白紙のジョークと最後の喝采
0 4158 文字 読了目安: 約8分
文字サイズ:
表示モード:

白紙のジョークと最後の喝采

第一章 笑わない街のアリア

その日を境に、街から笑いが消えた。まるで経験豊富な泥棒が、金庫から宝石だけを抜き去るように、人々の表情筋から『笑う』という機能だけが綺麗に盗み去られてしまったのだ。子供の甲高い笑い声も、恋人たちの囁くような微笑みも、酒場の陽気な爆笑も、すべてがアスファルトに染み込んだ雨水のように跡形もなく蒸発した。代わりに街を支配したのは、ガラス玉のような無表情と、互いの真意を測りかねる猜疑心が生み出す、冷たい沈黙だった。些細な肩の接触が殴り合いに発展し、電車の遅延アナウンスに怒号が飛び交う。喜びを表現する術を失った人々は、他の剥き出しの感情でその空白を埋めようと必死だった。

鏡 宗介(かがみ そうすけ)は、そんな街の空気を圧縮したような会議室にいた。地上三十階、窓の外には灰色のビル群が墓標のように立ち並ぶ。彼の前には、氷のような表情を崩さないクライアントたち。数億の取引を左右する最終交渉。この契約を成功させろ――背中に突き刺さる自社の上役たちの期待が、鉛のように重い。

「それで、鏡さん。あなたの最終提案は?」

冷え切った声が、宗介の鼓膜を打つ。大丈夫だ。準備は完璧だ。彼は自分に言い聞かせた。しかし、指先が冷え、心臓が嫌な音を立てて脈打ち始める。プレッシャーだ。極度のプレッシャーが、脳の奥底に眠る忌まわしいスイッチを押そうとしていた。視界がぐにゃりと歪み、クライアントの顔が、見知らぬ誰かの顔と重なっていく。やめろ、来るな。今じゃない。

第二章 虚ろな記憶のフラッシュバック

宗介の抵抗も虚しく、脳内でフィルムが回り始める。

そこは、安っぽいシャンデリアが煤けた光を放つ、会社の創立記念パーティー会場だった。彼は鏡宗介ではない。『田中 誠(たなか まこと)』という、とんでもなく不器用な男としてそこに立っていた。彼は営業部の万年平社員で、なぜか乾杯のスピーチという大役を任されている。手のひらは汗でぐっしょりと濡れ、マイクを握る指が震えていた。

「えー、あー…本日は、まことに…」

言葉が喉に詰まる。会場中の視線が痛い。特に、最前列で腕を組む社長の視線が。社長は、不自然なほど豊かな黒髪を誇示するように、胸を張っている。田中はパニックに陥り、何か気の利いたことを言おうとして、意味もなくマイクを口元に強く押し当てた。

その瞬間だった。

「ぶふぉっ!」

マイクが拾ったのは、彼の呼気と唾液が作り出した、破壊的な破裂音。そしてその衝撃波は、一直線に社長の頭部を襲った。ふわり、と。まるで意思を持った黒い鳥のように、社長の自慢の髪が宙を舞い、スローモーションで床に落ちていく。きらりと光る、社長の滑らかな頭頂部。その両脇に残った両面テープの白い跡が、やけに哀れだった。

会場は凍りついた。シン、と静まり返った空間に、田中の引きつった呼吸だけが響く。あれは、田中誠の人生で最も輝かしく、そして最も恥ずかしい失敗の瞬間だった。

「…テープが」

宗介は、目の前のクライアントに向かって、かすれた声で呟いていた。

「…両面テープが、剥がれて…」

会議室の空気は、パーティー会場のそれよりも冷たく、鋭く凍りついた。交渉は、終わった。

第三章 白紙の救世主

仕事を失い、街を彷徨う宗介の耳に、奇妙な噂が届いた。『感情の妖精』の仕業だ、と。この世界では、特定の感情を極めた人間が死後、その感情を司る妖精に転生するという。喜びの妖精は悪戯に人を躍らせ、悲しみの妖精は理由もなく涙を降らせる。気まぐれで、迷惑な存在。今回は、何者かが『笑い』だけを根こそぎ奪っているらしい。

このカオスを終わらせなければ。それは正義感からか、あるいは自らの失態を取り戻したいという焦りからか、宗介にも分からなかった。彼は唯一の手がかりを求めて、街の片隅で忘れられたように佇む古書店に足を踏み入れた。カビと古紙の匂いが鼻をつく。奥のカウンターで、感情を失くした老婆が彼を待っていた。

「『絶対スベらないギャグ集』…それを探しに来たんだろう?」

老婆は、まるで彼の心を見透かしたかのように言った。差し出されたのは、黒い革の表紙に金文字でそう刻まれた、一冊の古びたノートだった。宗介がページをめくると、中はすべて白紙。

「意味がありません、これは…」

「意味を作るのは、お前さんさ」

老婆はそれだけ言うと、再び闇に溶けるように沈黙した。宗介は半信半疑のまま、その白紙のノートを手に、光の乏しい店を後にした。

第四章 最初の喝采、そして忘却

広場に出ると、人々が無表情に行き交っていた。宗介は覚悟を決め、ペンを取り出すと、ノートの最初のページに、ふと思い浮かんだくだらないダジャレを書き込んだ。

『布団が吹っ飛んだ』

その文字が紙に染み込んだ瞬間、変化は起きた。彼の周囲にいた十数人の通行人が、突然、糸が切れた操り人形のように動きを止め、次の瞬間、一斉に吹き出した。

「ぶっ、ははははは!」

「あはははは!お、お腹が痛い!」

彼らは腹を抱え、地面を転げ回り、涙を流して大爆笑している。それは、まるで堰を切ったような、狂気じみた笑いの洪水だった。宗-介は呆然と立ち尽くす。だが、嵐は唐突に過ぎ去った。一分もしないうちに笑い声はぴたりと止み、人々は何事もなかったかのように立ち上がると、服の埃を払い、再び無表情で歩き始めた。

