僕のテレパシーは三大欲求しか受信しない

僕のテレパシーは三大欲求しか受信しない

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***第一章 超能力者の憂鬱、あるいはポメラニアンの起動について***

須田譲(すだゆずる)、三十二歳、区役所戸籍課職員。そして、不本意ながらテレパスである。

といっても、巷のフィクションで描かれるような、人の深層心理を読み解き、隠された真実を暴くような格好いいものでは断じてない。僕に聞こえるのは、半径十メートル以内にいる人間の、三大欲求に関する心の声だけだ。すなわち、「腹が減った」「眠い」「トイレに行きたい」。それだけ。

蛍光灯が単調に鳴く午後二時の戸籍課は、欲望の交響曲が鳴り響く劣悪な職場環境だった。
『(あー…昼に食べたカツカレー、まだ胃にもたれてるけど、もう小腹すいてきたな…)』
『(眠い…瞼の裏側で象がサンバ踊ってる…)』
『(やばい、この申請書出し終わったら、光の速さでトイレに駆け込まないと…)』
市民も同僚も、その頭の中は驚くほどシンプルだ。おかげで僕は、人間の外面と内面のギャップに若くして達観し、三十路を越えた今ではすっかり人間嫌いの皮肉屋に仕上がっていた。他人の本音など、知らなければ幸せなことの方がずっと多いのだ。特に、それが生理現象に直結するものであれば、なおさら。

その日も、僕はアクリル板越しに、市民の脳内から垂れ流される食欲と睡魔と尿意のノイズに耐えながら、機械的にハンコを押していた。そんな時だった。一組のカップルが、僕の窓口に緊張した面持ちでやってきたのは。男は爽やかな青年、女は向日葵のような笑顔が似合いそうな、しかし今はガチガチに強張っている女性だった。二人が差し出したのは、婚姻届。人生の門出だ。おめでたい。

「あの、これ、お願いします」
青年の声は、期待に弾んでいた。彼の脳内は『(腹減った…でも、この後二人で祝賀ディナーだから我慢だ!)』と、実に分かりやすい。問題は、隣の女性の方だった。彼女は俯き、指先を神経質にもじもじと動かしている。尋常じゃない緊張だ。無理もない、と僕は思った。結婚は人生の一大イベントだ。きっと彼女の頭の中も『(どうしよう、緊張でトイレ行きたくなってきた…!)』といった類の、ありふれたパニックに満ちているのだろう。

僕はいつものように、彼女の心の声にチャンネルを合わせた。どうせ下らないことしか聞こえないのだ。確認作業のようなものだった。
だが、その時、僕の鼓膜を、いや、脳を直接揺さぶった声は、僕の二十年以上にわたるテレパス人生の常識を根底から覆すものだった。

『……ポメラニアンが、起動シーケンスを開始します……』

は?
僕は思わず固まった。聞き間違いか?もう一度、意識を集中させる。彼女の大きな瞳が不安げに揺れている。そして、再び聞こえてきた。

『……最終確認。対Gスーツ、接続。全システム、グリーン。目標、区役所カウンター。……発進準備、完了』

なんだこれは。腹は減っていないのか。眠くもないし、トイレにも行きたくないというのか。ポメラニアンが、なんだって?
僕の能力は、三大欲求しか受信しない。これは絶対の法則だった。それが今、目の前で破られている。この女性は、一体何者なんだ? スパイ? それとも何かの組織のエージェント? 婚姻届は偽装工作なのか?
僕の背筋を、錆びついた鉄のような冷たい汗がツーっと流れ落ちた。僕の退屈で平穏な日常が、ポメラニアンの発進準備完了の号令と共に、音を立てて崩れ始めた瞬間だった。

***第二章 暗号解読とバナナの皮***

僕は混乱の極みにいた。ハンコを持つ手が微かに震える。目の前のカップルの書類に不備がないか確認するフリをしながら、僕は必死で思考を巡らせた。ポメラニアン。起動シーケンス。それは何かの作戦名か? この区役所で、一体何が始まろうとしているのか。

「あの…何か、不備でもありましたか?」
女性、星野翠(ほしのみどり)と記載された彼女が、おずおずと僕に尋ねた。声は蚊の鳴くようだ。しかし、その内側ではとんでもないことが起きているに違いない。
『……カウントダウン開始。5、4、3……』
やめろ!カウントダウンするな!
僕は内心で絶叫しながら、「いえ、問題ありません。少々お待ちください」と平静を装って答えた。心臓が早鐘のように打っている。

手続きを終え、二人は深々と頭を下げて窓口を離れていった。僕はその後ろ姿を、まるで国際テロリストを見送る保安官のような目つきで睨みつけていた。放っておけない。僕の能力に例外をもたらしたこの女の正体を、突き止めなければならない。僕の矮小なプライドと、わずかばかりの市民を守る義務感が、そう告げていた。
僕は上司に「急な腹痛で…」と、自分自身の脳内には決して存在しない言い訳を告げ、区役所を飛び出した。

