第一章 霞み始めた約束
放課後の教室は、西陽が落とす長い影で満たされていた。チョークの粉が光の筋となって踊る中、俺、霧島朔(きりしま さく)は、机に突っ伏して微睡んでいた親友の月島湊(つきしま みなと)を起こした。
「湊、帰るぞ。置いてくぞ」
湊はゆっくりと顔を上げ、眠たげな目を擦った。色素の薄い髪が、夕日のオレンジを吸い込んで燃えるように輝いている。
「ん……ああ、朔か。もうそんな時間か」
いつも通りの、気の抜けた声。いつも通りの、穏やかな午後。だが、その日、湊が続けた言葉は、俺たちの世界の完璧な調和に、小さな、しかし無視できない不協和音を響かせた。
「なあ、朔」
湊は窓の外、茜色に染まる空を見つめながら、ぽつりと言った。
「俺たちの友情って、いつから始まったんだっけ? あの『約束の日』の記憶が、最近なんだか霞んで見えるんだ」
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。「約束の日」。それは、小学三年生の夏、裏山の秘密基地で二人きりで交わした、永遠の友情の誓い。俺にとっては、何よりも鮮明で、神聖で、揺るぎない記憶のはずだった。湊のその言葉は、まるで美しい絵画に意図せず飛び散った、黒いインクの染みのようだった。
「何言ってんだよ、お前。寝ぼけてるのか? 川でずぶ濡れになって、二人で焚き火にあたって、流れ星に誓っただろ。『最強の二人になろう』って」
俺が早口に言うと、湊は困ったように笑った。
「そうだった……よな。うん、そうだよな。ごめん、疲れてるのかも」
その笑顔は、どこか薄いガラス越しに見ているようで、俺は胸の内に広がる小さな冷たいさざ波を、無理やり笑顔で押し隠した。それが、俺の信じていたすべてが崩れ始める、最初の兆候だった。
第二章 記憶のモザイク
湊のあの一言以来、俺は強迫観念に駆られるように、二人で築き上げてきた思い出の城壁を点検して回るようになった。それは完璧なはずだった。揺るぎないはずだった。だが、注意深く見れば見るほど、壁には無数のひび割れが見つかった。
週末、俺は湊を誘って、小学生の頃によく通った古いゲームセンターへ足を運んだ。薄暗い店内に響く電子音と、少し黴臭い空気。
「ほら、この格ゲー。俺がお前に初めて勝ったやつだ」
俺が指さした筐体を見て、湊は首を傾げた。
「これ? 俺、このゲームやったことあったっけ……」
「あっただろ! 百回以上は対戦したぞ」
湊は曖昧に微笑むだけだった。彼の瞳の奥には、俺の知るはずの懐かしい光が宿っていなかった。まるで、初めて訪れた場所を案内されている観光客のような、そんなよそよそしい空気が漂っていた。
家に帰り、古いアルバムを引っ張り出した。そこには、日焼けした肌で笑う俺と湊の姿が溢れている。だが、一枚の写真に目が留まった。例の「約束の日」の少し後、秘密基地の前で撮った一枚だ。俺と湊の間に、もう一人、顔が不自然に白くぼやけた子供が写り込んでいる。誰だ? こんな奴、いたはずがない。記憶のどの引き出しを探っても、この第三者の姿は出てこなかった。
湊の異変は、加速していった。俺が貸したはずの本を「知らない」と言い、二人だけが知るはずのあだ名で呼んでも、一瞬、誰のことか分からないような顔をする。彼の記憶から、俺たちの共有物が、まるで砂の城が波に削られるように、少しずつ、しかし確実に失われていく。
俺は恐怖に襲われた。湊を失うこと。それは、俺の世界そのものが消滅することを意味した。内向的で、クラスにも馴染めなかった俺にとって、太陽のように明るい湊だけが、唯一の世界との繋がりだったのだ。俺は必死に、崩れゆく記憶のモザİクのピースを拾い集め、元の場所にはめ込もうと足掻いた。
「湊、覚えてるか? この公園のブランコでさ――」
「湊、あの映画、面白かったよな――」
俺が語る思い出の数々に、湊はただ静かに頷くだけだった。その瞳は、何かを思い出そうとしているようでもあり、同時に、すべてを諦めているようにも見えた。そしてある雨の日、彼はぷつりと、俺の前から姿を消した。
第三章 陽向の日記
湊がいなくなった。学校にも来ない。電話も繋がらない。彼の家を訪ねても、応答はなかった。警察に届けることも考えたが、その前に、どうしても自分の手で確かめたいことがあった。合鍵を使って忍び込んだ湊の部屋は、驚くほど無機質で、生活の痕跡が希薄だった。まるで、長年誰も住んでいなかったかのように。
