塵の重力、あるいは友情の引力

塵の重力、あるいは友情の引力

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第一章 見えない錨

僕の体内には、見えない錨が沈んでいる。

親友のリョウが屈託なく笑うたび、その錨はぎしりと重みを増し、僕の肺を内側から圧迫する。それは友情の証、絆の結晶。リョウとの時間が深まるほどに育ち、僕の存在を地面に縫い付けていく、甘美で残酷な重りだ。

「カイ、また難しい顔してるぞ。ほら、これ」

リョウが差し出したのは、銀紙に包まれた小さなチョコレート。公園のベンチに並んで座る僕らの間を、乾いた風が吹き抜けていく。彼の指先が僕のそれに触れた瞬間、胸の奥で結晶が熱を帯び、とくん、と脈打った。その振動に耐えるように、僕は息を詰める。

「……ありがとう」

かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほどか細かった。リョウは何も知らない。僕が、彼との友情によって少しずつ死へ近づいていることなど。この世界では、最も深い絆を結んだ者同士は「感情共有体」となる。彼が喜べば僕も満たされ、彼が悲しめば僕の心にも雨が降る。それは至上の幸福であると同時に、僕にとっては緩やかな処刑宣告に他ならなかった。

チョコレートの甘さが口の中に広がる。リョウのささやかな喜びが、僕の体内で結晶をさらに緻密に、重く育てていく。視界の端で、僕の体からこぼれ落ちた光の粒子――重力塵(グラビティダスト)が、アスファルトに吸い込まれて消えるのを幻視した。

この重みに耐えきれなくなった時、僕はどうなるのだろう。リョウを残して、この世界から消えてしまうのだろうか。そんな考えが頭をよぎるたび、錨はさらに深く、僕の魂の底へと沈んでいくのだった。

第二章 霞む輪郭

街では奇妙な噂が囁かれ始めていた。「曖昧化」と呼ばれる現象。かつては魂の半身とまで呼び合った友人同士が、ある日突然、互いの存在を忘れてしまうのだという。名前も、顔も、共に過ごした温かな時間さえも、まるで陽炎のように揺らぎ、人々の記憶から抜け落ちていく。

「なあ、聞いたか?駅前のカフェの店員さん、親友のこと、まったく思い出せなくなったらしいぜ」

学校の帰り道、リョウが心配そうに眉を寄せる。その横顔を見つめながら、僕は得体の知れない恐怖に襲われていた。僕の体を蝕む重さと、世界で頻発する記憶の喪失。無関係だとは思えなかった。

その日の夜、僕は悪夢にうなされた。リョウの顔の輪郭が、少しずつぼやけていく夢だ。必死に手を伸ばしても、彼の姿はすりガラスの向こう側にあるかのように霞んでいく。「リョウ!」と叫んでも、声は喉に張り付いて出てこない。自分の心臓の鼓動が、結晶の重みで圧し潰されていくような感覚に、僕は飛び起きた。

パジャマは冷たい汗でぐっしょりと濡れ、呼吸は浅く速い。窓の外では、月が青白い光を投げかけている。僕は自分の掌を見つめた。そこから、きらきらと輝く重力塵が、数粒こぼれ落ちては闇に溶けていく。まるで僕の命そのものが、少しずつ零れ落ちているかのようだった。

第三章 重力塵の囁き

絆が深まるほど、結晶は重くなる。重くなるほど、僕の体からこぼれる重力塵は増えていった。それはまるで、限界が近いことを告げる砂時計の砂のようだった。

ある雨の日、僕は図書館の帰り道で、傘も差さずに佇む一人の女性を見かけた。彼女は虚空を見つめ、ぽつり、ぽつりと誰かの名を呟いている。だが、その名前は途切れ途切れで、まるでうまく発音できないかのようだった。彼女こそ、「曖昧化」によって親友を失いかけている一人なのだと直感した。

「ユ……キ……だれ、だっけ……」

彼女の瞳から涙がこぼれ落ちる。その姿に、僕はリョウを失う未来を重ねてしまい、胸が張り裂けそうになった。その時だった。僕が握りしめていた拳から、一際強く輝く重力塵の塊がはらりと落ち、雨に濡れた地面で淡い光を放った。

光は、吸い寄せられるように女性の足元へと流れ、彼女の靴先でふっと消えた。

すると、彼女の目に、ほんの一瞬、確かな光が宿った。

「ユキ……そう、ユキよ!どうして忘れてたの、私……!」

その叫びはすぐに混乱に変わり、彼女は再び記憶の霧の中へと沈んでいった。しかし、僕は確かに見たのだ。僕の体から生まれた光の塵が、失われた絆の欠片を、ほんの僅かな時間だけ繋ぎ止めた瞬間を。この重力塵は、単なる光の粒子ではない。これは……曖昧化した世界を繋ぎ止めるための、唯一の鍵なのかもしれない。

第四章 砕ける約束

リョウとの友情は、僕の命を削りながらも、なお輝きを増していった。二人で丘の上に登り、街の灯りを見下ろした夜、彼はふと、子供の頃の約束を口にした。

「なあ、カイ。覚えてるか?二人で宇宙船を作って、あの星まで行こうって話したの」

リョウが指差した空には、ひときわ明るい一番星が瞬いていた。その言葉、その指先、その眼差し。彼の友情のすべてが、奔流となって僕の心に流れ込んでくる。その瞬間、体内の結晶が悲鳴を上げた。ぎしり、と骨が軋む音を確かに聞いた。過去にないほどの重圧が全身を襲い、呼吸ができなくなる。

