リグレッション・ウォーカー

リグレッション・ウォーカー

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第一章 背中の景色

世界がいつからこうなってしまったのか、リヒトは知らない。物心ついた時から、人々は皆、後ろ向きに歩いていた。

「逆行症」と呼ばれる奇妙な呪いが、この世界を支配していた。前を向いて進もうとすると、まるで見えない壁に阻まれるかのように、体が鉛のように重くなり、やがて完全に動かなくなるのだ。だから、誰もが目的地に背を向け、過去へと歩を進めるようにして未来へと移動する。街の角には衝突を避けるための反射鏡がそこかしこに設置され、人々は振り返り、肩越しに自分の進むべき道を確認しながら、ぎこちなく生きていた。視線は常に、自分が通り過ぎてきた風景に向けられている。

リヒトもその一人だった。彼は古い書物の修復師として、アトリエに籠もる日々を送っていた。窓から見えるのは、誰もが背中を向けて行き交う灰色の街並み。人々は未来を見つめることをやめ、過ぎ去った過去の残像だけを追いかけているように見えた。リヒト自身、それでいいと思っていた。未来など、見たいとも思わなかった。彼の心には、幼い頃に失った父の記憶が、癒えない傷として深く刻み込まれていたからだ。

父は画家だった。逆行症が蔓延し始めた頃、父はこの世界の異変に深く心を痛め、「世界の歪みを正す旅に出る」と言い残して家を出た。そして、二度と帰ってはこなかった。母から聞かされたのは、父もまた、逆行症によって旅の途中で動けなくなり、朽ち果てたのだということだった。

ある雨の日、リヒトは父の遺品を整理する中で、古びた革の筒を見つけた。中から現れたのは、一枚の羊皮紙。それは、未完の地図だった。大陸の東の果て、「始まりの地」と呼ばれる場所が円で示されているだけで、そこへ至る道筋は一切描かれていない。ただ、地図の隅に、父の震えるような筆跡でこう記されていた。

『道は足元にあらず。空の音を聴け』

空の音。意味の分からない言葉だった。しかし、その言葉はリヒトの心の澱んだ水面に、小さな波紋を広げた。父は一体、何を探していたのか。この地図は何を意味するのか。未来を見ることを恐れ、過去に縛られて生きてきたリヒトの中で、初めて「知りたい」という小さな炎が灯った。それは、冒険への衝動というにはあまりに弱々しく、むしろ過去への問いかけに近いものだった。

彼は修復道具を鞄に詰め、食料と水を用意した。そして、父の未完の地図を胸に、アトリエの扉を開ける。振り返り、肩越しに、自分がこれから進むべき見知らぬ道を見据える。リヒトの、すべてが後退りで行われる、奇妙な冒険が始まろうとしていた。

第二章 空の音階

後ろ向きの旅は、想像を絶する困難を伴った。平坦な道でさえ、常に背後の気配と足元の感触に神経を集中させなければならない。リヒトは何度もつまずき、転び、そのたびに立ち上がって、再び背中で世界と向き合った。

父の言葉、「空の音を聴け」が唯一の道しるべだった。初めは何も聞こえなかった。街の喧騒、人々の囁き、自分の荒い息遣い。だが、街を離れ、広大な平原に出た時、リヒトは初めてそれを聴いた。

風が草の海を撫でる音は、低く長く続くヴィオラのようだった。そびえ立つ岩山に風がぶつかり、複雑に反響する音は、いくつもの管楽器が奏でる和音に聞こえた。彼は目を閉じ、聴覚を研ぎ澄ませた。すると、雲が流れる微かな摩擦音、大気が震える音、遠くの鳥の羽ばたきが、一つの巨大なオーケストラのように響き渡るのを感じた。世界は音で満ちていた。そして、その音には、進むべき方向を示す、微かな「音階」があった。より高く、澄んだ音が響く方へ。リヒトは、まるで音のコンパスに導かれるように、一歩、また一歩と後退りを続けた。

旅の途中、朽ちかけた宿場町で、彼は一人の老婆と出会った。エマと名乗るその老婆は、深い皺の刻まれた顔に、この世界では珍しいほど穏やかな眼差しを宿していた。彼女もまた、一人で「始まりの地」を目指しているという。

