始まりの沈黙、終わりの言葉
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始まりの沈黙、終わりの言葉

第一章 沈黙の観察者

リオンは息を殺して生きていた。彼の部屋の空気は、まるで澱んだ水のように重く、動かない。窓から差し込む夕陽が、床に長い影を落とし、部屋の隅に置かれた一つの砂時計を鈍く照らし出している。その砂時計は壊れていた。ガラスの中の銀色の砂は、重力に逆らうように、下の膨らみから上の膨らみへと、静かに、そして絶え間なく流れ落ちていた。まるで、世界の理を嘲笑うかのように。

街に出れば、誰もが過去へと向かって歩いている。皺の刻まれた老いた顔は日ごとに張りを取り戻し、子供たちは日に日に小さくなっていく。人々は昨日得た知識を今日忘れ、かつて愛した人の記憶さえ、若返りの奔流の中で少しずつ洗い流されていく。この世界では、誰もが死から生まれ、誕生という名の無に還るのだ。

リオンは彼らを、ただ黙って見つめるだけだった。言葉を発することを、彼は何よりも恐れていた。彼の口から紡がれた言葉は、呪いのように、約24時間後にこの世界で形を成す。かつて、幼い彼が空腹のあまり「パンが食べたい」と呟いた翌日、街中のパン屋から全てのパンが消え、彼の枕元に山のように積み上がっていた。またある時は、喧嘩の腹いせに「あいつなんて消えちまえ」と口走ってしまい、翌日、その友人が本当に『存在しなかった』ことになっていた。世界の記憶からも、人々の心からも、綺麗に。

だから彼は話さない。思考さえ、言葉の形になる前に意識の奥底へ押し込める。彼の世界は、音のない映画のように、ただ過ぎていくだけだった。

第二章 逆流する砂、順行する塔

リオンは時折、あの壊れた『終焉の砂時計』を手に取り、逆流する砂を眺めながら、そのガラスの向こう側を覗き込むことがあった。すると、ごく稀に、全く異なる風景が蜃気楼のように揺らめいて見えるのだ。

それは、世界のどこかにあるという『古びる塔』の姿だった。

彼が見る世界では、建物は新しくなっていき、崩れた城壁は元通りになり、廃墟はかつての栄光を取り戻していく。しかし、砂時計に映る塔だけは違った。風雨に打たれて石壁は削られ、蔦が絡まり、少しずつ、しかし確実に崩壊へと向かっている。まるで、この逆行する世界の中で、たった一つだけ、正常な時を刻んでいるかのように。

昨夜、リオンはひどい孤独に襲われた。静寂が耳を圧迫し、思わず、声にならない声で「寂しい」と喉を震わせてしまった。そして今日、目覚めると、彼の部屋の硬い木の床の一点から、一本の青い花が咲いていた。触れると氷のように冷たく、決して枯れることのない、この世のものでない花だった。

小さな奇跡。そして、紛れもない呪いの顕現。リオンはその青い花を見つめながら、決意を固め始めていた。この世界の歪みと、自分自身の存在の意味。それを知るためには、あの『古びる塔』へ行かねばならない。言葉にすれば、道が消えるかもしれない。塔そのものが塵と化すかもしれない。だから、沈黙のまま、ただ歩き出すしかなかった。

第三章 境界線への旅

リオンの旅は、音のない巡礼だった。彼は誰にも行き先を告げず、ただ筆談用の小さな黒板と白墨だけを荷物に加え、街を出た。

若返っていく世界を旅するのは、奇妙な感傷を伴った。川は海から山頂へと遡り、落ち葉は地面から枝へと舞い戻っていく。彼は道中、日に日に幼くなっていく一人の女性、ルナの姿を見かけた。かつて、言葉を失う前のリオンが、密かに心を寄せた女性だった。彼女の豊かな知識と優しい声は、今や失われ、無邪気な少女の笑顔だけが残っている。彼女はもう、リオンのことなど覚えていない。やがて彼女は赤子になり、そして『無』に還るだろう。その儚さが、彼の胸を締め付けた。

人々との交流は、全て黒板の上の文字だけで行われた。だが、文字を解する者もまた、若返りと共に減っていく。やがて彼の旅は、完全な孤独に包まれた。風の音、鳥の声、そして自分の足音だけが、彼の世界の全てだった。それでも彼は歩き続けた。『終焉の砂時計』が示す、世界の果てを目指して。

