第一章 偽りの家族写真
父が死んで、三年が経った。季節が三度巡る間に、父の不在は、鋭い痛みから、生活の隅に溜まる埃のような、鈍い寂しさへと変わっていた。母の頼みで、いまだ手付かずだった父の書斎を片付け始めたのは、そんな気の重い梅雨の午後だった。
本棚の奥、父が大切にしていたらしい桐の小箱を開けた瞬間、俺、水野健太の時間は凍りついた。中に入っていたのは、一枚の古びた家族写真。しかし、それは俺たちの家族写真ではなかった。
日焼けしてセピア色に傾きかけた写真には、三十代前半とおぼしき若き日の父が、満面の笑みで写っている。その隣には、見たこともない、柔和な目をした女性。そして、父の膝の上には、俺と同じくらいの歳の少年が、少しはにかみながら座っていた。背景は、見慣れない港町。三人は、まるで本当の家族のように、幸福の光に包まれている。
心臓が、冷たい手で鷲掴みにされたような衝撃が走った。父は、俺たち以外に、もう一つの家族を持っていたのか?
破天荒で、自由奔放。それが俺の父、水野徹に対する評価だった。会社員でありながら、突然「魂の洗濯だ」と嘯いて長期の休みを取り、ふらりと旅に出る。金の使い方も荒く、母とはしょっちゅう口論になっていた。俺はそんな父を、どこか軽蔑していた。真面目にコツコツと生きることこそが正しいと信じる俺にとって、父は理解しがたい、無責任な人間だった。
この写真は、その無責任さの、決定的な証拠のように思えた。父の「旅」は、この女と子供に会うための、偽りの口実だったのではないか。母と俺を裏切り、もう一つの家庭で安らぎを得ていたのではないか。写真の裏には、震えるような筆跡で『海鳴町にて』とだけ記されていた。
じっとりとした湿気が肌にまとわりつく。窓の外では、雨がアスファルトを叩く音が続いていた。俺は、その写真を強く握りしめた。父が遺した最大の謎、そして裏切りの証拠を、この手で暴いてやろうと心に決めた。それは、父への怒りなのか、あるいは見知らぬ少年への嫉妬なのか、自分でも判然としない、黒く渦巻く感情に突き動かされてのことだった。
第二章 海鳴町の影
有給休暇を申請した俺を、上司は訝しげな顔で見ていた。だが、構うものか。俺は新幹線とローカル線を乗り継ぎ、写真の裏にあった「海鳴町」へと向かった。
車窓から見える景色が、都会のビル群から、緑深い山々へ、そして寂れた漁港へと変わっていく。潮の香りが、開けた窓から微かに流れ込んできた。海鳴町は、俺の想像以上にひなびた場所だった。錆びついたトタン屋根の家々が肩を寄せ合い、路地裏を野良猫が悠然と横切っていく。平日の昼間だというのに、人影はまばらだった。
写真の背景に写っていた灯台を手がかりに、港を歩き回った。日差しを浴びてきらめく海面とは対照的に、町の空気はどこか停滞している。何人かの年配の漁師に写真を見せ、父のことを尋ねてみたが、誰も首を横に振るばかりだった。焦りと徒労感が募り始めた頃、一人の老婆が、皺だらけの指で写真を指さした。
「ああ、この人は……徹さんじゃないかね。それに、サチさんと……湊くんだ」
老婆は、港で小さな乾物屋を営んでいた。彼女の話によれば、父・徹は、二十年以上も前、この町に頻繁に顔を見せていたという。そして、写真の女性は「サチさん」こと、幸子さん。彼女は『食堂かもめ』という小さな店を切り盛りしていたそうだ。
「サチさんは、若くしてご主人を海の事故で亡くしてね。赤ん坊だった湊くんを一人で育てて、そりゃあ大変だったよ。徹さんは、そんな親子を、弟みたいに、いや、それ以上に気にかけていたねぇ」
食堂かもめ。その名前を聞いて、記憶の扉が軋みながら開いた。幼い頃、父が時折、溜息混じりに「かもめの飯が食いたいなぁ」と呟いていたのを思い出した。俺はてっきり、どこかの有名な店の話だと思っていた。
老婆に教えられた場所へ向かうと、『食堂かもめ』は、シャッターが固く下ろされ、看板の文字も掠れて消えかかっていた。サチさんは十年ほど前に病で亡くなり、店もその時に閉めたのだという。
やはり、父とサチさんは、特別な関係だったのだ。父の不可解な行動の数々は、すべてこの町に繋がっていた。母を欺き、この場所で別の人生を生きていたのだ。確信に似た黒い感情が、胸の中で一層大きく膨れ上がっていく。俺は、サチさんの息子だという「湊」という男に会うことに決めた。父の裏切りを、その息子に直接突きつけ、そして断罪してやりたかった。
第三章 親友の約束
湊という男は、意外なほど簡単に見つかった。彼は町の小さな造船所で働いていた。俺が訪ねていくと、油と潮の匂いが混じった作業着姿の男が、ぶっきらぼうな顔でこちらを向いた。写真の面影が色濃く残る、日に焼けた精悍な顔つき。俺と、同い年のはずの男。水野湊だ。
「水野健太です。東京から来ました」
