第一章 朝の配役会議
朝の光がダイニングテーブルに縞模様を描く頃、私たち高橋家の、少し変わった一日が始まる。それはいつも、古びた桐の箱から始まる儀式だった。父が重々しく蓋を開けると、中には四つ折りにされた小さな紙片が四枚。これが、私たち家族のその日の「役割」を決める、運命のくじだ。
「さあ、今日も素晴らしい一日の始まりだ。みんな、引いてくれ」
父の朗々とした声が響く。しかし、その声の主は、昨日まで食卓の隅で丸くなっていた「猫役」の父だ。今日の彼の役割はまだ決まっていない。誰もが固唾を飲んで、箱に手を伸ばす。
最初に引いたのは、弟の晴翔。小学五年生の彼は、紙片を広げると得意げに笑った。「やった! 今日は僕が『父親役』だ!」彼はすぐに咳払いを一つして、威厳のある低い声で「うむ、皆の者、おはよう」と早速役に入り込む。
次に手を伸ばした母は、くじを見て小さく息を呑んだ。「あら、わたくし、『長男役』ですって」。彼女ははにかみながら、少し乱暴な仕草で椅子に座り直し、「ちわーっす」とぶっきらぼうに挨拶した。
そして父が引いたのは、『ペットのポチ役』だった。彼は四つん這いになると、嬉しそうに尻を振り、「ワン!」と元気よく吠えた。
最後に残ったくじを、私はゆっくりと手に取った。広げた紙には、『母親役』と書かれていた。私はため息を一つついて、エプロンの紐をきつく結び直す。「はいはい、みんな。朝ごはんが冷めないうちに食べなさい」。私の声は、自分のものではない誰かの声のように、穏やかで、そして少しだけ疲れていた。
これが私たちの日常。物心ついた頃から、高橋家では毎日、くじ引きで役割が決まる。父親、母親、長男、長女、時にはペットや家具に至るまで。この役割を演じている間、私たちは本当の名前や年齢を忘れ、その役になりきることを求められる。父曰く、「役割を演じることで、互いへの理解が深まり、家族の絆はより強固になる」のだそうだ。
子供の頃は、それが楽しいゲームのように思えた。けれど、高校生になった今、私はこの終わらない演劇に息苦しさを感じていた。本当の私はどこにいるのだろう。『長女役』の私、『母親役』の私、『猫役』の私。そのどれもが私であって、私ではない。鏡に映る自分の顔を見ても、そこにいるのが何者なのか、時々分からなくなる。食卓で繰り広げられる、ぎこちなくも完璧な家族の風景を眺めながら、私の心には冷たい霧が立ち込め始めていた。この家の、歪んだ調和の裏には、何か巨大な秘密が隠されているのではないか。そんな予感が、日に日に強くなっていた。
第二章 色褪せた写真の問い
その日の午後、私は『長女役』の合間を縫って、開かずの間となっていた屋根裏の物置に足を踏み入れた。役割から解放される唯一の時間。カビと埃の匂いが鼻をつく。軋む床板を踏みしめながら、私は何かを探していた。この家の、この家族の「始まり」を示す何かを。
段ボールの山をかき分けると、一つの古びた木箱が目に留まった。蝶番は錆びつき、蓋は重い。力を込めてこじ開けると、中にはアルバムが数冊、ひっそりと眠っていた。息を殺して、一番上のアルバムを手に取る。表紙には、達筆な文字で『高橋家 記録 1998-2005』と記されている。私の生まれる前の記録だ。
ページをめくる指が震えた。そこに写っていたのは、知らない男女だった。優しそうな目をした男性と、ひまわりのように笑う女性。二人は寄り添い、赤ん坊を抱いている。その赤ん坊の顔には、紛れもなく私の面影があった。ページを進めるごとに、赤ん坊は少しずつ成長し、やがて幼い弟の晴翔も写真に加わる。幸せに満ち溢れた、どこにでもある「普通の家族」の姿。
しかし、その写真に写っている両親は、今、この家で『父親役』や『母親役』を演じている二人とは、まったくの別人だった。
血の気が引いていくのが分かった。心臓が嫌な音を立てて脈打つ。この人たちは誰? 私たちの、本当の両親? では、今、下にいるあの人たちは……?
