第一章 完璧なる快晴、そして局地的吹雪
天野晴彦の人生は、天気予報との闘いだった。それも、テレビで流れる広域的なものではなく、彼の頭上、半径約五十メートルに限定された、極めて私的な天気予報との、だ。
彼の感情は、物理法則をねじ曲げ、現実の天候として具現化する。喜びは雲一つない快晴を、悲しみはしとしとと降る霧雨を、そして怒りは天を裂く雷鳴を伴う嵐を呼んだ。三十年間この体質と付き合ってきた晴彦は、もはや感情抑制の達人、いや、感情の殺し屋と化していた。
その日、晴彦は人生を賭けたプレゼンテーションに臨んでいた。取引額数十億の大型契約。彼はこの日のために三ヶ月間、心を無にしてきた。喜びも悲しみも、希望も絶望も、全てを心の奥底にある鉛の箱に封じ込めた。その努力の甲斐あって、彼の頭上には一点の曇りもない、完璧な「ビジネス快晴」が広がっていた。窓から差し込む太陽光が、自信に満ちた彼の表情を(少なくとも表面的には)照らし出している。
「…以上が、我々の提案です」
晴彦がプレゼンを締めくくると、クライアントたちは満足げに頷いた。完璧だ。握手の手前までこぎつけた。心の中でガッツポーズをしたい衝動を、奥歯を噛みしめて殺す。危ない、ここで喜べば真夏日になって空調が壊れる。
その時だった。会議室のドアがそっと開き、同僚の小雪さんが熱いコーヒーの入ったポットを運んできた。彼女は晴彦に気づくと、ふわりと花が綻ぶように微笑みかけ、「お疲れ様です、天野さん」と小さな声で言った。
その瞬間、世界が一変した。
晴彦の全身を、今まで経験したことのない強烈な感情が駆け巡った。それは喜びとも違う、愛おしさと切なさが入り混じった、甘くも危険なカクテルのような感情。彼の感情抑制ダムに、巨大な亀裂が入る音がした。
ゴォォォッ!
窓の外で、突風が吹き荒れた。先ほどまで一点の曇りもなかった空が、瞬く間に鉛色の雲に覆われる。そして、信じられないことに、乾いたアスファルトの上に、真っ白な雪が舞い始めたのだ。真夏の八月の出来事である。
「な、なんだこれは!?」
「吹雪…だと?」
クライアントたちが騒然とする中、晴彦は凍りついた。まずい。これはまずい。喜びは快晴、悲しみは雨、怒りは嵐。彼の長年の研究データに、「好き」という感情が「吹雪」を引き起こすなんて項目は存在しなかった。
小雪さんの微笑みひとつで、真夏のオフィス街に局地的な冬が到来した。彼の恋心は、どうやら地球の気候システムすらバグらせる、規格外の異常気象らしい。晴彦は、自分の心が生み出した白い地獄の中で、静かに絶望していた。
第二章 感情抑制マニュアルと制御不能な恋心
局地的吹雪事件から一週間、天野晴彦は自己嫌悪の沼に沈んでいた。契約は幸いにも「まあ、最近は異常気象も多いからな」というクライアントの奇妙な寛容さで何とかなったが、社内での彼の立場は著しく悪化した。「歩く寒冷前線」「ゲリラ豪雪製造機」など、不名誉なあだ名は増える一方だ。
彼は自室に引きこもり、対策マニュアルの改訂に没頭していた。壁一面には、「感情と天候の相関図」と題した巨大なチャートが貼られている。
「緊張は『濃霧』、安堵は『そよ風』、嫉妬は『湿度の高い曇天』…だが、なぜ『恋心』が『吹雪』なんだ…」
熱力学の専門書をめくり、気象学の論文を読み漁るが、答えは見つからない。彼の恋は、既知の物理法則を完全に超越していた。
対策はただ一つ。原因の除去。すなわち、小雪さんを避けることだ。
翌日から、晴彦の涙ぐましい努力が始まった。彼女が給湯室にいれば、彼は喉の渇きを我慢した。彼女が乗ったエレベーターには、階段を使って十階まで上がるという苦行で対抗した。彼女の「おはようございます」という声が聞こえれば、ヘッドフォンで虚無を誘う環境音を最大ボリュームで流した。