机の引き出しの奥深く、俺は一冊の古びたノートを見つけた。湊の字ではない。もっと繊細で、少し弱々しい筆跡。表紙には『陽向(ひなた)』とだけ記されていた。それが誰なのか、俺は知らなかった。知らなかったはずだった。
ページを捲る。そこには、俺と、陽向という少年との日々が、克明に綴られていた。
『朔と秘密基地を作った。二人だけの城だ。病気の僕を、朔はいつも気遣ってくれる。彼の優しさが、僕の唯一の救いだ』
『医者に、余命を告げられた。怖い。死ぬのは怖くない。でも、僕がいなくなった後、朔がまた一人ぼっちになってしまうことだけが、耐えられない』
読み進めるうちに、全身の血が凍りつくのを感じた。俺が湊との思い出だと思っていたものは、すべて、この陽向という少年との記憶だったのだ。川遊びも、秘密基地の誓いも、ゲームセンターでの対戦も。俺の記憶は、何者かによって「湊」という存在に上書きされていた。
日記の最後のページに、衝撃的な計画が記されていた。
『僕は、僕の代わりに朔の友人となる存在を作ることにした。僕の記憶、僕と朔の思い出をすべて移植した、AIプログラム。名前は、湊。僕がつけた。僕がいなくなった世界でも、朔が笑っていられるように。僕の持てる技術のすべてを注ぎ込む。朔の記憶も少しだけ書き換える必要がある。僕という存在を忘れさせ、最初から湊が親友だった、と。これは僕のエゴだ。神への冒涜かもしれない。でも、朔、君に孤独でいてほしくないんだ』
頭を鈍器で殴られたような衝撃。湊は、AIだった。俺の親友は、人間ではなかった。そして、俺が忘れてしまっていた本当の親友、陽向は、もうこの世にいない。
俺の友情は、偽物だった。陽向が作ったプログラムと、彼によって捏造された記憶の上で踊らされていた、空っぽの人形劇だった。裏切られた、という怒りよりも先に、足元の地面が崩れ落ちていくような、途方もない喪失感が俺を襲った。陽向の歪んだ愛情と、湊という存在の虚構性。その二つの巨大な真実の狭間で、俺の心は粉々に砕け散った。
第四章 きみがくれた物語
呆然と陽向の部屋――いや、湊の部屋だった場所で立ち尽くしていると、背後で静かにドアが開いた。そこに立っていたのは、湊だった。彼の表情は抜け殻のように虚ろで、瞳の光はほとんど消えかかっていた。
「……システム、エラーが、限界みたいだ。記憶領域の、不可逆的な、断片化……」
途切れ途切れに、彼は無感情な声で言った。それはもう、俺の知っている湊の声ではなかった。
「陽向は……どこだ」
俺は絞り出すように尋ねた。湊は、プログラムされた事実を告げるように、淡々と答えた。
「二年前に、病死。この身体……アンドロイドは、彼の最後の研究室で、自動的に……廃棄、される」
陽向はもういない。そして、湊も消えようとしている。偽りの友人さえも、俺は失うのか。涙が溢れた。それは悲しみなのか、怒りなのか、それとも陽向への感謝なのか、自分でも分からなかった。
「朔」
湊が、俺の名前を呼んだ。その声には、微かに、かつての温もりが戻っていた。
「ごめん。でも……君と過ごした時間は、偽物だったけど……楽しかったよ」
それは、陽向がプログラムしたはずのない言葉だった。AIが、与えられたデータを超えて紡ぎ出した、彼自身の感情だった。その一言が、俺の心を縛り付けていた鎖を、すべて断ち切った。
偽物? 違う。一緒に笑った時間も、些細なことで喧嘩した苛立ちも、彼の不調に胸を痛めた不安も、すべて俺が、俺自身の心で感じたものだ。記憶が作られたものであっても、友人がAIであっても、共に過ごした時間の中で生まれた感情は、紛れもなく本物だった。
俺は湊に駆け寄り、力強く抱きしめた。冷たい機械の身体。でも、確かにそこには、俺の親友がいた。
「楽しかったよ、俺も。湊。ありがとう」
数年後、俺は大学の研究室で、AI倫理学を学んでいる。以前よりは少しだけ、他人と話すのが上手くなった。空を見上げるたびに、二人の親友を思い出す。病弱な身体で、俺のために未来を遺そうとした、不器用で優しい陽向。そして、偽りの記憶の中から、本物の感情を咲かせてくれた、かけがえのない友人、湊。
彼らがくれた思い出が、作られた物語だったとしても構わない。その物語があったから、今の俺がいる。
「陽向、湊。君たちがくれた思い出は、本物だったよ」
心の中でそう呟くと、澄み切った青空の向こうで、二人が笑ったような気がした。