アークトゥルスの地図職人

アークトゥルスの地図職人

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第一章 墨と羊皮紙の檻

カイの世界は、インクの匂いと、乾いた羊皮紙が立てる微かな音で満たされていた。王都の片隅にある地図製作工房『世界の果て亭』。それが彼の世界のすべてだった。師であるエリオットから受け継いだ精密な筆致で、既知の大陸の海岸線をなぞり、山脈に陰影をつけ、河川に生命を吹き込む。それがカイの仕事であり、誇りだった。

「地図とは、世界の真実を写し取る鏡だ。そこに想像の入り込む余地はない」。師の言葉は、カイにとって絶対の教義だった。カイは、世界のすべてがすでに発見され、計測され、この工房にある羊皮紙の上に描き尽くされていると信じていた。冒険とは、過去の英雄たちが残した、色褪せた物語の中にのみ存在する言葉だった。

その日、工房の扉が軋み、古びた旅人のマントを羽織った老人が入ってきた。乾いた風が、工房に澱むインクの匂いを一瞬だけかき乱す。老人の顔には、まるで地図そのもののように深い皺が刻まれていた。

「エリオットはいるかな」

しゃがれた声だった。師はすでに五年前に他界している。カイがそう告げると、老人は寂しそうに目を伏せ、懐から一枚の羊皮紙の断片を取り出した。それは、カイが今まで見たこともない、奇妙な光沢を放つ紙だった。

「これを、あんたに」

老人が差し出した断片には、信じがたいものが描かれていた。世界の東の果て、『終焉の大瀑布』と呼ばれる巨大な滝。そこは、既知の世界の終わりであり、すべての地図がそこで終わっている。しかし、老人の地図には、その滝の『向こう側』が描かれていたのだ。天には見慣れぬ星座が輝き、大地には青白く発光する植物が群生している。

「馬鹿な……。滝の向こうに世界など存在しない。それに、この星の配置は、どの天文図にも記されていない」

カイの声は震えていた。彼の信じる世界の秩序が、目の前の小さな紙切れによって根底から揺さぶられていた。

「我々が知る天動説も地動説も、すべては一部分の真実でしかない。夜空に輝く星々が、本当に我々の頭上にあると、なぜ言い切れる?」

老人は謎めいた言葉を紡ぐと、カイの手に断片を押し付けた。「あんたの師は、知りすぎてしまった。そして、檻の中に留まることを選んだ。だが、あんたの目にはまだ、真実を探す光が残っているようだ」

老人はそう言い残すと、一陣の風のように工房から去っていった。カイの掌には、ありえない世界の断片と、彼の心を乱す重い問いだけが残された。インクと羊皮紙で築かれた彼の安穏とした檻は、音を立てて崩れ始めていた。

第二章 地図にない道

カイの旅立ちは、静かな反逆だった。工房に残されたすべての地図を背に、師の墓にだけ別れを告げ、彼は東を目指した。老人の地図の断片が、コンパスの針のように彼の心を北極星へと向けさせていた。既知の道を辿る旅は、カイにとって苦痛ではなかった。地図に記された通りの宿場町、地図に記された通りの森。すべてが彼の知識と一致することに、彼は安堵すら覚えていた。

だが、旅が半ばを過ぎた頃、カイは一人の女に出会った。リナと名乗る彼女は、太陽で灼かれた肌と、何物にも縛られない風のような笑い声を持っていた。彼女は楽器を奏で、物語を語り、その日の寝床とその日の糧を得て旅をする、根無し草の吟遊詩人だった。

「あんたの旅は、まるで塗り絵ね。決められた線をなぞるだけ。ちっとも面白くない」

リナは、カイが食事のたびに地図を広げ、現在地を確認するのを面白そうに眺めては、そう言ってからかった。

「道に迷わぬことこそ、旅人の務めだ。正確さこそが真実への最短距離だ」

カイはむきになって反論したが、リナは肩をすくめるだけだった。

ある日、彼らが越えようとしていた山道が、土砂崩れで塞がれていた。地図には、迂回路など記されていない。途方に暮れるカイを尻目に、リナは鼻歌交じりに、道なき斜面を指さした。

「ほら、あっちに獣道がある。地図にはないけど、きっと山の向こうに抜けられるわ」

「危険すぎる。何があるか分からない」

「分からないから行くのよ。それが冒険でしょう?」

リナは軽やかに斜面を登り始めた。カイはしばらく躊躇したが、彼女を一人で行かせることもできず、渋々後を追った。

その道は、確かに危険だった。足場は悪く、見知らぬ鳥の鳴き声が不気味に響いた。しかし、カイは生まれて初めて、地図に描かれていない風景を目にした。崖の途中に咲く、水晶のようにきらめく小さな花。谷底を流れる、エメラルド色に輝く川。そして、山の頂から見渡した、どこまでも続く雲海。それは、羊皮紙の上では決して感じることのできない、圧倒的な世界の息吹だった。

「どう? 悪くないでしょう、地図にない道も」

息を切らしながら隣に座るカイに、リナが微笑んだ。カイは何も答えられなかった。彼の内側で、固く閉ざされていた扉が、少しだけ開いたような気がした。正確さだけが真実ではないのかもしれない。この世界の美しさは、計測できない場所にこそ、隠されているのかもしれない。カイは初めて、自分の持つ地図に、小さな疑いの目を向け始めていた。

第三章 大瀑布の嘘

幾多の困難を乗り越え、カイとリナはついに『終焉の大瀑布』に辿り着いた。その光景は、カイの想像を絶していた。大地が裂け、世界のすべてがそこに流れ込んでいるかのような、轟音と水煙。天を突くほどの高さから流れ落ちる水のカーテンは、まさに世界の終わりを告げるにふさわしい絶景だった。