しかし、恋心という名の自然現象は、人間の小賢しい対策などあざ笑うかのように猛威を振るった。ある日の午後、晴彦が集中して書類を作成していると、ふと、フローラルな優しい香りが鼻をかすめた。顔を上げると、すぐ隣のデスクで小雪さんがハンドクリームを塗っている。その小さな手の動き、細い指先から目が離せなくなった瞬間、晴彦のデスク周りだけ、ピンポイントで激しい「雹(ひょう)」が降り始めた。バチバチバチッ!と音を立ててモニターやキーボードに氷の粒が叩きつけられ、同僚たちの悲鳴がオフィスに響き渡った。
「天野!いい加減にしろ!」
部長の雷が落ちる。本物の雷でなかっただけ、まだマシだった。
その夜、彼は会社の屋上で一人、星も見えない曇天(原因:自己嫌悪)を見上げていた。もう会社を辞めるべきかもしれない。この体質がある限り、自分は誰かを幸せにするどころか、物理的な危害を加えるだけの存在なのだ。
「天野さん?」
背後から、最も聞きたくなかった、そして最も聞きたかった声がした。振り返ると、小雪さんが心配そうな顔で立っていた。まずい。感情のダムが軋む。空気が急速に冷えていくのを感じる。
「大丈夫ですか?最近、なんだか元気ないみたいだから…」
彼女の優しさが、鋭い氷の矢となって晴彦の心を貫いた。
「あ、いや、大丈夫…です…」
嘘だった。大丈夫なわけがない。彼の周囲にはすでに冷たい霧が発生し始め、あっという間に視界は真っ白になった。まるで彼の心の中のように。
「わっ…すごい霧…」
小雪さんの声が、霧の向こうからくぐもって聞こえる。もう彼女の姿は見えない。
「小雪さん、実は俺…」
この際だから、全てを話してしまおうか。俺の感情が天気を操ってしまうこと、君を好きになるたびに異常気象が起きること、だから君を避けていたこと。
言葉が喉まで出かかった、その時。
「私、知ってますよ」
霧の中で、彼女の声がはっきりと響いた。
「天野さんの周りだけ、天気がおかしくなること。でも、なんだかそれって…すごいなって。世界に自分だけの天気を持ってるみたいで。…面白い人だなって、思ってました」
彼女は、笑っていた。その声には、恐怖も、拒絶もなかった。ただ、純粋な興味と、ほんの少しの温かさが滲んでいた。
晴彦の心を覆っていた分厚い雲に、一筋の光が差し込むのを感じた。霧が、ほんの少しだけ晴れた気がした。
第三章 恋のスーパーセルと共犯者
霧の中の告白(のようなもの)以来、晴彦の心は乱気流に巻き込まれた飛行機のようだった。小雪さんへの想いは募る一方だが、それに比例して異常気象のリスクも増大する。彼女と話せば突風が吹き、目が合えば霜が降りる。もはや彼の恋は環境災害だった。
そんな中、会社を揺るがす大事件が起きた。最重要機密である次期プロジェクトのデータが、ライバル社に漏洩したのだ。役員会議は紛糾し、犯人探しが始まった。そして、疑いの目は、当然のように天野晴彦に向けられた。
「サーバー室の精密機器が、原因不明の急激な温度変化と気圧低下によって誤作動を起こしたらしい」
「そんな芸当ができるのは、うちの会社に一人しかいないだろう」
同僚たちのひそひそ話が、湿度の高い曇天(原因:嫉妬と疑念)となって晴彦の周りにまとわりつく。違う、俺じゃない。確かに最近は気象が荒れ気味だったが、サーバー室に吹雪を送り込んだ覚えはない。
「私が証明します!天野さんは犯人じゃありません!」
会議室に乗り込んできたのは、小雪さんだった。彼女は役員たちを前に、臆することなく言った。
「その日、天野さんは私と一緒にいました。屋上で、ずっと」
嘘だ。あの日、屋上で会ったのはほんの数分。すぐに濃霧で何も見えなくなったはずだ。彼女はなぜ、自分を庇うために嘘をつくんだ?
晴彦が混乱していると、小雪さんは彼の手をぐっと掴んだ。その瞬間、晴彦は奇妙な感覚に襲われた。彼女の肌から、何か巨大なエネルギーが流れ込んでくるような。
ゴゴゴゴゴゴ…!
