第一章 灰色の徴税官と笑う滞納者
灰原奏の朝は、無表情の練習から始まる。鏡に映る自分を見つめ、眉ひとつ動かさず、口角は水平を保つ。完璧だ。今日もまた、奏は「感情税課」の優秀な職員として、この灰色の街に溶け込むことができるだろう。
この街では、すべての感情が課税対象だ。「喜び」には5%、「感動」には8%、「愛情」に至っては12%もの高額な税率が課せられる。中でも最も贅沢で、最も重い税が課せられる感情、それは「笑い」だった。笑い税は破格の20%。人々は笑いを忘れたかのように、俯き加減に、静かに日々をやり過ごしていた。アスファルトも、建物の壁も、人々のコートも、まるで申し合わせたかのように彩度の低い色ばかり。奏にとって、この無感情な風景こそが、平和の証だった。
「灰原君、例の件、どうなっているかね」
課長が粘つくような声で言った。デスクに置かれた書類には、一人の名前が赤字で記されている。
『風見ハル。笑い税、滞納額累計、384万2500円』
天文学的な数字だった。一般市民が生涯で納める感情税の総額を、たった一人の老婆が、それも「笑い」だけで超えている。街の秩序を乱す、重大な違反者だ。
「本日、最終通告に伺います。支払いに応じない場合は、規定に基づき『感情抑制措置』の準備を進めます」
奏は抑揚のない声で答えた。感情抑制措置。それは、特殊な装置を装着させ、強制的に脳内の快楽物質の分泌を抑制する、事実上の「感情の死刑宣告」だ。
「頼んだよ。君のその鉄壁の無表情なら、あの陽気な化け物にも通用するだろう」
課長の言葉に、奏は小さく頷くだけだった。化け物、か。奏もそう思う。この灰色の世界で、たった一人、屈託なく笑い続ける老婆。彼女の存在は、奏が信じる世界の正しさを根底から揺るがす、異物そのものだった。
バスを乗り継ぎ、街のはずれにある古い木造アパートに着く。その一室のドアだけが、鮮やかな黄色に塗られていた。ドアの前には、小さなプランターが所狭しと並べられ、色とりどりの花が灰色の空に向かって懸命に咲いている。まるで、この一角だけが世界の法則から外れているようだった。
奏は深呼吸し、ドアをノックする。中から、鈴を転がすような声が聞こえた。
「はーい、どうぞ、開いてますよ」
奏がドアを開けると、甘い花の香りと、焼きたてのクッキーの匂いが鼻をくすぐった。そして、そこにいた。縁側で日向ぼっこをしながら、手元の編み物を楽しげに見つめる老婆、風見ハルが。奏の姿を認めると、彼女は顔中の皺をくしゃくしゃにして、太陽のように笑った。
「あらあら、徴税官さん。ご苦労さま。さ、お上がりなさい。ちょうどカモミールティーが入ったところよ」
その笑顔は、奏の鉄壁の無表情に、小さな、しかし確かなひびを入れた。
第二章 花咲く家と忘れた記憶
風見ハルの部屋は、まるで魔法の箱のようだった。壁には孫たちが描いたであろう、虹や動物の絵が飾られ、手作りのカラフルな小物がそこかしこに置かれている。灰色の街に住む奏にとって、それは目に痛いほどの色彩の洪水だった。
「さあ、どうぞ。お砂糖は?」
「……結構です」
奏は差し出されたティーカップを、事務的に受け取った。カップには、おかしな顔をした猫の絵が描かれている。思わず口元が緩みそうになり、慌てて咳払いでごまかした。
「風見さん。本日は最終通告に参りました。滞納されている笑い税、384万2500円。本日中にお支払いいただけない場合、我々は強制執行、すなわち感情抑制措置を取らざるを得ません」
奏は用意してきた文句を、感情を込めずに読み上げた。しかし、ハルは動じない。彼女はカモミールティーを一口すすると、ふふ、とまた笑った。
「そんな怖い顔しなさんな。お茶がまずくなるわ」
「仕事です。私はあなたのその『笑い』がいかに社会の秩序を乱し、不公平を生んでいるかを説明しに来たのです」
