第一章 目覚まし時計の告白
小山田隆の人生は、まるで湯気の立ち上らないインスタントラーメンのようだった。熱湯を注がれた後の沈黙、そしてどこか物足りない食感。30歳、独身、趣味は休日の惰眠とコンビニスイーツの探索。会社では可もなく不可もなく、同僚からは「いつも穏やかだね」と言われるが、それは単に感情の起伏が少ないからに過ぎない。口癖は「まあ、いっか」。全てをその一言で片付け、日々を消化してきた。
しかし、その穏やかな日常は、ある湿っぽい火曜日の朝、唐突に崩壊した。
午前7時きっかり。枕元に置かれた古い目覚まし時計が、けたたましいアラーム音と共に叫んだ。「おい、まだ寝てんのかよ!毎日毎日、俺のゼンマイを限界まで巻き上げて、挙句にスヌーズボタンを乱用しやがって!俺の寿命も考えてくれよ!」
隆は布団の中で身をよじった。二日酔いの頭痛に、幻聴まで加わったのかと、ぼんやりとした意識の中で思った。幻聴にしては、やけに生々しい怒声だ。しかも、自分が日頃から目覚まし時計にしているひどい仕打ちを、克明に指摘している。
「…夢か?」
隆は重い瞼をこすりながら体を起こした。時計はアラームを止め、小さな文字盤の下でカチカチと秒針を刻んでいる。普段と何一つ変わらない。だが、その秒針の音が、まるで「見て見ぬふりかよ!」と非難しているように聞こえる。
朝食を摂ろうとキッチンに向かうと、今度は冷蔵庫が低い唸り声を上げた。「全く、あの納豆、賞味期限切れまくりだぞ。いつまで俺の中に閉じ込めておくつもりだ?それに、もうほとんど空っぽじゃないか。電気代がもったいない!」
隆は思わず立ち止まった。冷蔵庫のドアに手をかけ、恐る恐る尋ねた。「……今、何か言った?」
冷蔵庫は答えない。しかし、隆には聞こえた。明らかに聞こえた。冷蔵庫が深いため息をつく音が。
疑心暗鬼になりながら、隆はテレビをつけた。ワイドショーの賑やかな声が流れ出す。すると、テレビ台の隅に置かれた観葉植物のポトスが、しなしなと葉を揺らしながら囁いた。「水…水が足りないよ、たかし君。昨日からずっと枯れそうだって言ってるのに、なんで聞いてくれないんだい?」
隆は息を呑んだ。幻聴ではない。確かに、物が話している。それも、彼にしか聞こえない声で。しかも、ほとんどが文句か不平不満だ。
「僕の名前を…知ってる?」隆はポトスに問いかけた。
ポトスは、まるで呆れたようにさらに葉をしならせた。「そりゃ知ってるさ。あんたの部屋で何年も生きてるんだからね。あんたの隣で、毎晩安っぽいお笑い番組を見て、くすくす笑ってるんだから!」
隆は混乱した。自分の部屋の物が、全て意思を持ち、彼にだけ聞こえる言葉で文句を言っている。この事態をどう理解すればいいのか?SFか?ファンタジーか?いや、こんなにも生活感に溢れた、リアルな不満をぶちまけるファンタジーなど聞いたことがない。これは、どう見てもコメディだ。それも、最悪の部類の。
隆は自分の頭がおかしくなったのかと本気で心配した。しかし、彼の目に映る世界は、確かに今までと同じように「物」が存在している。ただ、その物たちが、彼の脳内でけたたましく主張しているだけだ。
玄関を出て会社に向かう。履こうとした靴は「今日も満員電車かよ…」とため息をつき、マンションのエレベーターは「また体重オーバー気味の人を乗せるのか…」とぼやいた。
隆の日常は、一夜にして、世界のあらゆる物から不平不満をぶちまけられる、地獄のコメディ舞台へと変貌していた。
第二章 会社の密告者たち
会社に到着する頃には、隆の心労は頂点に達していた。電車の吊り革が「あの手の汗…勘弁してくれよ」、改札の自動ドアが「また開け閉めか…もう腰が痛い」と、街中のあらゆる物が彼にだけ声を発する。もはや幻聴ではない。これは現実だ。しかし、この事実を誰に話せば信じてもらえるというのか。
自分のデスクに着くと、パソコンが起動音と共に低い声で「また意味のない資料作成か…俺の高性能なCPUが泣いてるぜ」と文句を言い出した。隆は思わず耳を塞いだ。しかし、声は脳に直接響く。無意味だった。
隣の席の同期、織田裕太が「小山田、今日、顔色悪いぞ。二日酔いか?」と声をかけてきた。織田は完璧主義者で、仕事もでき、見た目もスマート。社内の女性社員からの人気も高い。しかし隆は知っている。織田の使っている高級ボールペンが、隆にだけ織田の不平不満を漏らしていることを。