「ここまでか……」

カイは膝から崩れ落ちた。老人の地図は、やはり狂人の戯言だったのか。滝の向こうになど、道はない。あるのは、無限に広がる虚空だけだ。

その夜、焚き火の前でカイは黙り込んでいた。リナが慰めの言葉を探していると、カイはふと、空を見上げた。満天の星が、まるで宝石を撒き散らしたように輝いている。彼は懐から老人の地図の断片を取り出した。そこに描かれた、見慣れぬ星座。

「この星……」

カイはハッとして、滝の方へ駆け出した。滝壺に映る星空。水面の揺らぎの中で、星々は歪み、形を変える。だが、ある一点だけ、滝の水しぶきが月光を反射し、まるで星のように輝いている場所があった。老人の地図に描かれた星座は、夜空の星ではなく、この滝そのものが描く光の印だったのだ。

「リナ! こっちだ!」

カイとリナは、星の印が示す滝の裏側へと進んだ。轟音の中、濡れた岩肌を伝い、彼らは水のカーテンの向こうに隠された洞窟の入り口を発見した。

洞窟の奥は、人工的な回廊になっていた。壁には奇妙な紋様が刻まれ、仄かな光を放っている。そして、回廊を抜けた先で、彼らは息を呑んだ。

そこに広がっていたのは、巨大なドーム状の空間だった。中央には、ゆっくりと回転する巨大な天球儀。天井には無数の水晶体が埋め込まれ、星空や雲、太陽の光をドームの外壁、つまりカイたちが『空』と信じていたものに投影していた。そして、大瀑布の正体は、この巨大な装置に水を供給し、循環させるための給水システムに過ぎなかった。

「ようこそ、世界の真実へ」

静かな声が響いた。闇の中から現れたのは、白いローブをまとった数人の人々。そして、その中心に立っていたのは、死んだはずのカイの師、エリオットだった。

「師匠……!?」

「驚いたかね、カイ。お前がここまでたどり着くとは」

エリオットは静かに語り始めた。この世界は、遥か昔、大厄災によって荒廃した外界から人々を守るために作られた、巨大な箱庭(シェルター)なのだと。空も、星も、すべてはこの装置が作り出した偽物。そして、地図製作者とは、人々に「世界の果て」という偽りの概念を信じさせ、この箱庭の秩序と平和を維持するための『管理者』の一族だったのだと。

「我々が描く地図こそが、この世界を守る最大の防壁なのだ。それは嘘ではない。秩序のための、聖なる約束事だ」

カイの世界が、音を立てて完全に崩壊した。彼が信じ、誇りとしてきたすべてが、壮大な嘘の上に成り立っていた。正確であるべき地図こそが、人々を欺くための最大の道具だった。彼の冒険の目的は、最初から存在しなかったのだ。カイは、自分がただ、巨大な檻の中で描かれた地図の上を歩かされていただけの、哀れな駒であったことを悟った。

第四章 空白のコンパス

絶望がカイの全身を支配した。エリオットは、そんな彼に優しく語りかけた。

「お前も我々の一員となれ、カイ。真実を知り、この偽りの平和を守る側になるのだ。ここには安定がある。知識がある。お前が愛した地図の世界の、すべてがある」

それは、かつてのカイが望んだであろうすべてだった。だが、彼の脳裏に浮かんだのは、リナと越えた名もなき山の頂から見た雲海であり、崖に咲いていた水晶の花だった。地図にはない道を進むときの、あの胸の高鳴りだった。

「嫌です」

カイの声は、小さく、しかし揺るぎなかった。

「僕は……僕はもう、描かれた地図の上を歩くことはできない」

彼はエリオットに向き直った。「師匠、あなたは正しいのかもしれない。この平和は尊いものなのでしょう。でも、僕は知ってしまった。偽りの空の下で安穏と暮らすより、たとえ荒野であっても、本物の空が見たい。本物の風に吹かれたいんです」

カイは背負っていた古い地図の束を床に置いた。そして、懐から新しい羊皮紙を一枚取り出すと、震える手でインクをつけた。彼は、このドーム状の世界の見取り図を描き始めた。そして、その外側に、果てしない空白の空間を描き加えた。

「これが、僕の新しい地図です。まだ何も描かれていない、真実を探すための地図です」

エリオットは何も言わず、ただ悲しげにカイを見つめていた。リナが、そっとカイの手に触れた。

「あんた、いい顔になったじゃない」

彼女は悪戯っぽく笑った。

ドームの出口で、カイはリナと向き合った。

「僕は行くよ。この世界の、本当の果てを探しに。そして、いつかこの世界の本当の姿を地図に描いてみせる」

「私は、私の旅を続けるわ。あんたの物語が、いつか私の歌になるのを楽しみにしてる」

リナはそう言うと、カイの頬に軽くキスをして、来た道を楽しげに引き返していった。彼女には彼女の冒険があるのだ。

カイは一人、未知へと続く扉の前に立った。この先に何が待っているのか、想像もつかない。かつての世界を滅ぼした大厄災の痕跡か、それとも想像もしない新しい世界か。掌の中の、空白だらけの地図が、まるで生きているかのように微かに震えている。それは不安の震えであり、希望の震えでもあった。

彼は、一歩、踏み出した。

彼の冒険は、終わったのではない。偽りの地図を捨て、空白のコンパスを手にした今、本当の意味で始まったのだ。彼の足跡が、未来の誰かのための、最初の道標となることを信じて。

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