第一章 予定死亡時刻は、明日の午後三時
佐藤健太の人生は、方眼紙そのものだった。市役所の戸籍係として勤めて十二年。彼のデスクの上は、寸分の狂いもなく配置された文房具が、まるで小さな整列した兵隊のように並んでいる。申請書類の記入漏れは0.1ミリの線のズレさえ見逃さず、彼の押す認印は常に完璧な角度と圧力で紙面に刻印される。同僚たちは親しみを込めて、あるいは若干の揶揄を込めて、彼を「定規の佐藤」と呼んだ。
そんな健太の、完璧に制御された日常という名の平穏な水面に、ある午後、小石が投げ込まれた。いや、小石などという生易しいものではない。それはコンクリートブロックだった。
「これ、お願いします」
カウンターの向こうから差し出されたのは、一枚の死亡届。健太はいつものように、淀みない動作でそれを受け取った。しかし、記載された名前に目を走らせた瞬間、彼の指がぴたりと止まる。
死亡者氏名、鈴木一郎。
届出人氏名、鈴木一郎。続柄、本人。
「……あの、失礼ですが」健太は眉間に皺を寄せ、目の前の老人を見上げた。「届出人が、ご本人様になっておりますが」
老人は、鳥の巣のようにくしゃくしゃの白髪頭を揺らし、深く刻まれた目尻の皺をさらに深くして笑った。「ああ、そうです。わしが鈴木一郎です」
「ご本人がご自身の死亡届を出すことはできません。規則で決まっております」
健太の言葉は、まるで法律の条文を読み上げるかのように冷たく、正確だった。しかし、老人は全く動じない。
「いやいや、そう言わずに。明日、死ぬ予定なんでね。先に手続きしとこうかと思いまして」
「予定、ですか」
健太の思考回路が、初めてショートした。予定。旅行の予定、会議の予定、そんな言葉は知っている。だが、死の予定、だと?
「ええ。明日の午後三時。桜の木の下で、ぽっくりとね。筋書きは完璧です。だから、今のうちにこれ、受理しといてもらえませんかね。後の人に迷惑かけたくないんで」
老人は悪びれもせず、にこにこと語る。その飄々とした態度は、健太が築き上げてきた規則と論理の壁を、まるで綿菓子のように軽々とすり抜けていく。
「ですから、それは……不可能です。死亡の事実を確認してからでなければ、受理は……」
健太が言い募ろうとすると、老人は「まあ、固いこと言わずに」と手をひらひらさせた。その手の甲には、太陽の光を吸い込んだような濃いシミが浮かんでいる。
「じゃあ、仕方ない。明日また来ますよ。ちゃんと死んでから、誰かに持ってこさせますわ」
そう言って、老人はくるりと背を向けた。その背中は、歳相応に丸まっているはずなのに、なぜか健太には、とてつもなく大きく、自由に見えた。
一人残されたカウンターで、健太は手元の死亡届を見つめたまま、しばらく動けなかった。死亡予定時刻、明日の午後三時。その非常識な文字列が、彼の完璧な方眼紙の人生に、じわりとインクの染みを広げていくようだった。
第二章 宇宙人との婚姻届
翌日、健太は落ち着かなかった。時計が午後三時を指した瞬間、彼は無意識に窓の外に目をやった。もちろん、桜の木の下で誰かが倒れているはずもなかった。結局、その日、鈴木一郎と名乗る老人が役所に現れることはなかった。健太は胸を撫で下ろしながらも、心の隅に奇妙な空虚感を覚えていた。まるで、見るはずだった芝居の幕が上がらなかったような、そんな物足りなさだった。
日常はすぐに健太を方眼紙の世界に引き戻した。しかし、彼の押す認印は、ほんのわずかに傾いていたかもしれない。
一週間が過ぎた頃、その老人は再び健太の前に現れた。まるで何もなかったかのように、ひょっこりと。
「いやあ、どうも。死に損ないましてね」
老人は頭をかきながら、悪戯がばれた子供のように笑った。「どうにもタイミングが合わんで。桜がまだ満開じゃなかったもんで、死ぬ気になれんかった」
