第一章 消えた星空とインクの香り
リオンの世界では、魔法は「忘れられた記憶」から紡がれた。人々が忘却の彼方に追いやった恋の詩、廃墟となった街の喧騒、あるいは名もなき兵士の最後の祈り。それらは「記憶の澱」となり、世界に沈殿する。リオンのような《記憶紡ぎ(メモリア・ウェーバー)》は、その澱を汲み上げ、編み直し、奇跡の糸として現世に呼び戻すのだ。
「兄さん、今日はどんなお話?」
ベッドの上で、リナが弱々しくも澄んだ声で尋ねた。彼女の肌は雪のように白く、その存在自体が儚い陽炎のようだった。原因不明の病が、彼女の生命力を少しずつ削り取っている。
「今日はね、遠い昔の王女様が、庭師の青年に贈った恋文の記憶だよ」
リオンは古びたインク壺を指先でなぞる。インクの微かな香りが、忘れられた想いの甘さと切なさを運んでくる。彼は集中し、意識を記憶の澱へと沈めていく。指先に集まる微かな光。それはやがて、柔らかな緑色の輝きとなり、リナの身体をそっと包み込んだ。彼女の苦痛に満ちた表情が、ほんの少しだけ和らぐ。
「…ありがとう、兄さん。少し、楽になった」
リオンは微笑んだが、その胸には小さな空洞が生まれていた。魔法の代償。それは、術者自身の記憶の喪失。強力な魔法ほど、術者にとって価値のある、鮮やかな記憶が奪われる。
その夜、リオンは窓辺に立ち、夜空を見上げた。リナが、ふと呟いた。
「ねえ、兄さん。覚えてる?昔、二人で見た流星群。たくさんの星が、まるで空の涙みたいに流れて、すごく綺麗だった」
リオンは懸命に記憶の引き出しを探った。だが、そこには何もなかった。妹と二人で夜空を見上げたという事実はある。だが、そこに流星群があったという鮮やかな光景だけが、綺麗に切り取られたように抜け落ちていた。
「…ああ、もちろんさ」
彼は嘘をついた。背中を向けたまま、拳を固く握りしめる。妹を救うためなら、どんな記憶だって惜しくはない。そう、思っていた。しかし、妹との思い出が消えていく恐怖が、冷たい蔓のように心に絡みつき始めていた。このままでは、リナを救えたとしても、自分がなぜ彼女を救いたかったのかさえ忘れてしまうのではないか。そんな言いようのない不安が、彼の最初のフックとなった。日常が、静かに、しかし確実に崩れ始めていることを、彼はまだ本当の意味では理解していなかった。
第二章 忘却の図書館と沈黙の賢者
リナの病状は、日を追うごとに悪化していた。小さな記憶から紡ぐ癒やしの魔法では、もはや進行を押しとどめることはできない。リオンは決意した。世界から忘れ去られた全ての記憶が眠るという、禁域の「忘却の図書館」へ向かうことを。そこには、世界を揺るがすほどの強力な記憶――神話の時代や、世界を一度滅ぼしかけたという「大崩壊」の記憶――が封じられているという。それを使えば、きっとリナを救えるはずだ。
忘却の図書館は、時間の流れから切り離された谷の底に、静かに佇んでいた。埃と古紙の匂いが満ちる巨大な書庫には、天井まで届く本棚が迷宮のように連なっている。一冊一冊が、誰かの失われた人生であり、忘れられた物語だった。足を踏み入れた瞬間、無数の声なき声がリオンの意識に流れ込み、彼は眩暈を覚えた。
「若造、ここは死んだ記憶の墓場だ。生者が気安く立ち入る場所じゃない」
声の主は、書庫の奥で巨大な書物を修復していた老婆だった。名をエルラという。彼女はこの図書館の唯一の司書であり、何百年もの間、記憶の墓守を続けていた。皺だらけの顔に刻まれた瞳だけが、星空のように深く、全てを見透かすようにリオンを射抜いた。
「妹を救うために、強力な記憶が必要です。どんな代償でも払います」
リオンの言葉に、エルラはインクの染みた指でページをめくりながら、静かに言った。
「代償か。お前さんは何も分かっておらん。この図書館の最も深い場所にある記憶は、世界そのものの理を歪めるほどの力を持つ。それを紡ぐということは、お前さん自身の存在の根幹を、その代償として差し出すということだ。失うのは、星空の思い出なんぞでは済まんよ」
