***第一章 灯火と戯れる影***
煤と蝋の香りが混じり合う路地裏の小劇場。それが僕、リオの世界のすべてだった。僕の仕事は影絵師。古びた幻灯機から放たれるか細い光を背に、指先と切り絵で壁に物語を紡ぐ。獣は駆け、騎士は剣を抜き、姫は涙する。観客の子供たちの歓声と、大人たちの静かな感嘆が、僕のささやかな誇りだった。僕の影は、ただの影ではなかった。他の誰のものよりも黒く、深く、そしてまるで意思を持つかのように滑らかに動いた。それは僕だけの特別な才能だと信じていた。
その異変に気づいたのは、満月の夜だった。最後の演目、竜と少年の物語を終え、喝采に応えてお辞儀をしたときだ。僕の影が、僕の動きよりも一瞬早く頭を下げた。気のせいだろうか。疲れているのかもしれない。だが、その日から僕の影は、僕の知らない仕草を繰り返すようになった。
誰もいない劇場で一人、練習をしていると、壁に映る僕の影の手が、ひとりでに奇妙な印を結ぶ。それは僕が知らない、複雑で美しい紋様だった。まるで古代の呪文を唱えているかのように。僕は恐怖に駆られて自分の手を固く握りしめるが、壁の影は構わずその舞を続ける。そして、ふっと僕の動きと同期するのだ。まるで何事もなかったかのように。
「お前の影は、生きているみたいだな」
ある日、劇場の老主人が言った。彼の濁った瞳は、壁に映る僕の影をじっと見つめていた。「まるで、お前さんという灯火を借りて、何かを伝えたがっているようだ」
灯火。その言葉が妙に胸に突き刺さった。僕らは光があるからこそ影を持つ。肉体という実体があって、初めて影が存在できる。それがこの世界の理のはずだ。しかし、僕の影は、その理を嘲笑うかのように、日に日に自己主張を強めていった。夜、眠りにつくと、天井で僕の影が壮大な叙事詩を演じている夢を見る。僕の知らない文字を書き、僕の知らない地図を描き出す夢を。目覚めると、全身が鉛のように重かった。まるで、眠っている間に生命力を吸い取られているかのように。僕という灯火が、少しずつ、しかし確実に弱まっているのを感じていた。
***第二章 壁に刻まれた地図***
僕の影が描く地図は、次第に鮮明になっていった。最初は意味をなさない線と点の集合だったものが、いつしか山脈や川、そして古びた都市の輪郭を帯び始めたのだ。それは僕が知るどの国の地図とも違っていた。僕は町の古文書館に通い詰め、禁書庫の埃っぽい書物のページを来る日も来る日もめくった。
そして、ついに見つけたのだ。一冊の、表紙も朽ちかけた古文書の中に。「影の王国、シャドムブラの年代記」と題されたその本には、信じがたい神話が記されていた。
かつて、この世界は影の者たちが支配していた。彼らは肉体という枷を持たず、光と闇の狭間を自由に生きる、純粋な意識体だった。しかし、光の者たち――すなわち、我々人間の祖先との大戦に敗れ、彼らは世界の深淵へと追いやられた。だが、一部の王族の影は、いつか王国を再興するため、最も生命力の強い人間の赤子に自らを宿らせ、転生の輪廻に紛れ込んだという。その影は、宿主である人間が持つ生命の「光」を糧とし、いつか目覚めの時が来るのを待っている、と。
馬鹿げたおとぎ話だ。僕は本を閉じ、乾いた笑いを漏らした。だが、心の奥底で、冷たい何かが蠢いていた。僕の影が描く地図。夜毎に衰弱していく僕の身体。老主人の言った「灯火」という言葉。すべてのピースが、忌まわしい一つの絵を完成させようとしていた。
恐怖と好奇心は表裏一体だった。僕は、影が示す場所へ行くことを決意した。もし、この神話が真実なら、僕は一体何なのだろう。この手足も、心臓の鼓動も、影絵を愛するこの感情も、すべては僕を巣食う「何か」のための器に過ぎないというのだろうか。
影が描いた地図を頼りに、僕は旅に出た。賑やかな王都を離れ、険しい山を越え、霧深い谷を下った。旅の途中も、影は僕を導いた。分かれ道では正しい方向を指し示し、夜には焚き火の炎で、進むべき道の先の光景を壁に映し出して見せた。それは僕の影でありながら、僕ではない、別の誰かの記憶のようだった。僕はもはや、自分の身体を動かす操り人形に過ぎないのかもしれない。そんな絶望が胸を締め付けた。身体は日に日に痩せ衰え、咳き込むたびに血の味がした。灯火は、もう消えかかっていた。
***第三章 影が語り、光が砕ける***
数週間の旅の果てに、僕は地図が示す場所にたどり着いた。そこは、巨大な岩壁に穿たれた、忘れ去られた古代遺跡だった。入り口には、僕の影が夜な夜な描いていたのと同じ紋様が刻まれている。息を整え、震える足で中へ踏み込むと、ひんやりとした空気が肌を撫でた。
通路の壁には、一面に壁画が描かれていた。それは、影だけで描かれた壮大な歴史絵巻だった。光の者たちとの戦い。王国の陥落。そして、幼子に宿り、永い眠りにつく王族の影たちの姿。僕は壁画に描かれた一つの影に目を奪われた。それは、他のどの影よりも気高く、悲しげな光を宿しているように見えた。
遺跡の最深部、ドーム状の広間にたどり着いた。中央には黒曜石でできた祭壇があり、その向こうの壁には、巨大な王冠を戴く王の影が描かれている。僕がその壁画の前に立った瞬間、信じられないことが起きた。
僕の身体から、僕の影が、ずるりと剥がれ落ちたのだ。