私はアルバムを抱きしめ、階段を駆け下りた。リビングでは、晴翔が『弟役』としてゲームに夢中になっている。
「晴翔!」
声を荒げた私に、晴翔は驚いて顔を上げた。私は彼にアルバムを見せ、震える声で尋ねた。
「この人たち、誰だか分かる?」
晴翔は写真に目を落とし、少し首を傾げたが、すぐに興味を失ったように肩をすくめた。「さあ? 知らない人たちだね。それより姉ちゃん、今日の『おやつ役』はまだ?」
彼の無邪気な反応に、私は愕然とした。晴翔は何も知らない。何も疑っていない。この奇妙な演劇を、生まれた時から続く当たり前の現実として受け入れているのだ。
「だって、こうすれば誰も傷つかないでしょ?」
いつか彼が言った言葉が、頭の中で木霊する。傷つかない? 一体、誰が、何に傷つくというのだろう。
この家は、巨大な嘘で塗り固められた舞台だ。そして私たちは、脚本家の顔も知らないまま、与えられた役を演じ続ける操り人形に過ぎないのかもしれない。私の胸に宿った小さな疑念は、今や確信に変わり、どうしようもない孤独感となって全身を包み込んでいた。真実を知らなければ。この劇を終わらせる方法を見つけなければ。私は固く唇を噛みしめた。
第三章 招かれざる『訪問者』
翌朝の食卓は、異様な緊張感に包まれていた。いつものように桐の箱が置かれているが、その傍らに、一枚だけ、仲間外れのようにくじが置かれている。それは昨夜、私が桐の箱の底に張り付いているのを見つけたものだった。他のくじとは違う、ざらりとした手触りの紙。そこには、インクが掠れたような、弱々しい文字でこう書かれていた。
『訪問者役』
誰もがそのくじに触れようとしなかった。父も母も、晴翔でさえも、不吉なものを見るような目で遠巻きに眺めている。結局、その日は『訪問者役』のくじを除いた三枚で役割を決めた。けれど、空席が一つある食卓は、まるで嵐の前の静けさのように、不気味に静まり返っていた。
その日の午後三時、予感は現実のものとなった。ピンポーン、と澄んだチャイムの音が響く。誰も出ようとしない。私は意を決して玄関のドアを開けた。
そこに立っていたのは、一人の女性だった。屋根裏で見つけた写真の中で、ひまわりのように笑っていた、あの女性。歳月は彼女の顔に細い皺を刻んでいたが、優しげな眼差しは変わっていなかった。彼女は私を見ると、泣き出しそうな、それでいて懐かしむような、複雑な表情を浮かべた。
「美月……大きくなったのね」
彼女は私の本当の名前を呼んだ。役割名ではない、本当の名前を。その声に導かれるように、リビングから父と母、そして晴翔が出てきた。今の『父親役』の男は、女性を見ると観念したように深くため息をついた。
そして、全ての真実が語られた。
ドアの前に立つ女性こそが、私たちの本当の母親だった。写真に写っていた男性、つまり本当の父親は、晴翔が生まれて間もなく、交通事故で亡くなったのだという。最愛の夫を失ったショックで、母は心を病んだ。笑うことも、泣くこともできなくなり、日に日に大きくなる私たちをどう愛せばいいのか分からなくなった。自分の存在が、子供たちを傷つけている。そう思い詰めた彼女は、高名な心理学者であった今の『父親役』の男に助けを求めた。
彼が提案したのが、この『役割くじ』という常軌を逸したセラピーだった。「家族」という固定された関係性が彼女を苦しめるのなら、その関係性を毎日リセットしてしまえばいい。血縁や過去の記憶という呪縛から解放され、誰もが自由な役割を演じることで、傷ついた心は癒やされるはずだ、と。