「今、何か…?」

一人が首を傾げたが、誰もなぜ笑ったのか覚えていない。笑いの痕跡すら、彼らの顔には残っていなかった。宗介はノートを見つめた。恐ろしい力だ。しかし、あまりにも虚しい。これは本当の笑いじゃない。ただの強制的な生理現象だ。

第五章 ジェスター・ゼロの劇場

その夜、宗介の前に一人の道化師が現れた。白塗りの顔に、裂けたような笑顔のメイク。しかし、その瞳は全く笑っていない。彼こそが、街から笑いを奪った『笑いの妖精』、ジェスター・ゼロだった。

「そのノート、渡してもらおうか」

ジェスターは、街の中心にある古びた劇場を根城にしていた。彼は人々から奪った『笑い』をエネルギーに変え、自分だけが喝采を浴びるための『強制爆笑王国』を築こうとしていたのだ。生前、彼は小田切譲(おだぎりゆずる)という、致命的に面白くないコメディアンだった。誰にも笑ってもらえなかった絶望が、彼を妖精へと転生させた。

劇場に連れ去られた宗介は、観客のいない客席に縛り付けられていた。舞台に立ったジェスターが、人生の全てを賭けた渾身の一発ギャグを披露する。

「電話に出れんで、どないしましょー…なんつってな!」

しん、と静まり返る劇場。ジェスターの顔が怒りと絶望に歪む。

「なぜだ!なぜ笑わない!俺はこんなにも面白いのに!」

彼は宗介を睨みつけた。「そのノートさえあれば…俺のネタは、至高の芸術になるんだ!さあ、それをよこせ!」

ジェスターの放つプレッシャーが、巨大な手のように宗介の心臓を鷲掴みにする。視界が再び歪む。まずい。また、田中がやってくる。

第六章 ただ一度の、本物の笑い

脳裏に再生されたのは、社長のズラ事件よりもさらに遡る、田中誠の原初のトラウマ。小学校の学芸会。主役の『木の役』を演じた田中は、ガチガチに緊張していた。クライマックス、森の動物たちが彼(木)の周りで踊るシーン。彼は一歩前に出ようとして、自らの足に絡まり、舞台上で盛大に転倒した。

その瞬間、手作りの衣装の、長く突き出たボール紙の枝が、客席最前列で見ていた教頭先生の鼻の穴に、見事に突き刺さったのだ。

「うごぉっ!」という教頭の悲鳴。静まり返る体育館。そして、舞台の上で亀のようにひっくり返り、手足をもがく哀れな木の姿。

「木の枝が…っ…教頭先生の鼻に…!」

宗介は、プレッシャーのあまり、その光景を叫んでいた。それはギャグではなかった。ただの、どうしようもなく惨めで、滑稽な失敗談。

その言葉を聞いた瞬間、ジェスターの動きが止まった。彼の目に、舞台上でひっくり返る哀れな少年の姿が映った。それは、初めて舞台に立った日、緊張でネタを全て飛ばし、ただ立ち尽くすしかなかった自分自身の姿と、完璧に重なった。

あまりにも凡庸で、不器用で、しかし必死だった、あの日の自分。

その滑稽さと愛おしさが、ジェスターの中で化学反応を起こした。

「く…くく…」

最初は、押し殺すような小さな声だった。やがてそれは、こらえきれない嗚咽のような笑いへと変わっていく。

「あ、は…ははははははははは!なんだ、それ!最高じゃ、ないか…っ!」

ジェスターは腹を抱え、舞台上を転げ回った。それは、彼が人々から奪った偽りの喝采ではなかった。彼が生まれて初めて、心の底から流した、本物の笑いの涙だった。彼の笑いは止まらない。体中から金色の光が溢れ出す。彼が溜め込んだ膨大な笑いのエネルギーが、たった一つの本物の笑いに耐えきれず、暴走を始めたのだ。

「ああ…そうか。俺が欲しかったのは…これだったのか…」

ジェスターは満足げに笑いながら、眩い光の粒子となって破裂し、消滅した。

彼が解放した『笑い』は、虹色の光の雨となり、劇場を突き抜け、街中に降り注いだ。無表情だった人々は、空を見上げ、何がおかしいのか分からないまま、くすくすと笑い始める。その笑いは、やがて大きな波となって、街全体を温かい幸福で満たしていった。

宗介は一人、静かになった劇場に佇んでいた。手には、まだ白紙のページが残るノート。もう、プレッシャーを感じても、田中の記憶に苛まれることはないだろう。あのどうしようもなく不器用な男の人生は、確かに世界を救ったのだから。

彼はノートを閉じ、笑い声が戻り始めた夜の街を歩き出す。完璧な人生などない。誰もが不器用で、滑稽な失敗を繰り返す。だが、そのみっともない断片こそが、時に世界で最も美しく、そして優しい喜劇を生み出すのかもしれない。

空には、ジェスターが最後に流した涙のような、一筋の虹がかかっていた。


TOPへ戻る