尾行は案外簡単だった。二人は近くのカフェに入り、窓際の席に座った。僕は少し離れた席から、彼らを監視する。翠さんは、さっきとは打って変わって少しリラックスした表情で、クリームソーダをストローでかき混ぜていた。
僕は能力を最大レベルにまで研ぎ澄まし、彼女の思考に再び侵入を試みた。
『……ペンギンは、第二形態へ移行しました。冷凍ビームのチャージ率、現在80%……』
ペンギンだと? 今度はポメラニニアンじゃないのか。組織には複数のコードネームが存在するのか? 冷凍ビームとは一体。このカフェの客全員を凍らせるつもりか?
僕はゴクリと唾を飲み込んだ。隣の席の女子高生が『(あー、ポテト食べたーい)』と考えているのが、今はひどく平和なものに感じられる。

数十分後、二人はカフェを出て、駅前の雑貨店に入った。僕は雑誌コーナーの陰から様子を窺う。翠さんは、ファンシーな動物のキーホルダーが並ぶ棚の前で足を止めた。そして、一つの商品を手に取り、うっとりと眺めている。
『……最終防衛ラインを突破するには、このバナナの皮が不可欠……』
聞こえてきたのは、またしても意味不明な心の声だった。彼女が手にしているのは、猿がバナナの皮を頭に乗せている、ふざけたデザインのキーホルダーだ。これが、最終防衛ラインを突破するための重要アイテム? 何かの起動キーか、あるいは隠しマイクでも仕込まれているのか?
僕の妄想は、スパイ映画さながらにどんどん膨れ上がっていく。彼女はきっと、この平凡な日常に溶け込みながら、水面下で国家を揺るがすようなミッションを遂行しているに違いない。

しかし、尾行を続けるうちに、僕は奇妙な感覚に襲われた。彼女は、公園で鳩にパンくずを分け与え、道端で泣いている子供にハンカチを差し出し、ショーウィンドウの猫グッズに顔を輝かせる。どう見ても、冷徹なエージェントには見えない。むしろ、不器用で、心優しい、ごく普通の女性だ。
僕は混乱していた。僕の能力が捉える彼女の「内なる声」と、僕の目が捉える彼女の「外なる姿」。その間にある巨大な溝。僕は一体、どちらを信じればいいのだろうか。この謎めいた女性に、僕は知らず知らずのうちに惹きつけられているのかもしれない。

***第三章 しりとりの最終防衛ライン***

数日後、僕は意を決して行動に出た。非番の日、僕は偶然を装って、翠さんがよく利用する駅で待ち伏せした。僕の心臓は、まるでこれから重大な任務に就くスパイのように高鳴っていた。もちろん、僕の脳内は『(緊張でトイレ行きたい…)』でいっぱいだったが。

「あ、あの!この間の…!」
声をかけると、翠さんは鳩が豆鉄砲を食ったような顔で僕を見た。そして、僕が区役所の職員だと気づくと、顔を真っ赤にして固まってしまった。
『……ゴリラが…ゴリラがドラミングを始めた…!緊急事態、緊急事態…!』
まただ。また意味不明な心の声が聞こえる。僕はもう、これ以上この謎に振り回されるのはごめんだと思った。
「少し、お話できませんか」

僕たちは、以前彼女たちが立ち寄ったのと同じカフェに入った。僕は単刀直入に切り出した。
「星野さん…いや、翠さん。あなたは、一体何者なんですか」
僕の真剣な眼差しに、彼女は怯えたように視線を落とした。
「あなたの心の声が、僕には聞こえるんです」
カミングアウトは、賭けだった。狂人だと思われるかもしれない。だが、もうこれしか方法がなかった。
「ポメラニアンの起動シーケンスとか、ペンギンの第二形態とか、バナナの皮が最終防衛ラインだとか…!一体、何の暗号なんです!?あなたは何かの組織の一員なんですか!」

僕が矢継ぎ早に問い詰めると、翠さんの大きな瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。まずい、泣かせてしまった。僕はうろたえた。
「ご、ごめんなさい…そんなつもりじゃ…」
「…うぅ……ひっく……」
彼女はしゃくりあげながら、小さな声で言った。
「そ、それ……私の、癖なんです……」
「へ? 癖?」
「私、極度に緊張すると……頭の中で、しりとりを始めちゃう癖があって……」
「……しりとり?」

僕は呆然として彼女の顔を見つめた。翠さんは、涙で濡れた顔を上げて、続けた。
「あの、区役所に行った日も、人生で一番ってくらい緊張してて…。だから、頭の中で…『緊張』→『うさぎ』→『ぎりぎり』→『りんご』→『ゴリラ』→『ラッパ』→『パンツ』→『つみき』→『きりん』→『ん…あ、ダメだ』→『ポメラニアン』→『アンテナ』→『ナポリタン』……って、ずっと……」