「織田さんは、いつも綺麗に字を書くけど、俺のインクの減りが遅いって不満に思ってるんだぜ。俺の個性なんだってのに!」と、先日、ボールペンが隆に告白したのだ。
今日も、織田がコーヒーを淹れようと席を立った瞬間、彼のデスクに置かれたマグカップが囁いた。「あいつ、この前、俺を落としそうになったんだ。ヒヤヒヤするぜ。しかも、中身はいつもブラック。たまには甘いミルクティーとか飲ませてくれよな。」
隆は思わず吹き出しそうになった。織田の完璧なイメージが、物の声によって次々と崩れていく。彼の使っているマウスは「あいつ、クリックの力が強すぎるんだよなー。イライラしてるのかね」とこぼし、キーボードは「誤字脱字が多いんだよ!俺は完璧を求めるのに!」と嘆く。
これまで完璧に見えていた織田が、実はイライラしやすく、クリックが強く、誤字脱字も多い人間であるという事実を、物の声を通して知る隆。それは、まるで彼の心にだけ届けられる、人間社会の滑稽な本音の暴露だった。
最初はストレスだった物の声も、一日、二日と過ぎるうちに、隆の日常に奇妙な彩りを添えるようになった。確かにうるさい。しかし、彼らが語る不平不満は、時に的を射ており、時に人間らしい(いや、物らしい、か)ユーモアに溢れていた。
例えば、会社の共有スペースにあるコピー機が、隆が書類をセットするたびに「ああ、また俺のインクが減る…俺、もうすぐ交換だろ?」「おい、紙が詰まるぞ!ちゃんとセットしろよ!」と愚痴をこぼす。
休憩時間の給湯室では、使い古された電気ポットが「みんな、俺のお湯でコーヒーを飲むけど、たまにはお茶を淹れてくれよな。俺、お茶も美味しいんだぜ」と呟く。
隆は、今まで意識していなかった物に、それぞれ固有の「人生」があることに気づき始めた。彼らはただそこにあるのではなく、人間が使うことで、喜びや怒り、悲しみや疲労を感じていたのだ。
彼の「まあ、いっか」という口癖も、少しずつ変化していった。例えば、ペンを乱雑に机に置こうとした時、ペンの「おい、やめろ!俺の芯が折れる!」という声を聞くと、彼はそっとペン立てに戻すようになった。
隆の行動が変わると、物の声も少しだけ穏やかになった。彼らは感謝を口にすることもある。
この奇妙な能力は、隆の閉ざされていた心に、新たな視点と、少しばかりの優しさをもたらし始めていた。
第三章 ベンチの嘆きと街の叫び
ある日曜日、隆は気分転換に近所の公園を散歩していた。青い空には綿菓子のような雲が浮かび、柔らかな日差しが新緑の葉を照らしている。普段なら聞こえてくるのは、子供たちの笑い声や鳥のさえずりだけだ。しかし、隆には聞こえた。街中の、いや、世界中の物が一斉に不平不満をぶちまける、巨大な合唱が。
「またポイ捨てかよ!俺の体がゴミだらけじゃないか!」と、街路樹の下のゴミ箱が怒鳴る。
「こっちの信号、長すぎだろ!車も人もイライラしてるのが分かるってんだよ!」と、信号機が叫ぶ。
「あの電線、いつも俺の頭の上でイチャイチャしやがって!俺も誰かと触れ合いたいのに!」と、孤独な電柱が嘆く。
「毎日毎日、踏まれて踏まれて、俺の顔はボロボロだ!たまには休ませてくれよ!」と、アスファルトの下のマンホールが呻く。
街の全ての物が、まるで人間の不満を代弁するかのように、あるいは人間に対する不満をぶちまけるかのように、けたたましい声を上げている。隆は耳を塞ぎたくなるほどの騒音に、頭を抱え込んだ。これは、彼がこれまで経験してきた、個々の物の「ちょっとした文句」とはレベルが違う。これは、世界全体からの、叫びだった。
その中で、特に大きく、そして深く、隆の心を揺さぶる声が聞こえた。
それは、公園の片隅に、長年ひっそりと佇んでいた古びた木製のベンチの声だった。
「もう…もう、耐えられない。限界だ。」
ベンチの声は、これまでの物たちの怒号とは違い、静かで、しかし絶望に満ちていた。
隆は、その声に導かれるように、ベンチに近づいた。
ベンチは、木の表面が剥がれ落ち、無数の落書きに覆われている。隆自身も、子供の頃、ここに座って友達と駄弁り、喧嘩し、仲直りした記憶があった。
「俺は、何十年もここで、人間たちの喜びや悲しみを見守ってきた。恋人たちが愛を語り、老夫婦が手を繋ぎ、子供たちが夢を語る姿を見てきた…」ベンチの声は、まるで遠い過去を懐かしむように、そして今の現実を嘆くように続いた。「だが、その一方で、無神経な落書き、投げ捨てられたタバコの吸い殻、夜中に吐き出される酔っ払いの愚痴…俺の体は、ただのゴミ捨て場にされ、心の拠り所を失った人間たちの吐き出すネガティブな感情の受け皿にされてきた。」
