モヤモヤとバッジの協奏曲
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モヤモヤとバッジの協奏曲

第一章 灰色の街と綿菓子

青葉ユキの頭上には、いつも淡い灰色の綿菓子が漂っていた。誰にも見えない、ユキだけの『モヤモヤ』。それは彼女が物心ついた頃から、まるで小さな衛星のように、その感情の軌道をなぞって浮遊している。

この街では、誰もが胸に透明なデジタルバッジを佩用している。そこに表示される『社会的価値』という冷たい数字が、その人間の全てだった。生産性、容姿、社交性――あらゆる要素がアルゴリズムによって算出され、人の階級を決定づける。数値が700を超えればエリート。300を割れば、公共交通機関の利用さえ制限される社会の底辺だ。

ユキの数値は、いつも450から460の間を臆病に揺れ動いていた。可もなく、不可もなく。街の景色と同じ、個性のない灰色。

「……また下がった」

カフェの窓に映る自分のバッジを見て、ユキは小さなため息を漏らした。452。昨日より3ポイント低い。店員の無機質な視線が、その数字を値踏みしているように感じられ、胃が小さく縮こまる。ストレスで指先が冷たくなった瞬間、テーブルの上のシュガースティックが、カサリ、と微かに震えた。まるで小さな芋虫のように。

ユキは慌ててそれを握りつぶす。これが彼女の秘密の体質。感情が極限に達すると、周囲の無機物が一時的に命を宿すのだ。喜びの時は陽気な踊り子に、悲しみの時はすすり泣く小動物に。そして今のようなどうしようもないストレスは、醜い虫へと姿を変える。

頭上の『モヤモヤ』が、ユキの不安を吸い取るかのように、少しだけ濃い灰色に染まった。

第二章 欠落者たちの囁き

異変は、ある朝、ニュースのけたたましいアラート音と共に始まった。

『速報です。都心部を中心に、『社会的価値』が異常低下する現象が多発。専門家はこれを『価値欠落症候群』と名付け、精神的な伝染病の可能性を指摘しています』

画面には、バッジの数値が二桁台、あるいは計測不能なエラー表示になった人々が映し出されていた。彼らは皆、生気を失ったような目で虚空を見つめている。人々は彼らを『欠落者』と呼び、汚物のように避けた。

街の空気は日に日に重くなる。誰もが自分のバッジの数字を強迫的に確認し、隣人がいつ『欠落者』になるかと疑心暗鬼に駆られていた。そんな中、ユキは恐怖に凍りついていた。

一週間前、ユキは会社の同僚、ミサキに強烈な嫉妬を覚えていた。彼女のバッジは常に750を超え、その笑顔は太陽のように眩しかった。ユキは会議室の隅で、ミサキの成功を妬み、彼女が失敗すればいいと、黒く淀んだ感情に身を任せてしまった。その時、ユキのペンケースの中で、数本のボールペンが毒々しいサソリのように蠢いたのを覚えている。

そして今朝、ミサキは『欠落者』になった。会社のエントランスで、虚な目をした彼女が、警備員に腕を引かれて連れ出されていくのを見た。彼女のバッジは、かつての輝きを失い、ただ『28』という数字を冷たく表示していた。

「私の……せい?」

囁きは声にならなかった。罪悪感が冷たい水となってユキの心臓を満たしていく。頭上の『モヤモヤ』が、ずしりと重くなった気がした。

第三章 罪悪感の足音

『欠落者』は増え続けた。彼らは職を失い、家を追われ、街の外れにある旧市街区へと追いやられていった。機能不全に陥った社会システムは、彼らを切り捨てることで秩序を保とうとしたのだ。

ユキは眠れない夜を過ごした。目を閉じれば、ミサキの虚ろな瞳が浮かんでくる。自分が嫉妬した人間が、不幸になっていく。街が壊れていく。この現象は、自分のどす黒い感情が生み出した怪物たちの仕業に違いない。

「私が……元に戻さないと」

誰にも言えない秘密。誰にも頼れない孤独。ユキは、まるで自分自身に鞭を打つように、震える足で立ち上がった。償わなければならない。たとえ何が待ち受けていようとも。

彼女はフードを目深に被り、『欠落者』たちが集まるという旧市街区へと向かった。そこは、高層ビルが放つネオンの光も届かない、忘れ去られた場所。鼻をつくのは、湿ったコンクリートと、諦めが混じり合ったような独特の匂い。バッジの数字が低い人間しかいないその場所は、きっと絶望と憎悪が渦巻く地獄のような場所に違いない。ユキは固く唇を噛みしめ、暗い路地へと足を踏み入れた。

第四章 スラム街のコンチェルト

路地を抜けた先でユキが見た光景は、彼女の予想を粉々に打ち砕いた。

そこは地獄ではなかった。むしろ、ユキが知る灰色の街よりも、ずっと色彩に溢れていた。壁には鮮やかなグラフィティが描かれ、どこからか素朴なギターの音色が聞こえてくる。人々は焚火を囲んで談笑し、子供たちは空き缶を蹴って笑い合っている。

