無色の共感師と忘れられた竜の涙

無色の共感師と忘れられた竜の涙

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第一章 感情の欠片

この世界では、感情が形を持つ。人々が抱く強い想いは、涙や汗と共に小さな結晶となって体外へ排出されるのだ。喜びは陽光のような黄金色に、怒りは燃え盛る炎のような深紅色に、そして悲しみは曇り空のような鈍い灰色に。それらは「感情結晶」と呼ばれ、貨幣として、あるいは芸術品として人々の生活に深く根付いていた。

リアンは、そんな世界でたった一人、色のない結晶しか生み出せない少年だった。彼からこぼれ落ちるのは、まるで磨りガラスのような、どこまでも透明で空虚な「無色の結晶」。感情が豊かであるほど、その結晶は鮮やかで価値を持つとされるこの世界で、彼の存在は欠陥品のように扱われた。

彼はその特性を活かし、他人の結晶に触れて持ち主の感情を読み解く「共感師」として生計を立てていた。自分の感情が空っぽだからこそ、他人の感情が濁りなく流れ込んでくる。それは皮肉な天職だった。

ある雨の降る午後、リアンはギルドの奥深く、埃と古書の匂いが充満する一室に呼び出された。テーブルの中央には、ベルベットの布の上に禍々しい輝きを放つ結晶が鎮座していた。闇そのものを固めたかのような、光を一切反射しない漆黒の塊。触れる者の感情を根こそぎ吸い尽くすと言われる、禁忌の遺物――「虚無の結晶」だ。

「名うての共感師たちが三人、立て続けに心を吸われて廃人同様になった。だが、お前なら……お前ならあるいは」

ギルドマスターのしわがれた声が響く。リアンの無感情は、この呪われた結晶に対抗できる唯一の盾だと考えられたのだ。リアンは黙って頷くと、冷たい汗が滲む指先で、そっとその黒い塊に触れた。

瞬間、嵐のような静寂が彼の意識を襲った。しかし、予想された虚無感は訪れない。他の者たちが感じたという、魂が引き抜かれるような感覚は微塵もなかった。彼の空っぽの心は、虚無にさえ共感しない。

だが、その時だった。虚無の深淵、そのさらに奥底から、針の先のように微かで、しかし確かな一つの感覚が彼の心に届いたのだ。それは、長い、長い時間、誰にも気づかれずに泣き続けた果てにある、凍てついた諦めにも似た――途方もない『悲しみ』の響きだった。

リアンの灰色の瞳が、初めて見開かれた。虚無と呼ばれ、恐れられるこの結晶は、空っぽなどではなかった。それは、あまりにも巨大な悲しみで満たされすぎて、他のどんな感情も色を失ってしまった、ただの涙の塊だったのだ。この発見は、リアンの退屈な日常を根底から覆す、静かな波紋の始まりだった。

第二章 彩りの旅人

「虚無の結晶」に触れた日から、リアンの世界は変わった。あの結晶から感じ取った深い悲しみの残響が、彼の空虚な心の中で微かに鳴り続けていた。ギルドの古文書を漁るうち、彼は一つの伝説に行き着く。「虚無の結晶」は、世界の果てにある「沈黙の谷」に棲む、感情を失った古竜の涙である、と。

真実を確かめたい。あの悲しみの正体を知りたい。その一心で、リアンは旅に出ることを決意した。最低限の荷物と、自分自身が生み出した価値のない無色の結晶をいくつかポケットに詰め込み、彼は灰色の街を後にした。

旅の途中、太陽が燦々と降り注ぐ草原で、彼は一人の少女と出会った。名をエルナという。彼女はリアンとは正反対の存在だった。亜麻色の髪を風になびかせ、笑うたびにキラキラと輝く黄金色の「喜びの結晶」を、驚くたびに海の色をした「好奇心の結晶」を、まるで呼吸するように生み出していた。彼女の周りだけ、世界が鮮やかに色づいているように見えた。

「あなたの結晶、きれいね」

エルナはリアンが落とした無色の結晶を拾い上げ、太陽にかざしながら言った。侮蔑でも同情でもない、純粋な好奇の眼差しだった。

「色がない。価値もない」リアンはぶっきらぼうに答える。

「ううん、そんなことないわ。見て。光を通すと、虹の色が見える。それにね、どんな色にも染まれるってことじゃない?何もないんじゃなくて、全部の色がまだ、ここに隠れてるのよ」

エルナの言葉は、リアンが今まで誰からも言われたことのないものだった。彼は自分の無色を「欠落」としか捉えていなかった。だが、彼女はそれを「可能性」だと言う。反発を感じながらも、心のどこかでその言葉が棘のように刺さった。

目的地が同じ方面だと知ると、エルナは半ば強引にリアンの旅に同行し始めた。静寂を好むリアンと、常に感情の結晶をこぼしながら喋り続けるエルナ。水と油のような二人だったが、焚き火を囲み、同じ星空を見上げる夜を重ねるうちに、リアンの心の壁は少しずつ、本当に少しずつ溶かされていった。エルナの屈託のない優しさは、リアンの無色の世界に、気づかぬうちに淡い光を差し込み始めていた。

第三章 沈黙の真実

幾多の山を越え、乾いた川床を渡り、二人はついに「沈黙の谷」の入り口にたどり着いた。その名の通り、谷には音がなかった。風の音も、鳥の声も、虫の羽音さえも聞こえない。まるで世界から切り離されたかのような、圧迫感のある静寂が支配していた。