隆は、ベンチの表面に刻まれた「〇〇LOVE△△」という稚拙な落書きと、その横に投げ捨てられた空き缶を見た。
「人間は、自分が世界の一部だということを忘れている。全ての物が、それぞれに役割と感情を持っているのに…何も分かっていない。もう、うんざりだ。」
ベンチの最後の言葉が、隆の胸に深く突き刺さった。それは、ただのコメディではなかった。これは、物を通して、人間社会の傲慢さ、無神経さ、そして孤独を映し出す鏡だった。
隆は、これまで「まあ、いっか」で済ませてきた自分の人生を問い直さざるを得なかった。自分は、物に対して、そして他人に対して、どれほど無頓着に生きてきたのだろうか。このベンチの声は、彼に、人間と世界との関わり方を根本から見つめ直すことを強いる、あまりにも重い「転」だった。
第四章 聞こえなくても、そこに「声」はある」
ベンチの声を聞いたあの日から、隆の世界は一変した。物の声は相変わらず聞こえてくるが、その聞こえ方が変わった。以前はただの不平不満の羅列だったものが、今では彼らの「生きた証」として、隆の心に響くようになったのだ。彼らは単なる道具ではなく、世界を構成するかけがえのない存在なのだと、隆は理解した。
会社でも、隆の態度は変わった。以前は乱暴に扱っていた文房具を丁寧に使い、コピー機の前では「いつもありがとう」と心の中で呟く。
同期の織田に対しても、隆は新しい視点を持った。織田のマウスが「あいつ、プレゼンの前は胃がキリキリしてるんだよな…」と漏らすのを聞き、隆は織田の完璧主義の裏にある繊細さやプレッシャーに気づいた。ある日、プレゼンを控えて緊張している織田に、隆はそっと「あまり気負いすぎないで。織田さんなら大丈夫だ」と声をかけた。織田は驚いた顔で隆を見つめ、珍しくぎこちない笑顔を見せた。
隆は、物の声を通して知った人々の本音を、彼らへの優しさに変えることができるようになったのだ。
ある晴れた日の午後、隆が公園を訪れると、古びたベンチの前に、立ち入り禁止のテープが張られていた。老朽化に伴い、撤去されることが決まったのだという。隆の心臓が締め付けられるように痛んだ。
彼はテープをくぐり、ベンチの前に座った。
「君の声が、聞こえなくなるんだね…」隆は、今にも崩れ落ちそうなベンチに語りかけた。
ベンチは、かすかに揺れながら答えた。「…私の役目は、もう終わりだ。でも、君が私の声を聞いてくれて、本当に嬉しかった。ありがとう、人間。」
「僕の方こそ、ありがとう。君の声が、僕の世界を変えてくれたんだ。」
隆は、ベンチの古びた木肌にそっと触れた。そのひんやりとした感触が、彼の指先に、そして心に、深く深く刻み込まれていく。
「…大丈夫だよ、隆。君がこの世界の声を、私たちが語ったことを、忘れなければ、私たちの声は、ずっと君の心の中に響き続ける。」
その日を境に、隆から物の声が聞こえる能力は、少しずつ薄れていった。数週間後には、もう彼の耳に、彼らの声が届くことはなかった。しかし、隆は悲しむことはなかった。彼は知っていた。もう聞こえなくても、そこに「声」は確かに存在していることを。
隆の口癖は、「まあ、いっか」から「まあ、いっか…いや、ちょっと待てよ」に変わった。彼は、物事を深く考えるようになった。自分の行動が、周囲の世界に、そして人々に、どのような影響を与えるのか。一つ一つの選択に、意味を見出すようになった。
彼の視界に映る世界は、以前よりもずっと鮮やかで、奥行きのあるものになった。道端の石ころも、使い古されたマグカップも、彼にとっては全て、それぞれの「声」を秘めた、愛おしい存在だった。
隆は、もう物の声を聞くことはできない。しかし、彼の心は、かつて聞こえた世界の全ての声で満たされている。それは、彼がこれから歩む人生を、豊かで、少しばかり滑稽で、そして何よりも人間らしいものにする、かけがえのない贈り物となったのだ。
世界は、本当にただの「物」でできているのだろうか?それとも、私たち人間が、ただ耳を傾けていないだけなのだろうか?隆は、もう答えを急がない。彼はただ、そこに「声」があることを信じて、今日も静かに世界を見つめている。