「あんたさんも、探しものかい」

焚き火を囲みながら、エマが尋ねた。リヒトは父の地図のことを話した。

「空の音、かい。懐かしい言葉だね」エマは遠い目をして言った。「昔はね、みんな前を向いて歩いていたんだよ。未来に希望を抱いて、胸を張ってね。あの頃は、空の音なんて誰も気にしちゃいなかった。自分の心に響く希望の歌があったからさ」

エマの語る「前の世界」は、リヒトにとっておとぎ話のようだった。前を向いて歩く。それは一体どんな感覚なのだろう。希望の歌とは、どんな旋律なのだろう。

「わしはね、失くしたものを取り戻しに来たんだ」エマは静かに続けた。「この世界から、たった一つだけ、決定的に失われてしまったものをね」

彼女の言葉は、リヒトの心に深く突き刺さった。自分は父の過去を追っているだけだ。失われたものを取り戻すなど、考えたこともなかった。エマとの出会いは、リヒトの旅に新たな意味を与え始めていた。彼はただ後退りしているのではない。エマという、失われた時代を知る者と共に、世界の謎の中心へと向かっているのだ。二人は言葉少なに、しかし確かな絆を感じながら、空の音階が最も高く響く場所を目指して、背中合わせで旅を続けた。

第三章 始まりの地の不協和音

幾多の山を越え、乾いた谷を渡り、二人はついに「始まりの地」にたどり着いた。そこは、巨大な隕石が衝突したかのような、広大なクレーターだった。荒涼とした大地の中心に、天を突くように、黒水晶でできた巨大な塔がそびえ立っていた。

塔に近づくにつれて、「空の音」は変化した。それはもはや美しいオーケストラではなかった。調和は失われ、耳を찢くような甲高い音と、腹の底に響く不快な低音が混じり合った、狂気の不協和音と化していた。まるで、世界そのものが悲鳴を上げているかのようだった。

塔の入り口は、巨大な一枚岩で塞がれていたが、エマがそっと岩肌に触れると、古代の機械が作動するような音を立てて、ゆっくりと開いた。内部は空洞で、壁一面に青白い光を放つ紋様が脈打っている。そして、その中央に、父の物らしき、ぼろぼろになった革の日誌が落ちていた。

リヒトは震える手でそれを拾い、ページをめくった。そこに綴られていたのは、彼の想像を絶する真実だった。

『逆行症は病ではない。呪いでもない。これは、我々人類が自ら作り出した、罰だ』

日誌によれば、父は科学者であり、この塔の建設に関わっていたという。この塔は「クロノス・アイ」と呼ばれる、未来予知装置だった。戦争、飢餓、災害。悲劇的な未来を回避するため、人類はクロノSス・アイを使って未来を観測し、制御しようとした。しかし、装置は暴走した。

『我々は未来を知りすぎた。その結果、クロノス・アイは人類の意識そのものに干渉し始めた。未来へ向かうという「意志」を、可能性そのものを奪い去ったのだ。人々が前を向けなくなったのは、その意識の先に「確定された絶望」しか見えなくなったからだ。装置は、我々を絶望から守るために、強制的に過去(背後)へと視線を向けさせている。これは、歪んだ親心なのだ』

父は、この装置を止める方法を探して旅をしていた。しかし、その途中で力尽きたのだ。リヒトは愕然とした。父は逆行症で死んだのではなかった。世界を救おうとしていたのだ。

その時、静かに日誌を読んでいたリヒトの背後で、エマが深いため息をついた。

「…すべて、わしの過ちだよ」

リヒトが振り返ると、エマは塔の中心にある巨大な水晶のコアを見つめていた。その瞳には、深い後悔と悲しみが宿っていた。

「わしが、クロノス・アイの開発責任者だった。わしが、良かれと思って、世界から未来を奪ったんだ」

その告白は、塔に響く不協和音よりも鋭く、リヒトの心を貫いた。旅の道連れだった穏やかな老婆。失われたものを取り戻すと言っていた彼女こそが、すべてを失わせた元凶だったのだ。世界の歪み、父の死、そして自分の人生。すべての元凶が、今、目の前に立っている。リヒトは言葉を失い、ただ立ち尽くすことしかできなかった。