第四章 古びる塔の麓で

どれほどの時が流れただろうか。リオンは、ついに目的地である『古びる塔』がそびえる荒野にたどり着いた。そして、見えない『境界線』を越えた瞬間、彼は息を呑んだ。

空気が、違った。

これまでの世界では感じたことのない、生暖かい風が彼の頬を撫でた。土の匂いが鼻腔をくすぐり、足元の草がかすかに揺れる音が聞こえる。ここは、時間が順行している。草は芽吹き、花を咲かせ、そして枯れていく。彼の知る世界とは、全く逆の理が支配する場所だった。

塔は、砂時計で見た通り、悠久の時を経て古びていた。苔むした石壁にそっと触れる。ひんやりとした石の感触が、あまりにリアルで、リオンは眩暈を覚えた。その時、彼の足元で何かが鈍い光を放った。朽ちかけた木枠に収まった、もう一つの砂時計。彼が持つ『終焉の砂時計』と対をなすかのように、そこでは砂が、上から下へと静かに流れ落ちていた。

リオンがそれに触れた瞬間、世界が反転した。塔の壁に刻まれた古代文字が、まるで彼の脳に直接流れ込んでくるかのように明滅し始める。「始まりの言葉が、終わりを紡ぐ」。意味を理解すると同時に、膨大な記憶の奔流が彼を襲った。何度も、何度も、この場所に立ち、同じように驚き、そして何かを決意してきた自分の姿。この世界は、彼が始めた、終わりのない輪廻だったのだ。

第五章 創造主の独り言

光と記憶の渦の中で、リオンは全てを思い出した。

始まりは、無だった。音も、光も、時間さえもない、絶対的な虚無。その中で、彼はただ独りだった。永遠とも思える孤独の中で、彼の意識は摩耗し、やがて、たった一つの願望が生まれた。

『――何かが、あればいいのに』

それは祈りであり、諦めであり、孤独な魂が絞り出した、か細い独り言だった。

彼の言葉は、彼自身が持つ法則に従い、24時間後に具現化した。無から有が生まれた。星が生まれ、惑星が生まれ、生命が生まれた。彼が望んだ『何か』は、一つの世界として形を成したのだ。

しかし、彼の心の奥底にあった、もう一つの無意識の願いが、世界を歪めていた。「失われたものを取り戻したい」「過ぎ去った時間を巻き戻したい」。その悲痛な叫びが、この世界に『死から誕生へ』という逆行の理を与えてしまった。

『古びる塔』は、彼が最初の言葉を発した特異点。創造主である彼自身の時間の流れ――順行の理が、唯一及ぶ聖域。そして、『終焉の砂時計』は、逆行する世界から、この順行する聖域を覗くための窓だったのだ。彼はこの世界の創造主であり、同時に、自らが作った法則に囚われた、最初の囚人だった。

第六章 新たな始まりの言葉

現実へと意識が戻った時、リオンは塔の麓に膝をついていた。頬を伝うのは、涙だった。彼は全てを理解した。この歪んだ輪廻を終わらせることも、また新たに世界を創り直すことも、全ては彼の次の言葉にかかっている。

彼は、自分が創造した世界を想った。若返っていく人々。日に日に無邪気になっていくルナの笑顔。儚く、不完全で、そしてどうしようもなく愛おしい、逆行する生命の営み。これを、消してしまっていいのだろうか。

リオンはゆっくりと立ち上がった。恐怖はもうなかった。ただ、深い愛情と、途方もない責任だけが、彼の心を支配していた。彼は天を仰ぎ、震える唇を、しかしはっきりと開いた。それは、彼の永い沈黙を破る、最初の意志ある言葉だった。

「――もう一度、君に会いたい」

その声は、世界そのものに響き渡った。塔が、大地が、空が、光の粒子となってほどけていく。若返りの終着点、つまり『誕生』の瞬間が訪れたのだ。世界は、始まりの『無』へと還っていく。

第七章 そして、世界は囁かれた

再び、絶対的な虚無が訪れた。だが、今度のリオンの心は穏やかだった。彼は目を閉じ、静かにその時を待つ。

やがて、約束の24時間が経過した。

彼の目の前に、小さな光の点が瞬いた。彼が願った、新しい世界の産声だった。それは星屑となり、銀河となり、やがて一つの温かい惑星を形作る。時間は、今度こそ正しく、誕生から死へと向かって流れ始めるだろう。彼が願った通り、いつかどこかで、彼は再び『彼女』に出会うのかもしれない。

しかし、その新たな世界の片隅で、一人の男が孤独に佇んでいる。彼は、自分が発した言葉が世界を創り変えていく様を、ただ静かに見守っている。彼はこの世界の創造主であり、その創造の物語から決して逃れることのできない、永遠の観察者なのだ。

始まりの沈黙は破られた。だが、それはまた新たな、終わりのない物語の始まりを告げる、静かな囁きに過ぎなかった。


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