そのツッコミに愛はあるんか

そのツッコミに愛はあるんか

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第一章 偏差値38のツッコミと法律違反の警告

田中誠の人生は、常に減点方式で採点されていた。彼が住むこの国では、百年前に制定された『円滑な対人関係の維持及び促進に関する法律』、通称『ツッコミ義務法』が、市民生活の根幹を成していたからだ。この法律は、日常会話で発生するあらゆる「ボケ」に対し、周囲の人間が適切かつ迅速な「ツッコミ」を返すことを義務付けている。適切なツッコミは加点対象となり、市民ランクが上昇する。逆に、ボケを無視したり、的外れなツッコミをしたりすると、即座に減点。累積減点が溜まれば、罰金や社会奉仕活動が科せられるのだ。

そして、市役所職員である田中誠のツッコミ偏差値は、驚異の38。真面目さと融通の利かなさでは右に出る者がいない彼にとって、この法律は人生最大の理不尽だった。

その日の昼下がりも、田中は劫罰の対象となっていた。昼食を買うために立ち寄ったコンビニの前で、一人の男が逆立ちでレジに並んでいたのだ。足の指で器用に小銭を掴み、「すいませーん、カツ丼一つ」と真顔で言っている。周囲の人々は、この高度なボケにどうツッコむべきか、固唾を飲んで見守っていた。完璧なツッコミができれば、今月の市民ランクアップは間違いない。

田中は眉間に皺を寄せ、深く息を吸い込んだ。ここで減点を食らうわけにはいかない。彼は法律の条文と過去の判例を脳内で高速検索し、最も論理的で、最も無難な回答を導き出した。

「あの、公衆の面前で著しく風紀を乱す行為は、軽犯罪法に抵触する可能性があります。速やかに正常な姿勢に戻ってください」

シン、と空気が凍りついた。逆立ちの男も、周りの野次馬も、そして電柱の陰から様子を窺っていたツッコミ警察の腕章をつけた職員までもが、呆気に取られた顔で田中を見ていた。やがて、誰かが「うわぁ…」と呟いた。田中の耳につけられた小型の市民ランク測定器が、けたたましい警告音と共に振動する。

『警告。等級三のツッコミ義務違反です。減点ポイント、マイナス15。累積減点、98ポイント。100ポイントで罰金対象となります』

冷たい電子音声が、田中の敗北を告げた。

「おい君、今のはないだろう」

ツッコミ警察の職員が、呆れ顔で手帳を片手に近づいてきた。

「あれは『なんで天地逆にしただけでカツ丼がヘルシーになると思ったん!? カロリーは概念やぞ!』が模範解答だ。君のはただの説教だ」

「しかし、法的には私の指摘が最も…」

「情緒がないんだよ、情緒が! ボケは心で受け止めて、愛で返すもんなんだ!」

そう言い残し、警察官は溜息をつきながら去っていった。愛、とはなんだ。非論理的で、非効率的な感情論ではないか。田中は固く拳を握りしめた。こんな法律、絶対に撤廃させてやる。論理と理性こそが、この国を救う唯一の道なのだと、彼は固く信じていた。

第二章 伝説のボケ老人と不本意な弟子入り

翌日、田中の憂鬱は、一人の老人の来訪によって頂点に達した。市民相談課のカウンターに、その老人はニコニコと人懐こい笑みを浮かべて座っていた。名は、鈴木さん。手には、なぜか巨大なマグロの抱き枕を抱えている。

「市役所の方。わしは、この街にさらなる笑いと平和をもたらすための陳情に来ました」

「はあ、どのようなご用件で」

田中は事務的な口調で応じた。マグロには触れない。触れたら負けだ。

「このマグロの『トロ』と、わしの『となりのトトロ』を交換して、市の公式マスコットにしていただきたい」

「…は?」

田中の思考が、完全に停止した。理解不能なボケ。いや、これはもはやボケというより、意味不明な電波だ。どうツッコめばいい? 条文は? 判例は? 脳内データベースがエラーを起こす。