健太は言葉を失った。返す言葉が見つからない。怒るべきか、呆れるべきか。彼の感情の物差しでは、この老人を測ることができなかった。
「それで、今日はこれです」
そう言って鈴木老人がカウンターに置いたのは、ピンク色の可愛らしい用紙だった。婚姻届だ。
健太は恐る恐る手に取った。
夫となる者、鈴木一郎。
そして、妻となる者の欄を見て、健太は本日二度目の思考停止に陥った。
氏名、キララ星人 ピピ子。
「……は?」
絞り出した声は、自分でも驚くほどかすれていた。
「わしの新しいお嫁さんです。昨夜、ベランダに不時着しましてね。意気投合したんですわ」
「う、宇宙人……ですか」
「ええ。言葉はまだ通じませんが、心で通じ合っとります。愛に国境も星境もありませんな」
老人は幸せそうに目を細めている。健太はこめかみがひくつくのを感じた。これはもう、狂気の沙汰だ。彼は深呼吸を一つして、プロフェッショナルとしての仮面を被り直した。
「鈴木さん。このようなふざけた届出は受理できません。公文書偽造にあたりますよ」
「ふざけてなんかないですよ。わしは本気です。ピピ子も、昨夜ずっと三つの目でわしを見つめてくれていた」
「……もう、お帰りください」
健太は、人生で初めて職務中に感情を露わにした。しかし、鈴木老人は少しも堪えた様子を見せず、むしろ面白そうに健太の顔を覗き込んだ。
「若いの。君の人生は、罫線だらけのノートみたいだねえ」
「……何が言いたいんですか」
「少しは、はみ出してみたらどうです? インクをこぼしたり、間違って線を引いたり。そういうところにこそ、面白い話が転がっとるもんですよ」
老人はそう言うと、宇宙人との婚姻届をひらりと取り返し、またしても飄々と去っていった。
残された健太の心には、老人の言葉が棘のように突き刺さっていた。罫線だらけのノート。その通りだ。だが、それが何だというのだ。はみ出すことの、何がそんなに素晴らしいというのか。理解できなかった。しかし、その日から、健太は仕事の合間に、こっそりと「鈴木一郎」という名前を、過去の住民記録データベースで検索するようになっていた。
第三章 すっとびのイチローの最後の舞台
検索結果は、意外なほどあっさりと見つかった。そして、そこに書かれていた事実に、健太は雷に打たれたような衝撃を受けた。
鈴木一郎。生年月日、職業欄には、ただ一言。「喜劇俳優」。
添えられた古びた白黒写真には、山高帽を目深にかぶり、ちょび髭をつけた、紛れもなくあの老人の若い頃の姿があった。健太はさらに調査を進め、古い新聞記事のデジタルアーカイブにたどり着く。
『昭和の爆笑王、すっとびのイチロー! 奇想天外な漫談で日本中を席巻!』
記事には、舞台の上で所狭しと飛び跳ねる、エネルギッシュな男の姿が写っていた。鈴木一郎は、かつて一世を風靡した伝説のコメディアンだったのだ。彼の芸風は、日常に潜む不条理を大げさに表現し、観客を笑いの渦に叩き込むというもの。未来の自分の死亡届を出す男、宇宙人と結婚しようとする男。それは、まさに「すっとびのイチロー」が舞台の上で演じてきたキャラクターそのものだった。
しかし、栄光は長くは続かなかった。人気絶頂だった昭和の終わり、最愛の妻・春子さんを病で亡くしたのを機に、彼は忽然と表舞台から姿を消した。まるで、妻と一緒に、自分の中の「笑い」も死んでしまったかのように。
健太は、もう一つの記録に気づいた。鈴木一郎と、妻・春子さんの婚姻届が受理された日付。それは、四十年以上も前の、春の穏やかな一日だった。そして、その届出をした役所こそ、この市役所だったのだ。
全てのピースが、カチリと音を立ててはまった。
死亡届も、宇宙人との婚姻届も、狂人の戯言ではなかった。それは、記憶が薄れゆく老人が、必死に過去の自分と、そして愛する妻との繋がりをたぐり寄せようとする、悲しくも健気なパフォーマンスだったのだ。