俺が名乗ると、湊の目がわずかに見開かれた。彼を作業小屋に連れて行かれ、錆びたパイプ椅子に腰掛ける。向かいに座った湊は、黙って俺の言葉を待っていた。俺は懐から例の写真を取り出し、机の上に滑らせた。
「これは、あんたの母親と、俺の親父だな。どういうことなのか、説明してもらいたい」
声が、自分でも驚くほど冷たく響いた。湊は写真に視線を落とし、それから俺の顔をじっと見つめた。その瞳に、憎しみや敵意はなかった。ただ、深い悲しみが湛えられているように見えた。
「……徹さんには、世話になった」
湊は、ぽつり、ぽつりと語り始めた。彼の話は、俺が築き上げてきた父への疑念を、根底から覆すものだった。
「あんたの親父さんは、俺の親父じゃねえ。俺の親父の、たった一人の親友だった」
湊の実の父親は、徹と同じ会社に勤める同期で、無二の親友だったという。二人は学生時代から兄弟のように育ち、互いの家族ぐるみで付き合いがあった。しかし、湊が生まれて間もなく、湊の父親は、この海鳴町に帰省中、嵐の海で漁船の救助に向かい、帰らぬ人となった。
「親友が死んで、残された母さんと俺を、徹さんは放っておけなかったんだ。自分の給料から、毎月、生活費を送ってくれた。休みが取れれば、わざわざこんな辺鄙な町まで来て、キャッチボールをしてくれたり、壊れた雨どいを直してくれたりした。父親のいない俺にとって、徹さんは……もう一人の親父みたいなもんだった」
写真が撮られたのは、湊の七五三の日だった。父親の代わりに、徹が神社に付き添ってくれたのだという。サ-チさんは、徹のその申し出に、何度も何度も頭を下げて泣いていたそうだ。
「徹さんは、いつもあんたの話をしていたよ」と湊は言った。「『うちの健太は、俺に似ず真面目で、自慢の息子なんだ』って。あんたが大学に合格した時なんて、まるで自分のことみてえに喜んで、この町で一番高い酒を開けてた」
俺が「破天荒」「自分勝手」と断じていた父の行動。それは、亡き親友との約束を守るためだった。謎の出張も、不透明な金の流れも、すべてはこの海鳴町で、もう一つの「家族」を守るために費やされていたのだ。父は、俺たちを裏切っていたのではない。誰にも打ち明けることなく、たった一人で、重すぎる約束を背負い続けていたのだ。
頭を鈍器で殴られたような衝撃。足元から、世界が崩れていく感覚。俺が今まで抱いてきた父への不信感や軽蔑は、何と浅はかで、身勝手なものだったのだろう。父の不器用な優しさと、その背中が背負っていたものの重さを、俺は今、初めて知った。目頭が熱くなり、視界が滲んだ。湊の前で、俺は声を上げて泣いていた。
第四章 二つの写真
東京への帰り道、俺はほとんど何も考えられなかった。ただ、車窓を流れる景色を眺めながら、父の顔を、湊の顔を、交互に思い出していた。
自宅のドアを開けると、母が「おかえりなさい」と穏やかな顔で迎えてくれた。その顔を見ると、堰を切ったように、海鳴町での出来事をすべて話してしまった。父が親友との約束を守り続けていたこと、湊という青年がいたこと、そして、自分がどれだけ父を誤解していたかということ。
すべてを聞き終えた母は、驚くでもなく、怒るでもなく、ただ静かに微笑んだ。そして、カップに注いだお茶を俺の前に置きながら、こう言った。
「知ってたわよ。全部じゃないけれど、徹さんが、海鳴町の大切な人たちを、ずっと見守っていたことは」
母は、父が遺した古い通帳を見せてくれた。そこには、毎月決まった額が「カモメ」という名義で引き落とされていた。
「あなたのお父さんは、不器用で、口下手な人だったから。大切なことは、誰にも言わずに、一人で抱え込んでしまうの。でもね、そういう人なのよ。それが、私が愛した水野徹という男だから」
母は、父のすべてを理解し、その重荷を、黙って分かち合っていたのだ。俺が知らなかった両親の間に流れる、深く、静かな絆。俺は、自分が家族のほんの一部しか見ていなかったことを、改めて思い知らされた。
書斎に戻り、机の上に、海鳴町から持ち帰った写真を置いた。若き日の父と、サチさん、そして湊少年が笑う、温かな一枚。その隣に、俺と両親が写った、色褪せた家族写真を並べた。
二つの写真は、血の繋がりや、戸籍といった形式を超えて、父がその人生で築き上げた、大きな「家族」の証のように見えた。一つは、俺が育った家族。もう一つは、父が命懸けで守ろうとした家族。どちらも、紛れもなく父の愛した「家族」だったのだ。
窓を開けると、都会の喧騒に混じって、ふと、遠い潮の香りがしたような気がした。空の向こうで、海が鳴っている。それは、父が奏でた、不器用で、しかしどこまでも優しい、家族のアンサンブルなのかもしれない。俺は二枚の写真をそっと撫で、心の中で呟いた。
「親父、あんたは、俺の誇りだよ」
その言葉は、きっと、風に乗って父の元へ届いただろう。