「不公平、ねえ」
ハルは窓の外に広がる灰色の街並みを見つめた。「みんなが笑わなくなったから、この街はこんなに寂しくなっちゃった。笑い声はね、心の太陽なのよ。太陽がなきゃ、心に花は咲かないわ」
奏はハルの元へ、それから何度も通うことになった。監視、という名目で。しかし、それは次第に、奏自身の変化のための時間となっていった。ハルは、税の話をしようとする奏を巧みにかわし、昔の話や、庭の花の話、亡くなった夫の話を嬉しそうに語った。そのたびに、彼女は笑った。奏は、その笑顔を見るたびに、胸の奥がちくりと痛むのを感じていた。
ある日、奏はハルの部屋で古いアルバムを見つけた。そこには、若き日のハルと、優しそうな笑顔の男性が写っていた。
「主人よ。頑固だったけど、誰よりも優しい人だった」
ハルは懐かしそうに目を細める。その写真の中の二人は、満面の笑みを浮かべていた。奏はその笑顔を見て、不意に遠い記憶の扉が開くのを感じた。
それは、奏がまだ幼い頃の記憶。公園のブランコで、父が自分の背中を力いっぱい押してくれていた。空高く舞い上がる体が、風を切る音が、たまらなく可笑しくて、奏は空に響き渡るような大声で笑っていた。父もまた、それを見て嬉しそうに笑っていた。あの頃は、世界がもっと色鮮やかだった気がする。
しかし、その幸せは長くは続かなかった。感情税が導入され、笑い上戸だった父は、あっという間に多額の税金を課せられた。家計は火の車になり、父の笑顔は消え、母は泣いてばかりいた。
「奏。もう、大きな声で笑ってはいけないよ」
父にそう言われた日のことを、奏は決して忘れられない。その日から、奏は感情を殺す術を学んだ。笑うことは、罪なのだと。自分のせいで、家族が不幸になるのだと。
奏は、アルバムを静かに閉じた。ハルの屈託のない笑顔が、今は少しだけ、憎らしく思えた。
第三章 感情税創設の真実
強制執行の日が、三日後に迫っていた。奏の心は、鉛のように重かった。ハルを「無感情」にしてしまうことが、本当に正しいことなのか。しかし、法律は絶対だ。自分の役目を果たさなければならない。迷いを振り払うように、奏は過去の条例制定に関する資料を洗い直していた。自分の正しさを、活字で再確認したかったのだ。
市役所の地下にある、埃っぽい資料保管室。感情税が制定された当初の議事録をめくっていく。発案者、審議内容、制定理由……。奏はそこに、ある違和感を覚えた。条例の原案には、現在のものとは似ても似つかぬ一文が記されていたのだ。
『感情、特に喜びや笑いは、人生における最高の富である。本条例は、その価値を可視化し、市民がその尊さを再認識することを目的とする。徴収した税は、人々の心を豊かにするための文化事業に還元されるものとする』
……なんだ、これは。現在の条例では、税収はもっぱら市民の監視システムやインフラ整備に使われている。文化事業など、聞いたこともない。
さらに資料を読み進める奏の目に、信じられない名前が飛び込んできた。
『条例原案 発案者:風見 聡一郎』
……風見? まさか。奏は震える手で、別のファイルを引っぱり出した。職員の人事記録だ。そこには、若き日のハルの夫、風見聡一郎の顔写真と経歴が記されていた。元市役所企画課職員。そして、感情税条例の、最初の発案者。
奏の頭の中で、すべてのピースがカチリとはまった。
聡一郎は、人々にもっと感情豊かになってほしかったのだ。「笑いは素晴らしいものだから、税金を払ってでも手に入れる価値がある」。彼はそう伝えたかったのだ。しかし、彼の死後、その崇高な理念は、後任の為政者たちによって都合よく捻じ曲げられた。人々を縛り、管理し、搾取するための、冷酷なシステムへと。