今の『母親役』の女性は、彼の助手を務めるセラピストだった。つまり、この家にいたのは、心に傷を負った実の子供二人と、その子供たちを救うために「偽りの家族」を演じ続けた、二人の他人。
「ごめんなさい……ごめんなさい、美月、晴翔」。本当の母は、その場に崩れ落ちて泣いた。「私は、あなたたちから母親であることから逃げたの。でも、もう逃げたくない。もう一度、あなたたちの本当の母親になりたい」
世界が、音を立てて崩れていく。今まで信じてきた家族の温もりも、交わした言葉も、すべては巧妙に仕組まれた治療の一環だった。偽りの愛情、偽りの日常。私は、怒りと悲しみと、そしてほんの少しの安堵が入り混じった、名状しがたい感情の渦に飲み込まれていた。
第四章 名前のないくじ
リビングは、重い沈黙に支配されていた。泣きじゃくる実の母。苦渋の表情で佇む二人のセラピスト。そして、状況が飲み込めず、ただ呆然と立ち尽くす晴翔。私は、この歪な四角関係の中心で、自分がどうすべきか分からずにいた。
血の繋がった、しかし私たちを一度捨てた母か。
偽物だったけれど、確かに愛情を注ぎ、私たちを守ってくれたセラピストたちか。
どちらかを選ぶことなど、できるはずもなかった。私の視線は、テーブルの上に置かれた桐の箱へと注がれる。この箱が、私たちのすべてを規定してきた。私たちの喜びも、悲しみも、すべてはこの箱の中から生まれてきたのだ。
私は静かに立ち上がると、箱に歩み寄った。そして、中に残っていた役割くじを全て取り出し、破り捨てた。『父親役』も『母親役』も、もう必要ない。
「もう、おしまいにしましょう」
私の言葉に、全員が顔を上げた。私はセラピストの二人に向き直る。
「今まで、ありがとうございました」。深く、頭を下げた。「あなたたちが演じてくれた『家族』に、私たちは何度も救われました。それは、嘘じゃなかったと思います」
彼らの目には、驚きと、そして安堵のような色が浮かんでいた。彼らもまた、この終わらない演劇の中で、救いを求めていたのかもしれない。
次に、私は実の母の手を取った。その手は、冷たく、震えていた。
「お母さん。すぐには無理かもしれない。私たちは、お互いのことを何も知らない。だから、これから始めましょう。焦らなくていいから」
最後に、私は晴翔の肩を抱いた。彼は不安そうに私を見上げている。
「大丈夫だよ、晴翔。これからは、誰も何も演じなくていいんだ。晴翔は、晴翔のままでいい」
私はテーブルの上から、新しい紙とペンを取った。そして、一枚の紙片に、はっきりとした文字でこう書いた。
『美月』
それを、自分の胸にそっと当てる。これが、私の役割。他の誰でもない、私自身でいること。
「みんなも、自分の名前を書いて」
私の提案に、皆は一瞬戸惑ったようだったが、やがて一人、また一人とペンを手に取った。実の母が『小百合』と書き、セラピストたちが『健一』『容子』と書く。最後に、晴翔が少し拙い字で『晴翔』と書いた。
テーブルの上には、五つの名前が並んだ。それは、血の繋がりや、社会的役割を示す記号ではない。ただ、そこに存在する、かけがえのない個人の名前だった。
これから私たちの関係がどうなるのかは分からない。もしかしたら、本当の家族にはなれないのかもしれない。けれど、それでいいと思えた。私たちは今、初めて同じスタートラインに立ったのだ。役割という仮面を脱ぎ捨て、不器用で、傷つきやすい素顔のままで、互いに向き合う。
窓から差し込む西日が、テーブルの上の五つの名前を優しく照らしていた。それは、とても静かで、そして希望に満ちた、新しい家族の始まりの風景だった。