会議室の窓がガタガタと激しく震え始めた。外では、黒い雲が恐ろしい速さで渦を巻き、巨大な積乱雲、スーパーセルが形成されていく。晴彦の「困惑と感謝の吹雪」と、掴まれた手から伝わる未知のエネルギーが混ざり合い、とんでもない気象現象を生み出そうとしていた。
「小雪さん、君は一体…!」
小雪さんは晴彦の目を見て、はにかむように微笑んだ。
「ごめんなさい、ずっと黙ってて。実は、私もなんです」
「え…?」
「天野さんは『天気』でしょ?私は『気圧』なの」
晴彦は、雷に打たれたような衝撃を受けた。彼女の感情は、周囲の気圧をコントロールするというのだ。
「嬉しいと、気持ちのいい高気圧になるんです。でも、ドキドキしたり、好きな人のことを考えたりすると…」
彼女は言葉を区切って、頬を染めた。
「…急激な、爆弾低気圧になっちゃう」
全てのピースが、パズルのようにはまった。
晴彦の恋心が生み出す「極端な低温(吹雪)」。
小雪さんの恋心が生み出す「爆弾低気圧」。
この二つが合わさった時、そこに発生するのは、物理法則すら無視した「恋のスーパーセル」。サーバー室の誤作動は、二人の恋が生み出した、誰にも予測不可能な複合災害だったのだ。
犯人は、俺たち二人だったのか。
唖然とする晴彦の前で、小雪さんは続けた。
「だから、天野さんは一人じゃない。私も、共犯者です」
彼女はそう言って、悪戯っぽく笑った。その笑顔を見た瞬間、晴彦の中で、長年感情を閉じ込めていた鉛の箱が、音を立てて砕け散った。
第四章 二人が創り出す新しい天気
真実を知った二人は、役員たちに全てを打ち明けた。もちろん、誰も信じなかったが、「まあ、漏洩したデータはダミーだったし、君たちのせいで会社の上空が大変なことになってるのは事実だから、今後は感情をコントロールするように」という、なんとも不思議な形でのお咎めなしとなった。
その日の帰り道、二人は並んで歩いていた。気まずい沈黙が流れる。お互いの想いは、最悪の形で証明されてしまった。
「ごめん…俺のせいで」
晴彦が口火を切ると、小雪さんは首を横に振った。
「ううん、私の方こそ。まさか天野さんと同じだなんて思わなかったから」
「これから、どうしようか」
晴彦は呟いた。二人で一緒にいれば、世界に何が起こるか分からない。都市機能が麻痺するかもしれないし、生態系が狂うかもしれない。彼らの恋は、文字通り世界を揺るがすのだ。
「今まで、ずっと感情を殺してきた。誰にも迷惑をかけないように、透明人間みたいに生きてきたんだ」
晴彦の目から、一粒の涙がこぼれた。それは地面に落ちると、小さな氷の結晶になった。
「でも」と小雪さんが彼の言葉を継ぐ。「感情がない世界なんて、きっとすごく退屈ですよ。晴れの日も、雨の日も、嵐の日も、吹雪の日もあるから、世界は美しいんじゃないかな」
彼女はそっと晴彦の手を取った。ひんやりとした彼の手を、温かい彼女の手が包み込む。
その瞬間、奇跡が起きた。
二人の頭上に、夜空を彩る巨大なカーテンが現れた。緑、ピンク、紫…色とりどりの光が、まるで天の川のように揺らめいている。オーロラだ。
東京の、光害にまみれた空に、あり得ないはずの極光。
それは、晴彦の喜び(快晴)でも、悲しみ(雨)でもなかった。小雪さんの緊張(低気圧)でも、安堵(高気圧)でもなかった。
二人の心が重なり合った時にだけ生まれる、全く新しい天気。
「きれい…」
小雪さんが見上げて呟く。
「ああ…」
晴彦も、生まれて初めて見る自分たちの感情の形に、言葉を失っていた。
もう、感情を押し殺すのはやめよう。
迷惑をかけるかもしれない。世界を混乱させるかもしれない。でも、この美しさを知ってしまったら、もう無色の世界には戻れない。
晴彦は、小雪さんの手を強く握り返した。
「小雪さん。俺と一緒に、誰も見たことのない天気を作ってくれませんか」
彼女は、満面の笑みで頷いた。
「はい喜んで。もしかしたら、明日は虹色の雪が降るかもしれませんね」
二人が笑い合うと、オーロラは一層強く輝きを放った。
彼らの恋は、きっとこの先も世界中にたくさんのトラブルを巻き起こすだろう。それでも二人は、手を取り合って歩いていく。自分たちだけの、カラフルで、予測不能で、とてつもなく美しい天気を、この世界に降らせるために。
空を見上げる人々の顔には、困惑と、ほんの少しの感動が浮かんでいた。