ハルが笑い続けていたのは、単なる陽気さからではなかった。それは、亡き夫の本当の想いを守るための、たった一人で続けてきた、三十年にも及ぶ静かで、しかし、誰よりも強い抵抗だったのだ。彼女が滞納した384万2500円は、未払いの税金などではない。それは、夫の歪められた意志に対する、彼女の愛の深さそのものだった。
「……そう、だったのか」
奏は、その場に崩れ落ちた。自分が信じてきた正義が、ガラガラと音を立てて崩れていく。自分は、この街で最も尊いものを、自らの手で葬り去ろうとしていたのだ。資料室のコンクリートの壁が、ひどく冷たく感じられた。
第四章 はじまりの笑い声
強制執行の当日。ハルのアパートの前には、課長をはじめとする市役所の職員と、物々しい抑制装置を運ぶ執行官たちが集まっていた。野次馬たちは、遠巻きに、無表情で成り行きを見守っている。灰色の空気が、いつも以上に重く垂れ込めていた。
奏は、彼らの前にゆっくりと進み出た。その手には、風見聡一郎が記した条例の原案が握られている。
「課長。この強制執行は、中止すべきです」
奏の言葉に、課長は眉をひそめた。
「何を言っているんだ、灰原君。君らしくもない。これは決定事項だ」
「いいえ。我々は、とんでもない間違いを犯していました」
奏は深呼吸をした。そして、思い出した。遠い昔、父の背中に押されて、空に向かって笑った、あの日の感覚を。恐怖も、不安も、何もかもを吹き飛ばすような、あの解放感を。
奏は、顔を上げた。そして――笑った。
最初は、ひきつったような、ぎこちない笑いだった。しかし、一度堰が切れると、もう止まらなかった。
「あ、はは……あはははははは!」
腹の底から、魂の底から、絞り出すような笑い声が、静まり返った路地に響き渡った。課長も同僚も、執行官も、皆が呆気にとられて奏を見ている。
「ははは……おかしいじゃないか……! 笑っちゃいけない街なんて! 感情に税金をかけるなんて! こんな馬鹿げた話があるか!」
奏は笑いながら、涙を流していた。それは、悲しみの涙ではなかった。長年、心の奥底に押し殺してきた感情が、ようやく解放された喜びの涙だった。
奏は、手にした資料を高く掲げた。
「これが真実です! 感情税は、人を縛るためのものじゃない! 笑いの素晴らしさを、みんなで分かち合うためのものだったんだ!」
その時、アパートの黄色いドアが開き、ハルが顔を出した。彼女は、大声で笑う奏を見て、一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに、これまでで一番優しい笑顔を浮かべた。
奏の笑い声は、まるで伝染病のようだった。最初は、遠巻きに見ていた野次馬の子供が、くすくすと笑い出した。それにつられて、その母親が、隣の家の老人が、一人、また一人と、忘れていた笑い声を取り戻していく。それは、まだ小さなさざ波だったが、灰色の街に確かな変化が生まれた瞬間だった。
それから一年が経った。感情税は、まだ完全にはなくならない。しかし、街は確実に変わりつつあった。人々は以前よりも少しだけ顔を上げ、時折、小さな笑い声を響かせるようになった。街のあちこちに、花を植える人が増えた。
奏は市役所を辞めた。今は、ハルのアパートの一室を借りて、子供たちに「思いっきり笑う方法」を教える、小さな教室を開いている。もちろん、月謝は無料だ。
ある晴れた日の午後、奏とハルは、縁側でカモミールティーを飲んでいた。庭の花々は、去年よりもいっそう色鮮やかに咲き誇っている。
「あんたの笑い声は、あの人にそっくりだ」
ハルが、編み物の手を休めて、ぽつりと言った。
「そうですか?」
奏は、少し照れくさそうに笑った。その笑顔には、もう何の躊躇いもなかった。
空はどこまでも青く、頬を撫でる風は優しい。奏は、税金のことなど何一つ気にせずに、ただ心から笑えるこの瞬間が、何よりも尊い富であることを知っていた。灰色の街に、ようやく本当の太陽が昇り始めた。