認知症。その言葉が健太の頭をよぎった。現実と、コメディアンとしての自分と、そして最愛の妻との思い出が混濁し、彼はこの役所を訪れていた。妻との人生が始まったこの場所を。
「罫線だらけのノート」。あの言葉が、今度は全く違う意味を持って健太の胸に響いた。規則や正しさだけを追い求めてきた自分は、目の前にいた一人の人間の、深い悲しみと愛情の物語を見ようともしなかった。ただ、規則という名の罫線からはみ出した「迷惑な老人」としか見ていなかった。
健太は、自分の顔が熱くなるのを感じた。それは、羞恥と、後悔と、そして今まで感じたことのない、人間そのものへの愛おしさが入り混じった熱だった。彼は、デスクの引き出しから白紙の婚姻届を一枚掴むと、勢いよく席を立ち、役所を飛び出した。
第四章 受理されない証明書
鈴木老人を見つけたのは、役所の裏手にある、古びた公園だった。彼は夕日に向かってベンチに座り、誰に聞かせるともなく、小さな声で何かを呟いていた。
「……それでね、春子。医者が言うには、わしの頭の中には消しゴムがあるらしいんだ。大事なことから、どんどん消えていっちまう。困ったもんさ。だからね、忘れないうちに、もう一回、君にプロポーズしようと思ってね。今度のお相手は、キラキラ星のお姫様だ。君も、びっくりするだろう?」
それは、観客のいない、たった一人のための漫談だった。亡き妻・春子さんに向けた、最後の舞台。その声は震え、途切れ途切れだったが、健太の心には、どんな大ホールの喝采よりも大きく響いた。
健太は、ゆっくりと老人の隣に腰を下ろした。老人は驚いて健太を見た。
「あんたは、役所の……」
「佐藤です」健太は、震える手で、ポケットからくしゃくしゃになった婚姻届を取り出した。「鈴木さん。受理しますよ、その婚姻届」
「……え?」
「ただし、お相手はピピ子さんじゃありません」
健太はまっすぐに老人の目を見つめた。その潤んだ瞳の奥に、かつての喜劇王の面影を見た。
「お相手は、奥様の、春子さんですよね」
その瞬間、鈴木老人の顔が、驚きと、困惑と、そしてやがて訪れた深い理解によって、くしゃりと歪んだ。彼は何も言えず、ただこくこくと頷いた。皺だらけの目から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。それは、悲しみの涙であり、喜びの涙でもあった。
「……ありがとう」老人は、かろうじてそれだけを言った。「ありがとう、若いの」
健太は、老人の震える手をそっと取り、婚姻届の「妻となる者」の欄に、二人で一緒に名前を書いた。「鈴木 春子」。それは、公的には何の意味も持たない、ただの紙切れだった。受理されることのない、証明書。しかし、夕日に照らされたそのピンク色の紙は、健太と老人にとって、世界で最も尊い契約書のように見えた。
後日、健太は相変わらず市役所のカウンターに座っている。彼のデスクの上は、今も兵隊のように文房具が整列している。けれど、何かが決定的に違っていた。窓口に来る夫婦喧嘩中の男女、生まれたばかりの赤ん坊を抱いて緊張する若い父親。その一人一人の背景に、罫線からはみ出した、それぞれの人生の物語があることを、彼は知ってしまった。
彼のデスクの一番下の引き出しには、一枚の白紙の婚姻届が、お守りのようにそっとしまわれている。それは、彼が人生で初めて、自らの意志で規則からはみ出した記念品であり、彼の窮屈な人生に生まれた、最初の美しい「余白」だった。
ふと、赤ちゃんの泣き声に顔を上げると、若い夫婦が困ったように、しかし幸せそうに笑っていた。それを見て、健太の口元に、自分でも気づかないうちに、ふわりと柔らかな笑みが浮かんでいた。それは、方眼紙の世界しか知らなかった男が、人生の不条理さと愛おしさを知って初めて手に入れた、本物の笑顔だった。