「…あの、まず、それは本物のマグロではありませんし、著作権の問題もございます。前例がないため、受理は困難かと…」

まただ。田中の耳元で、測定器が悲鳴を上げた。

『警告。等級四のツッコミ義務違反。減点ポイント、マイナス30。累積減点、128ポイント。罰金三万円が確定しました』

「ぶっぶー! ダメじゃのう、君は」

鈴木さんは子供を諭すように人差し指を振った。「今の模範解答は、『その発想はなかった! でもトトロがお腹すいたら共食いしません!?』じゃよ。もっと想像力を働かせんと」

「想像力など、行政サービスには不要です!」

思わず声を荒らげた田中に、鈴木さんは少し寂しそうな顔をして、それから悪戯っぽく笑った。

「君、面白い目をするのう。四角四面の真面目な顔の下で、世界で一番面白いツッコミをしたいと魂が叫んでおる。わしには分かる」

「滅相もございません」

「いや、君には才能がある。わしが君を、最高のツッコミ師に育ててやろう」

こうして、田中誠の意に反した、伝説のボケ老人・鈴木さんによるマンツーマン指導が始まった。公園の鳩に人生相談をする鈴木さん、交番で道を尋ねるふりをして警察官の似顔絵を描き始める鈴木さん、デパートのエレベーターで突然オペラを歌い出す鈴木さん。その常軌を逸したボケの数々に、田中は毎日減点を食らい続け、罰金は雪だるま式に膨れ上がっていった。

しかし、田中もただやられていたわけではない。法律を撤廃させるという固い決意のもと、彼は鈴木さんのボケを分析し、パターンを分類し、データベース化していった。いつか、この膨大なデータを使って、ツッコミ義務法がいかに非論理的で、市民生活を圧迫しているかを証明するのだ。

そんなある日、鈴木さんがぽつりと言った。

「誠くん。ツッコミというのはな、言葉のキャッチボールじゃ。相手がどんな無茶苦茶なボールを投げてきても、『お前のボール、確かに受け取ったぞ』と、愛を込めて投げ返してやることなんじゃよ」

「愛、ですか…」

「そう。正論や論理だけでは、人の心は動かせん。人の心のど真ん中に、ストレートに投げ込むんじゃ」

その言葉は、田中の心の硬い殻に、ほんの少しだけ、小さなひびを入れた。

第三章 法の条文に隠された涙と笑いの真実

ツッコミ義務法撤廃に向けた国民大会議の開催が決定し、田中はその急先鋒として論客に選ばれた。彼はこれまでに蓄積したデータと、法律の矛盾点をまとめた完璧な原稿を準備していた。これで、あの非論理的な悪法に終止符を打てる。彼は高揚していた。

大会議の前日、最終準備のために国立公文書館を訪れた田中は、ふと、ツッコミ義務法の制定に関する初期の議事録に目を通したくなった。敵を知り、己を知れば百戦危うからず。法律の生まれた経緯を完全に把握しておこうと思ったのだ。

分厚いファイルを開き、黄ばんだページを一枚一枚めくっていく。そこに記されていたのは、田中の想像を絶する、衝撃的な事実だった。

百年前、この国は「大沈黙時代」と呼ばれる暗黒期にあった。経済の停滞と社会の閉塞感から、人々は他者への関心を失い、コミュニケーションを完全に放棄した。街には会話がなく、人々は孤独に苛まれ、自殺率が急増。社会は崩壊寸前だった。

時の政府は、この状況を打破するため、一人の若き天才社会学者に助けを求めた。彼の名は、鈴木一郎。

議事録には、若き日の鈴木さんの言葉が、熱を帯びたまま記録されていた。

『人は、他者からの承認と応答なしには生きられない。我々は、強制的にでも、人と人が関わり合う仕組みを作らねばならないのです!』

『「ボケ」とは、他者への問いかけです。「ねえ、私を見て。ここにいるよ」という魂の叫びです。そして「ツッコミ」とは、その叫びに対する「ああ、見ているよ。お前のこと、ちゃんと受け止めたよ」という、人間性の応答なのです!』

『この法律は、コミュニケーションの強制ではありません。孤独に凍える魂を、言葉の温もりで抱きしめるための、最後のセーフティネットなのです!』

田中は、手が震えるのを止められなかった。ツッコミ義務法は、非論理的な悪法などではなかった。それは、崩壊しかけた社会を、人と人との繋がりを、必死に守ろうとした人々の、血と涙の結晶だったのだ。