ポメラニアンが、起動シーケンスを開始します。
ペンギンは、第二形態へ移行しました。
バナナの皮で最終防衛ラインを突破せよ。

それらはすべて、支離滅裂な暗号などではなかった。ただ、極度の緊張を紛らわすために、彼女の脳内で繰り広げられていた、高速かつ脈絡のない「しりとり」だったのだ。僕がスパイの暗号だと信じて疑わなかった言葉の数々は、彼女のささやかな自己防衛本能の産物でしかなかった。

その瞬間、僕の中で何かが弾けた。
「……ぷっ」
最初は小さな笑い声だった。
「あ、はは……」
それは次第に大きくなり、
「ははははは! し、しりとり!? 最終防衛ラインが、バナナの皮のキーホルダー!? ぷ、くくく、あははははははは!!」
僕は腹を抱えて笑い転げた。涙が出るほど笑った。ここ数日間の僕の真剣な悩み、壮大な妄想、スパイ映画ばりの尾行、そのすべてが、壮大な勘違いだったのだ。僕の特殊能力は、一人の女性の「脳内しりとり」を壮大な陰謀論に誤変換する、ポンコツ翻訳機でしかなかったのだ。
僕の笑い声につられて、泣いていた翠さんも、ついにぷっと吹き出した。カフェ中に、僕たちの間抜けで、そして最高に幸せな笑い声が響き渡った。僕が人間関係に絶望し、能力を呪い始めてから、心の底から笑ったのは、一体いつ以来のことだっただろうか。

***第四章 腹が減っては愛はできぬ***

僕と翠さんは、それから色々なことを話した。僕が三大欲求しか聞こえないポンコツテレパスであること。彼女が極度のあがり症で、緊張すると脳内で好きなものの名前を繋げてしまうこと。互いの秘密を打ち明けた僕たちは、まるで長年の友人のように、自然に心を通わせることができた。
「じゃあ、私が『お腹すいたな』って思ってると、須田さんにはバレバレなんですね」
「ええ、まあ。ちなみに今、隣の席のマダムは『眠いわ…午後の紅茶とスコーンで優雅に…なんて言ってられないくらい眠いわ…』と思ってます」
「ふふっ、面白い能力ですね。ちょっとだけ、羨ましいかも」
翠さんは屈託なく笑った。僕がずっと呪わしいと思っていたこの能力を、彼女は「面白い」と言ってくれた。その一言が、僕の心の壁を、いとも簡単に溶かしてしまった。
人との間に壁を作っていたのは、能力のせいじゃない。能力を言い訳にして、他人と向き合うことを避けていた、僕自身の弱さのせいだったのだ。

数ヶ月後。僕は相変わらず、区役所の戸籍課で働いている。
世界は何も変わらない。僕の耳、いや脳には、今日も市民と同僚たちの三大欲求がひっきりなしに流れ込んでくる。
『(ラーメン…こってりしたやつ…チャーシュー増しで…)』
『(昨日のドラマの最終回、録画し忘れた…ショックで眠い…)』
『(このハンコもらったらトイレ…!神様お願い…!)』
でも、不思議なことに、以前のような苛立ちはもう感じなかった。むしろ、そのどうしようもなく人間臭い心の声が、どこか愛おしくさえ思えた。誰もが、外面はどうあれ、内側では腹を空かせ、眠気と戦い、生理現象と格闘している。そう思うと、なんだか皆が不器用な仲間のように思えてくるのだ。

ふと、目の前のカウンターに置かれた書類に目をやる。それは、老夫婦が持ってきた金婚式の記念に関する届け出だった。二人は、穏やかな笑みを浮かべて寄り添っている。
僕は、そっと二人の心に耳を澄ませてみた。

『(…眠いのう、ばあさんや)』
『(…あら、おじいさんもかね。気が合いますなあ)』

ほぼ同時に聞こえてきた、全く同じ内容の心の声。
僕は、思わず口元を綻ばせた。長年連れ添った夫婦の、言葉にならない絆の形が、そこにはあった。
僕のテレパシーは、人の秘密を暴くことも、世界を救うこともできない。聞こえるのは、腹が減ったとか、眠いとか、そんなことばかりだ。
でも、それでいいのかもしれない。
だって、腹が減っては愛はできぬ、なんて言うじゃないか。人間の根源にある、このどうしようもなく素直な欲望の先にこそ、温かくて、ささやかで、そして何よりも大切なものが、きっとあるのだから。
僕は新しいボールペンを下ろすと、老夫婦に、今日一番の笑顔で言った。
「おめでとうございます。末永く、お幸せに」

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