に宛てた、始まりの一枚だった。残光が満ちるファインダーの向こうで、一番星がひときわ強く輝いて見えた。
残光のファインダー
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