それはまるで、古い外套を脱ぎ捨てるようだった。床に落ちた影は、ゆっくりと立ち上がり、僕の姿になった。いや、僕よりも背が高く、輪郭もはっきりしている。そして、それは僕――光源を失ってもなお、そこに存在し続けていた。
僕の身体は、影を失ったことで急速に力を失い、その場に崩れ落ちた。薄れゆく意識の中、僕は自分の影と、壁画の王の影が対峙するのを見ていた。
『――ようやく戻ったか、アルベリク』
壁画の王の影が、声を発した。それは音ではなく、直接、僕の魂に響く思念の言葉だった。
『その貧弱な灯火をいつまで弄んでいるつもりだ。お前の同胞は、永きにわたり帰還を待ちわびていたというのに』
僕の影――アルベリクは、ゆっくりと僕の方を振り返った。その影の顔には、僕が一度も浮かべたことのない、憐れみと懐かしさが入り混じった表情が浮かんでいた。
『リオ』
影が僕の名を呼んだ。
『お前は、私がこの世界に在るための、最も美しく、そして最も儚い灯火だった。お前の生命の光があったからこそ、私は永い眠りから目覚めることができた。感謝している』
そこで僕はすべてを理解した。僕という存在、リオという人格、影絵師としての喜びも誇りも、すべては「アルベリク」という名の影の王族が目覚めるまでの、仮初めの夢に過ぎなかったのだ。僕の肉体は、彼が存在するための単なる器であり、消耗品の「光源」だった。僕の才能だと思っていた影を操る力も、彼本来の力が漏れ出ていただけのこと。アイデンティティが、音を立てて砕け散った。僕は、僕ではなかった。
『さあ、アルベリク。その器を捨て、我らと共に王国を再建するのだ』
王の影が促す。アルベリクは再び僕に視線を戻した。彼の選択が、僕という灯火の運命を決める。僕はもう、指一本動かすことさえできなかった。ただ、消えゆく光の中で、自分だったものの結末を見届けるしかなかった。
***第四章 最後の影絵***
絶望的な静寂の中で、アルベリクは動かなかった。彼は床に倒れる僕の、弱々しく明滅する生命の光を、ただじっと見つめていた。彼の影の輪郭が、かすかに揺らめいている。それは迷いのように見えた。
『リオ』と、彼は再び思念で語りかけた。『お前の人生は、私のための夢だったのかもしれない。だが、その夢の中で見た光景は、紛れもなく本物だった』
アルベリクの視線の先に、幻が見えた。劇場の子供たちの屈託のない笑顔。僕の影絵を見て、涙を流してくれた老婆。蝋の匂い。拍手の温かさ。それらはすべて、この肉体が、この「灯火」がなければ感じることのできないものだった。影だけの存在では、決して味わうことのできない、不完全で、だからこそ愛おしい光の記憶。
『私は、忘れたくない』アルベリクは静かに言った。『この灯火が感じた温もりを。この器が流した涙の味を。私はアルベリクであると同時に、影絵師リオなのだ』
彼は壁画の王に向き直り、深く、しかし毅然と頭を下げた。
『我が王よ。私は戻りません。私は、私の灯火と共に、物語を最後まで紡ぎたいのです』
王の影は何も言わなかった。ただ、深い悲しみを湛えたまま、ゆっくりと壁画の中へと溶けていった。
アルベリクは僕のそばに膝をつくと、その影の手をそっと僕の胸に置いた。剥がれ落ちた影が、再び僕の身体へと戻ってくる。しかし、それはもはや寄生ではなかった。融合だった。影である彼と、光である僕が、初めて一つの存在として結ばれる儀式。失われた生命力が、温かい奔流となって身体を駆け巡った。
僕は、ゆっくりと身体を起こした。衰弱は変わらない。だが、心は不思議なほど穏やかだった。僕は、僕であり、彼でもあった。僕らは一つの存在、「リオ」になったのだ。
僕らは王都へは戻らず、旅の途中で見つけた小さな村に腰を落ち着けた。僕はそこで、残された命のすべてを懸けて、最後の影絵を演じることにした。演目は、僕ら自身の物語。
「光と影のソネット」
それは、遠い昔、自らの半身である光を失った影が、永い旅の果てに、一つの儚い灯火とめぐり会う物語。影は灯火を支配しようとするが、やがてその温かさに触れ、光の尊さを知る。そして最後には、影と光は一つに溶け合い、夜空に最も美しい一瞬の星となって輝き、共に消えていく。
村の広場に集まった人々の前で、僕は指を動かした。僕の影は、かつてないほど繊細で、表情豊かに舞った。それはもはや僕一人の技術ではなく、アルベリクの記憶と僕の感情が織りなす、魂の踊りだった。
物語がクライマックスを迎え、光と影が一つになる瞬間、僕は持てる力のすべてを振り絞った。僕の影は壁から解き放たれ、広場の中心で立体的な光の彫刻のように輝いた。観客は息をのみ、その神々しいまでの美しさに涙を流した。
パフォーマンスを終えた僕は、静かにその場に崩れ落ちた。観客の温かい拍手が、遠くに聞こえる。僕は薄れゆく意識の中で、壁に映る自分の影を見た。その影は、満ち足りた、穏やかな微笑みを浮かべていた。
ありがとう、僕の灯火。
ありがとう、僕の影。
僕らは一つになり、そして、物語になった。僕の肉体という灯火は消えたが、光と影のソネットの物語は、人々の心に残り、永く、永く語り継がれていくのだろう。本当の自分とは、肉体でも影でもなく、その両者が紡いだ物語そのものなのかもしれない。闇に溶けていく最後の瞬間、僕はそう思った。
灯火のソネット
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