「っ……ぅ、ぁ……」

「カイ!?どうしたんだ、顔が真っ青だぞ!」

リョウの焦った声が遠くに聞こえる。視界が白く染まり、立っていることさえままならない。僕の苦しみが、感情共有を通じてリョウにも伝わっていく。彼の表情が絶望に歪むのが見えた。

「俺のせいか……?カイ、俺と一緒にいるから、お前は苦しいのか……?」

違う、と叫びたかった。だが、声が出ない。リョウの瞳に涙が滲む。

「……なら、もう、やめにしよう。こんな絆、俺たちの『契約』を――」

破棄する。その言葉がリョウの口から紡がれる直前、世界が軋むような衝撃が走った。リョウの存在が、ほんの少しだけ薄くなったような気がした。ダメだ、それだけは。契約を破棄すれば、僕らは二人とも「曖昧化」してしまう。

僕は最後の力を振り絞り、リョウの腕を掴んだ。「やめ……てくれ」それだけを伝えるのが精一杯だった。そして、僕の意識は、底なしの暗闇へと沈んでいった。

第五章 星見の塔の真実

目覚めた時、僕は古い木のベッドの上にいた。鼻腔をくすぐるのは、埃と古書の匂い。ゆっくりと身を起こすと、そこが円形の部屋であることに気づいた。壁一面に天体図が飾られ、天井には巨大な望遠鏡が鎮座している。古い天文台のようだった。

「目が覚めたかね、若者」

声のした方を見ると、白髪の老人が静かに椅子に腰掛けていた。彼はシオンと名乗り、この星見の塔の主だという。彼が、丘の上で倒れた僕をここまで運んでくれたらしかった。

「君の体の中にある『それ』は、呪いではない。友情という強大すぎる力が、この世界そのものを歪ませないための安全装置……言うなれば『調整弁』なのだよ」

シオンは、星々の運行を語るかのように、世界の真実を静かに説き始めた。絆の結晶がもたらす重みは、友情の力を世界に留めておくための楔。そして「曖昧化」現象は、その重みに耐えきれずに契約を破棄した者たちの成れの果て。彼らの存在は、世界との繋がりを断たれ、希薄になり、やがては完全に消滅してしまうのだという。

「これまで、君ほどの重みに達した者はいなかった。皆、途中で重みに屈し、契約を破棄して霞のように消えていった。だが君は……耐え抜こうとしている」

シオンの深い瞳が、僕を射抜く。

「もし君が、その極限の重みに耐え抜くことができたなら……世界は、変わるかもしれん。友情のあり方そのものが、新しい段階へと進化する」

それは、僕一人の命と、世界の友情の未来を天秤にかける、あまりにも過酷な選択だった。

第六章 引力の特異点

僕は決めた。リョウを失いたくない。曖昧化していく人々を救いたい。この身が砕け散ろうとも、この重みに最後まで抗ってみせる。

星見の塔のドームが開かれ、満天の星が僕の上に降り注ぐ。リョウが駆けつけ、ガラスの向こうで息を呑んでいるのが見えた。僕は彼に、大丈夫だと頷きかける。

そして、意識を内なる結晶へと集中させた。リョウとの出会い、交わした言葉、共に笑った日々、喧嘩した記憶。そのすべてを抱きしめ、肯定する。友情は呪いじゃない。僕にとって、かけがえのない光だ。

「リョウ……!」

彼の名を呼んだ瞬間、結晶は臨界点を超えた。想像を絶する重圧が、僕の存在そのものを原子レベルまで押し潰そうとする。だが、僕は歯を食いしばり、耐えた。愛しい友の名を、心の中で叫び続けた。

パリン、と。ガラスが砕けるような、澄んだ音が胸の奥で響いた。

次の瞬間、僕を縛り付けていたすべての重みが、嘘のように消え去った。体内の結晶が、光の奔流となって解放されたのだ。無数の重力塵が僕の体から溢れ出し、夜空へと舞い上がっていく。それはまるで、新しい星座の誕生を告げる、光の銀河のようだった。

第七章 解放の夜明け

僕の体は、羽のように軽かった。

世界から「感情共有体」という絶対的な束縛は消え失せていた。強制的な感情の共有はない。しかし、世界中の友情が消えたわけではなかった。むしろ、その逆だった。

夜空に舞い上がった重力塵は、祝福の光の雨となって世界中に降り注いだ。曖昧な輪郭をしていた人々の存在は、再び世界に固く結びつけられ、失われた記憶を取り戻していく。人々は、束縛されずとも、自らの意志で、より深く、より自由な絆を結べるようになったのだ。

僕は星見の塔から、夜明けに染まる街を見下ろしていた。隣には、心配そうに僕の顔を覗き込むリョウがいる。

「……もう、重くないのか?」

「うん。すごく、軽い」

僕らは視線を交わし、どちらからともなく微笑んだ。彼の喜びや悲しみが、直接僕に流れ込んでくることはもうない。それでも、彼の瞳を見れば、その息遣いを感じれば、彼が何を思っているのか、手に取るようにわかった。

重力から解放された魂は、引力に頼らずとも、互いを引き寄せ合うことができる。

僕らは新しい空の下で、新しい友情の第一歩を、今、踏み出した。空にはまだ、いくつかの光の塵が、きらきらと舞い続けていた。

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