そして、あの鈴木さんが、この法律の生みの親だった。彼が今もなお、奇妙なボケを続けるのは、誰よりもこの法律の精神を理解し、自らの身体をもって、人々の間に温かいキャッチボールを生み出そうとしていたからに他ならなかった。

彼が田中に言った「愛を込めて投げ返す」という言葉が、雷のように脳天を撃ち抜いた。田中は、法律の条文しか見ていなかった。その奥にある、人々の切実な願いや、涙や、そしてささやかな笑いを見ようともしていなかったのだ。

公文書館の硬い椅子の上で、田中は初めて、法律のために泣いた。

第四章 魂のツッコミは世界を救う

国民大会議の当日。会場は、法律の撤廃派と維持派の熱気でむせ返っていた。壇上に上がった田中は、スポットライトを浴びて少し眩しそうに目を細めた。手には、昨日まで完璧だと思っていた原稿が握られている。客席の片隅に、マグロの抱き枕を抱えた鈴木さんが、いつものようにニコニコと笑って座っているのが見えた。

田中は、深く息を吸い込んだ。そして、ビリ、と音を立てて、手にした原稿を破り捨てた。会場がどよめく。

「皆さん。私は本日、このツッコミ義務法の撤廃を訴えるために、ここに参りました」

静まり返った会場に、彼の声が響く。

「私はこの法律を、非論理的で、非効率で、個人の自由を束縛する悪法だと信じていました。なぜなら、全ての物事は、論理と理性で割り切れるべきだと考えていたからです」

彼は一度言葉を切り、客席を、そして鈴木さんを真っ直ぐに見つめた。

「…しかし、私は間違っていました。この法律は、数字や論理では測れないもので、私たちの社会を支えていたのです。それは、人の温もりです」

田中は語り始めた。大沈黙時代の悲劇を。人々が孤独に震えていた過去を。そして、その闇の中から、一本の光としてこの法律が生まれた経緯を。彼の言葉は、もはや無味乾燥な法律論ではなかった。それは、過去から現在へ、人と人とを繋ぐ物語だった。

「私たちは、いつの間にか忘れていたのかもしれません。ツッコミを入れることが、点数を稼ぐための作業になっていたのかもしれません。しかし、思い出してください。誰かのくだらないボケに、思わず笑ってしまった瞬間を。的外れなツッコミをして、周りと一緒に赤面した温かい時間を。それこそが、この法律が本当に守りたかったものなのです!」

彼の声は、熱を帯びていく。

「この社会に漂う、『なんだか息苦しい』『孤独だ』という、漠然とした不安! それこそが、現代における最大の『ボケ』なのかもしれません! そして、それに対して私たちは、どんなツッコミを返すべきなのでしょうか!」

彼は両手を広げ、叫んだ。

「『一人で悩んでんじゃねえよ! 俺たちがついてるだろ!』…そう、愛のあるツッコミを返すことではないでしょうか!」

その瞬間、会場は割れんばかりの拍手に包まれた。それは、法律の維持や撤廃を超えた、魂の共鳴だった。人々は、田中の言葉という最高のツッコミによって、自分たちが本当に大切にすべきものに気づかされたのだ。

会議の後、田中は鈴木さんのもとに駆け寄った。

「鈴木さん、ありがとうございました」

「いやいや、わしは何も。全部、君が自分で見つけた答えじゃ」

鈴木さんはそう言って、いつものように目を細めた。そして、すっとマグロの抱き枕を田中に差し出した。

「ところで誠くん。このマグロ、今夜の君のおかずにどうじゃろうか。わしが三枚におろしてやろう」

それは、鈴木さんから田中への、卒業試験とも言える最後のボケだった。

田中は、もう迷わなかった。測定器の警告音など、もはや彼の耳には届かない。彼は満面の笑みを浮かべ、人生で最高の声量で、こう叫んだ。

「なんでやねん! それ、綿しか出てこんわ!」

そのツッコミは、論理も理性も超えて、ただひたすらに温かく、愛に満ちていた。

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