谷底へと足を踏み入れた二人は、息を呑んだ。地面を埋め尽くしていたのは、土や石ではなかった。それは、人々が忌み嫌い、捨て去った「負の感情結晶」の墓場だった。泥のように濁った赤黒い「憎悪」、鉛のように重い灰色の「絶望」、ひび割れたガラスのような「嫉妬」。それらが何層にも折り重なり、無言の叫びをあげているかのようだった。人々が美しい感情ばかりを求め、都合の悪い感情から目を背けた結果が、この谷には凝縮されていた。

谷の最深部、結晶の山々に囲まれた広大な空洞に、それはいた。

古竜。その鱗は、かつては虹色に輝いていたであろう面影を残しながらも、今は長い年月と悲しみによって色褪せ、まるで石像のように静かに横たわっていた。その巨体は山のように雄大で、閉ざされた瞳には、世界の始まりから終わりまでを見届けてきたかのような叡智と疲労が滲んでいた。

リアンが竜に近づくと、彼の脳内に直接、重く、そして優しい声が響いてきた。

《よく来たな、無色の子よ》

竜は敵意を見せなかった。ただ、静かに語り始めた。衝撃の真実を。

竜は、かつて人間だった。世界の感情の調和を司る賢者だった。しかし、人々が負の感情を疎んじ、捨てるようになってから、世界のバランスは崩れ始めた。彼は世界の崩壊を防ぐため、捨てられた全ての負の感情を、その身に引き受け続けた。その結果、彼の肉体は変容し、今の竜の姿となったのだという。

《「虚無の結晶」は、わしの涙ではない。この谷に捨てられた、無数の悲しみが、行き場をなくして一つに凝縮されたものだ。人々は美しい感情の結晶ばかりを尊び、己の中にある影から目を背けた。喜びも怒りも、愛も憎しみも、全ては同じ心から生まれるものだというのに…》

竜の声は、深い哀しみに満ちていた。

《その結果、世界は今、「無感動」という静かな病に蝕まれ始めている。感情の片側だけを求め続けた代償として、人々は感情そのものを生み出す力を失いつつあるのだ》

竜は、その色褪せた瞳でリアンをまっすぐに見つめた。

《お主の「無色」は、その病の兆候だ。だが…それは同時に、希望でもある。何の色にも染まっておらぬその心は、あらゆる感情を受け入れられる、最後の器かもしれぬ》

リアンは愕然とした。自分の欠落だと思っていたものが、呪いだと思っていた無色が、世界の歪みそのものであり、そして唯一の希望かもしれないという事実に、彼の足元がぐらりと揺らいだ。それは、彼の存在理由を根底から覆す、あまりにも重い真実だった。

第四章 心が響き合う場所

竜が語った真実は、リアンの空虚だった心に重くのしかかった。劣等感の象徴だった無色の結晶。それは、人々が捨てた痛みを、世界が失いかけた心を受け止めるための器だったのかもしれない。

リアンは、静かに決意した。この竜の苦しみを、そして世界から忘れ去られた感情の痛みを、自分が引き受けようと。それは傲慢かもしれない。無謀かもしれない。だが、あの「虚無の結晶」から感じ取った悲しみに、初めて本当の意味で共感できた今、彼はもう目を背けることはできなかった。

「一人で背負うことはないわ」

いつの間にか隣に立っていたエルナが、彼の冷たい手を握った。彼女の手は温かく、その指先からは、小さな琥珀色の「慈しみの結晶」が生まれて、リアンの掌にこぼれ落ちた。

「リアンの無色は、何もない色じゃない。全部を包み込める、一番優しい色よ。私、知ってる」

エルナの言葉に、リアンの胸の奥で何かが微かに震えた。彼は竜に向き直り、深く頷いた。そして、再びあの「虚無の結晶」が安置されている場所へと手を伸ばした。

今度は、恐れも戸惑いもなかった。ただ、その中に満ちる途方もない悲しみを、慈しむように。ゆっくりと、結晶に触れる。

瞬間、世界から音が消えた。リアンの内側で、静かな奇跡が起こる。彼の体から、今まで生み出してきたどの結晶とも違う、内側から淡い光を放つような、純粋で清らかな無色の結晶が、とめどなく溢れ出したのだ。

その光の結晶は、虚無の結晶に吸い込まれるのではなく、そっと寄り添い、その漆黒の闇を内側から照らし始めた。すると、闇一色だった結晶の表面に、ほんの僅か、虹色の微光が灯った。それはまるで、長い冬の終わりに、凍てついた大地から芽吹く最初の若葉のような、か弱くも確かな希望の光だった。

世界の病が癒えたわけではない。竜が救われたわけでもない。これは、長すぎるほどの道のりの、ほんの始まりの一歩に過ぎなかった。

リアンは、それからも感情を表に出すことはほとんどなかった。彼の瞳は相変わらず静かな灰色のままだった。だが、その奥には、世界の喜びも悲しみも、その全てを映し出す深い湖のような、静謐な優しさが宿っていた。

谷を後にする日、エルナがそっと彼の手に自分の手を重ねた。彼女の指先から生まれた小さな黄金色の結晶が、リアンの手のひらにある無色の結晶に触れ、すうっと溶け込んで混ざり合っていく。

世界はまだ、色鮮やかな感情と、忘れられた負の感情に分か断されたままだ。しかし、二人の手の中では、確かに世界は一つになっていた。忘れられた感情に再び光を当て、心の持つ全ての彩りを愛おしむこと。それこそが、この静かに病んだ世界を癒す、唯一の道なのかもしれない。リアンの旅は、まだ始まったばかりだった。

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