第四章 最初の歩行者

「この装置を止める方法は、一つだけ」エマは、コアの青白い光に照らされながら、静かに言った。「誰かが、自らの意志で『前を向いて』、このコアに触れるしかない。装置は、未来へ向かう強い意志を感知すれば、その矛盾を解消するために停止するはずだ。…だが、それは、この世界の理に逆らうこと。前を向けば、体は石になる。自らを犠牲にする覚悟がなければ、誰にもできはしない」

彼女は、自らの罪を贖うために、その役目を引き受けるつもりだった。彼女がここにきた目的は、それだったのだ。

リヒトはエマの横顔を見ていた。彼女の背負ってきた罪の重さ、そして贖罪の覚悟。しかし、彼の心に渦巻いていたのは、怒りではなかった。奇妙なほどの静けさと、そして、一つの確信だった。

「違う」リヒトは言った。「あなたの役目はそれじゃない」

彼は父の日誌を閉じた。

「あなたは過去を正すためにここまで来た。でも、僕は…未来を作るために、ここに来たんだと思う」

これまで、彼は未来を見ることを恐れていた。父を奪った世界を憎み、過去の記憶の中に閉じこもっていた。しかし、この後退りの旅が、皮肉にも彼に前進することを教えてくれた。空の音を聴き、エマと語り、父の真実を知った。そのすべてが、彼の背中を押し、空っぽだったはずの未来という場所に、おぼろげな光を灯していた。

リヒトはゆっくりと、震える体で、振り返った。

世界が始まって以来、誰もが失っていた行為。

彼は、前を向いた。

瞬間、凄まじい抵抗が全身を襲う。見えない力に押し戻され、筋肉が悲鳴を上げ、骨がきしむ。まるで、全世界の過去が、彼の肩にのしかかってくるかのようだ。それでも、リヒトは歯を食いしばり、目を見開いた。

彼の目に映ったのは、青白く脈打つ、美しいコア。それは絶望の象徴などではなかった。彼には、それが新しい世界の夜明けのように見えた。

「リヒト!」

エマの悲鳴が聞こえる。だが、もうリヒトの耳には届かない。彼は、石化していく足で、最後の一歩を踏み出した。それは、後退りではない。人類にとって、最初の「前進」だった。

硬直していく指先が、コアに触れた。

閃光。

塔に響き渡っていた不協和音が、ふっと消えた。まるで緊張の糸が切れたように、世界が沈黙する。

その瞬間、世界中の人々が、足元に感じていた奇妙な抵抗が消え失せていることに気づいた。人々は恐る恐る、しかし抑えきれない好奇心に導かれるように、ゆっくりと振り返る。そして、初めて、自分の進むべき道を、未来を、その目で見た。街角の反射鏡に映っていたのは、もう自分の背中ではなかった。驚きと、戸惑いと、そして涙に濡れた、希望の表情だった。

始まりの地で、エマは動かなくなったリヒトの前にひざまずいた。彼の体は石のように冷たくなっていたが、その顔には、穏やかで、満足げな微笑みが浮かんでいた。彼は、自分の目で見た未来に、確かにたどり着いたのだ。

エマは、解放された世界で、初めて前を向いて涙を流した。それは、罪を洗い流す悔恨の涙であり、若き犠牲者への追悼の涙であり、そして、新しい時代の始まりを祝福する、感謝の涙だった。

数年後、世界は力強く復興を遂げた。人々は未来に向かって歩き、子供たちは「後ろ向き歩き」という言葉さえ知らずに育った。始まりの地には、リヒトを称える記念碑が建てられた。そこに刻まれたのは、彼の名前と、短い一文だけ。

『未来とは、振り返らずに進む勇気のことである』

人々は、彼が世界を救った英雄だからという理由だけで、彼を記憶しているのではない。彼が、絶望の時代に、たった一人で、最初に「前を向いた」人間だったからだ。朝日が昇り、人々がそれぞれの未来へと力強く歩き出す。その無数の足音は、かつてリヒトが追い求めた空の音よりも、遥かに美しく、希望に満ちた交響曲となって、新しい世界に響き渡っていた。

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