クロノ・ギアの翼

クロノ・ギアの翼

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雲の上に浮かぶ都市、アエトリア。人々は歯車と翼を組み合わせた飛行装置《クロノ・ギア》を背負い、空を庭のように駆け巡る。僕、リクにとって、その空は果てしなく広がる恐怖の対象でしかなかった。

「まだそんな低いところを飛んでるの? アリの行列でも見てるわけ?」

頭上から降ってきた声に、僕はびくりと肩を震わせた。見上げれば、幼馴染のソラが太陽を背に、アクロバティックな宙返りを決めている。彼女の銀翼のクロノ・ギアは、まるで身体の一部のようにしなやかに空気を捉えていた。

「うるさいな。安全第一なんだよ」
「臆病なだけでしょう? リクの作るギアはアエトリアで一番精密なのに、乗り手がそれじゃ宝の持ち腐れよ」

軽口を叩きながら、ソラは僕の隣にふわりと降り立つ。僕のギアはいつも地面すれすれの低空飛行。それが、高所恐怖症の僕にできる精一杯の飛行だった。

近頃、アエトリアでは奇妙な「空揺れ」が頻発していた。評議会は「大気の周期的な乱れだ」と説明していたが、ソラは納得していなかった。
「絶対におかしい。この揺れ、都市の心臓部……《大浮遊石》が弱っている悲鳴みたいに聞こえるの」
彼女の真剣な瞳が僕を射抜く。
「リク、お願い。一緒に都市の最下層にある動力炉へ行ってほしいの。あなたの技術があれば、警備システムを突破できる」
「冗談だろ!? 最下層なんて、この都市で一番高い場所から一番低い場所へ行くようなものじゃないか! 無理だ!」

僕が頑なに断った数日後、これまでで最大の空揺れが都市を襲った。ガシャン!と耳を劈く轟音。僕の工房の工具棚が倒れ、咄嗟にソラが僕を突き飛ばして庇ってくれた。幸い彼女に怪我はなかったが、棚の下敷きになった木箱がばらりと割れていた。中から現れたのは、子供の頃、僕が初めて作った翼の模型。ソラと二人で、いつか本当の空を飛ぼうと誓った、思い出の品だった。粉々になった翼の残骸を見て、僕は悟った。このままでは、思い出も、ソラも、この街の全てを失ってしまう。

「……わかった。行くよ、ソラ」

僕の言葉に、彼女は何も言わず、力強く頷いた。

その夜、僕たちは闇に紛れて動力炉へと向かった。月明かりが照らす都市の縁は、奈落へと続く断崖絶壁だ。眼下に広がる雲海を見下ろすだけで、足が竦んで動けなくなる。
「大丈夫。私がついてる」
ソラは僕の手を握った。その温かさが、凍りついた心を少しだけ溶かしてくれる。
彼女の計画は大胆だった。ソラが囮となって警備ドローンを引きつけ、その隙に僕が制御パネルをハッキングしてセキュリティを無力化する。
「リク、30秒!」
ソラのギアが夜空を切り裂く。無数のレーザー光線が彼女を追うが、ソラはまるで踊るようにそれをかわしていく。僕は震える指で端末を操作し、パスコードを打ち破った。
「開いた! 行け!」
分厚い隔壁が開き、僕たちは動力炉へと続くシャフトを降下していく。吹き上げる強風に煽られ、僕は何度も悲鳴を上げたが、ソラの背中がいつも僕の前を飛び、風除けになってくれた。

そして、僕たちはついにアエトリアの心臓部にたどり着いた。
息を呑む光景だった。都市を浮かせる巨大な《大浮遊石》が、禍々しい紫色の光を放ちながら弱々しく明滅している。その表面には、巨大な結晶体の寄生生物が、まるで癌細胞のようにびっしりと根を張っていたのだ。奴が浮遊石のエネルギーを喰らっていたのだ。
「評議会の奴ら、これを隠して……!」
ソラが怒りに声を震わせた瞬間、寄生生物の中心部が脈動し、巨大な結晶の触手が僕たちをめがけて伸びてきた。
「リクは下がって!」
ソラは僕を庇い、単身で触手との戦闘に突入した。しかし、相手はあまりに巨大で、数も多い。一瞬の隙を突かれ、彼女の身体が結晶の触手に捕らえられてしまった。
「ソラ!」
ギアの翼が砕け、身動きが取れなくなったソラが苦悶の表情を浮かべる。僕の頭の中で、恐怖を告げる警報が鳴り響いた。落ちる。死ぬ。ダメだ。
だが、それよりも鮮明に、ソラを失う光景が脳裏をよぎった。

――ソラを失う方が、落ちるより怖い!

僕の中で、何かが弾け飛んだ。
「うおおおおぉぉぉっ!」
僕は、自分のクロノ・ギアの出力を最大にした。オーバーロードの警告音がけたたましく鳴る。僕自身が改造した、リミッター解除モードだ。
「待ってろ、ソラ!」
地面すれすれしか飛べなかった臆病な翼が、初めて空高く舞い上がる。風が頬を切り裂く痛みも、眼下の奈落も、もう怖くなかった。
僕は動力炉の制御システムに目を走らせる。寄生生物は浮遊石のエネルギーを吸っている。ならば!
「ソラ! エネルギーを逆流させる! 奴が怯んだ瞬間に、石から引き剥がすんだ!」
「……無茶よ! あなたまで!」
「いいから! 僕を信じろ!」

僕は制御パネルに突進し、配線を無理やり引き抜いて繋ぎ変える。凄まじい火花が散り、システムが悲鳴を上げた。次の瞬間、動力炉から溢れ出した純粋なエネルギーが逆流し、寄生生物を直撃した。
ギャアアアアッ!
断末魔のような叫びと共に、寄生生物が苦しみ、触手の拘束が緩む。
「今だ、ソラ!」
ソラは最後の力を振り絞り、砕けた翼で結晶の根を蹴り飛ばした。巨大な寄生生物はついに浮遊石から剥がれ、都市の底へと落下していく。

都市の揺れが、ぴたりと止まった。
僕とソラはボロボロになりながら、互いのギアに身を寄せ合った。動力炉のシャフトから、夜明けの光が差し込んでくる。アエトリアを照らす、希望の光だ。
「……リク。すごいじゃない。飛べたじゃない」
「君がいたからだよ」
高所恐怖症は、まだ治っていない。だけど、ソラと一緒なら、どこまでも飛んでいける気がした。

壊れた翼の模型の代わりに、僕たちは本物の翼で、アエトリアの未来を掴み取ったのだ。朝日が昇る空で、僕たちは強く、固く、手を握りしめた。

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