彼らの胸のバッジは、確かに低い数字を示していた。二桁、時には一桁の者もいる。だが、その顔には、ユキが都心で見ていたような、数字に怯える不安や見栄は微塵もなかった。そこにあったのは、穏やかな、そして確かな『幸福』の色だった。

呆然と立ち尽くすユキに、一人の老人が声をかけた。彼のバッジは『9』。しかし、その皺だらけの顔は、慈愛に満ちていた。

「驚いたかい、お嬢さん。ここは数字の呪いが解けた連中の吹き溜まりさ」

老人は、かつて有名な建築家だったという。しかし、数字を追い求める日々に疲れ果て、心を病んでいた。ある日、仕事のプレッシャーで倒れた瞬間、目の前にあった製図用のコンパスが、小さな鳥の形になって飛び立ったのを見た、と彼は語った。

「その鳥がね、私のバッジをコツン、と突いたんだ。そしたら、すうっと肩の荷が下りて。数字なんてどうでもよくなった。本当に作りたかったのは、人を数字で縛る箱じゃなく、子供が笑う公園だったって、思い出したんだよ」

ユキの心に、衝撃と温かい感動が同時に押し寄せる。感情が頂点に達し、涙が溢れたその時。足元に転がっていた錆びた空き缶が、ふわりと光を放ち、何十匹もの光る蝶へと姿を変えた。蝶たちは、まるで祝福するかのように、人々の上を舞い始める。

人々は驚くことなく、その幻想的な光景を微笑んで見上げていた。

第五章 解放のアンサンブル

「君だったのか」

老人は、優しく言った。ユキは自分が生み出した感情生物たちが、人々を不幸にしていたのではなかったのだと、ようやく理解した。彼らは、社会の評価という名の呪いを解き、人々を解放していたのだ。

人々は、数字を失った代わりに、本当の自分を取り戻していた。絵を描く喜び、音楽を奏でる情熱、ただ誰かと語り合う温かさ。それらは、『社会的価値』では計測できない、かけがえのない宝物だった。

ユキは自分の頭上を見上げた。いつもは重苦しい灰色の『モヤモヤ』が、今は少しだけ白く、そして軽く感じられる。あれは、ユキ一人の感情の塊ではなかった。人々が『社会的価値』を追い求める中で溜め込んだ、行き場のないストレスや諦め、悲しみといった負の感情を吸収していたのだ。そして、それを『自分らしく生きる』ためのエネルギーへと変換していた。

『モヤモヤ』は、絶望の吸収装置であり、希望の変換器だったのだ。

「私……この街のみんなを……」

ユキは決意した。この力を、恐れるのではなく、受け入れよう。そして、この息苦しい灰色の街全体を、解放するために使おう。それは罪の意識からの逃避ではない。生まれて初めて抱いた、明確な意志だった。

第六章 モヤモヤが見せた夢

ユキは街の中心、セントラル・プラザに向かった。そこは、最も巨大なデジタルサイネージがそびえ立ち、常にトップエリートたちの『社会的価値』ランキングが映し出されている、この街の心臓部だ。

広場に立つと、無数の視線がユキに突き刺さる。彼女の450という中途半端な数字を、人々は訝し気に見つめている。ユキは目を閉じた。

恐怖でもない。喜びでもない。嫉妬でも、悲しみでもない。

彼女は心の中に、旧市街区で見た人々の笑顔を思い浮かべた。絵を描いていた少女。ギターを弾いていた青年。穏やかに笑っていた老人。そして、この広場にいる、数字に怯え、本当の自分を見失っている人々。その一人ひとりの幸福を、心の底から願った。画一的ではない、多種多様な、それぞれの幸福の形を。

それは、静かで、どこまでも広がる、大きな『愛』の感情だった。

ユキの感情が、臨界点を超えた。

第七章 虹色の綿菓子

変化は、静かに始まった。

ユキの足元の敷石が、柔らかな光を帯びた苔へと変わる。街灯は歌うように揺れる巨大な花となり、ビルの窓ガラスは一斉にステンドグラスのような輝きを放ち始めた。ユキの感情が生み出した生物たちは、もはや特定の形を持たず、祝福の光そのものとなって街中に溢れ出したのだ。

広場の人々が、自分の胸のバッジを見て息を呑む。

『社会的価値』という無機質な文字が消え、代わりに『真の満足度』という言葉が浮かび上がる。そして、その数値は、一人ひとり全く違う色の輝きを放ち始めた。情熱的な赤、穏やかな青、創造的な黄色、慈愛に満ちた緑。もはや数字の大小に意味はなかった。誰もが、唯一無二の輝きを持つ存在になったのだ。

人々は、縛られていた鎖が解けたように、空を見上げた。ある者は涙を流し、ある者は隣の人と抱き合い、ある者はただその場に座り込んで、忘れていた安らぎの感覚を噛みしめていた。

ユキは、自分の頭上を見上げた。『モヤモヤ』は、街中から集めた清々しい満足度のエネルギーをたっぷりと吸い込み、七色に輝く巨大な綿菓子へと姿を変えていた。

その虹色の光に照らされて、ユキは、生まれて初めて心からの笑顔を見せた。空はもう、灰色ではなかった。

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