エルラの警告は、リオンの決意を鈍らせるには至らなかった。彼は図書館に留まり、エルラの監視のもと、より深く、より古い記憶へと触れていった。彼は人々の些細な、しかし温かい記憶を紡いだ。初めてパンを焼いた少女の喜び、戦友との最後の別れの寂しさ、我が子の寝顔に落とした一筋の涙。魔法の力は増していく。しかし、代償として、彼の内なる世界は確実に蝕まれていった。好きだった果物の味を忘れ、幼い頃に恐れていたおとぎ話の怪物の名前を失い、父の顔の輪郭が曖昧になっていった。
彼の内面は、まるで虫食いの古書のように、穴だらけになっていく。それでも彼は進んだ。リナの笑顔だけを道標にして。リナを救う、その一点だけが、彼の世界のすべてだった。彼は気づいていなかった。その道標こそが、彼を最も残酷な真実へと導いていることに。
第三章 紡がれるべきではなかった真実
図書館の最深部、鉄の扉で固く閉ざされた一室に、リオンはたどり着いた。エルラは何も言わず、ただ哀れむような目で彼を見つめながら、錆びついた鍵を渡した。扉の向こうには、たった一冊だけ、黒い革で装丁された本が鎮座していた。それが、禁忌とされる「大崩壊時代の記憶」だった。
リオンは震える手で本に触れた。これを紡げば、リナは助かる。彼が失うのは、おそらく自分自身のすべてだろう。だが、構わない。リナが生きていてくれるなら。彼が覚悟を決めて記憶を汲み上げようとした、その瞬間――。
奔流が、彼の意識を飲み込んだ。
それは、力などではなかった。ただ、一つの光景。数年前の夏の日、崖の上で遊んでいた幼いリナが、足を滑らせて落下する。咄嗟に手を伸ばす自分。届かない。絶望が心臓を握り潰したその時、彼の内から何かが迸った。世界が白く染まり、時間が止まる。彼は無意識に、この世界で誰も成し得なかった魔法を使ったのだ。「妹を失いたくない」という、純粋で、あまりにも強大な願い。
その願いは、世界の理を捻じ曲げた。リナは助かった。しかし、世界は等価交換を要求する。強大すぎる奇跡の代償として、世界は「リナの存在そのもの」を少しずつ徴収し始めたのだ。
そして、リオンに流れ込んできたのは、更なる絶望的な真実だった。リオンが《記憶紡ぎ》として魔法を使うたび、その力の源泉となっていたのは、他の誰でもない、世界から忘れられていく「リナの記憶」だったのだ。彼が小さな恋文の記憶を紡いだ時、同時に世界はリナの些細な癖を一つ忘れた。彼が兵士の祈りを紡いだ時、世界はリナの笑い声を一つ忘れた。リナの病とは、彼女の存在が世界から希薄になっていく現象そのものだった。彼が妹を救おうとすればするほど、彼は妹の存在を削り取り、自らの力に変えていた。
「そうか…」
リオンは乾いた笑いを漏らした。目の前が暗くなる。エルラの言葉が蘇る。『お前さん自身の存在の根幹を、その代償として差し出す』。その意味を、彼は今、骨の髄まで理解した。彼の力の源は、妹を失うという悲劇そのもの。彼が魔法使いでいられるのは、リナが消えゆく運命にあるからだ。
彼は、妹を救うという大義名分のもと、誰よりも残酷に妹を殺し続けていたのだ。価値観が崩壊し、足元から世界が砕けていく。彼は、ただその場に崩れ落ちることしかできなかった。
第四章 君を憶えている世界
絶望の底で、リオンは二つの道を見た。一つは、このまま「大崩壊の記憶」を紡ぎ、全てを失う代償として神に等しい力を手に入れ、リナという存在を、記憶も何もない空っぽの人形として「再創造」する道。もう一つは、魔法を全て捨て、ただの人間として、消えゆく彼女の最期を看取る道。
彼は、顔を上げた。その目には、もう迷いはなかった。
彼は、禁忌の書に背を向け、図書館を後にした。エルラは何も言わず、ただ静かに頭を下げた。家に帰ると、リナは前よりもさらに透き通るように、儚くなっていた。まるで、陽光に溶けかかった淡雪のようだ。
「…おかえりなさい、兄さん」
リオンはベッドのそばに膝をつき、彼女の冷たい手を握りしめた。
「リナ、ごめん。僕はもう、魔法は使えない。君を、治してあげられない」
彼は、自らの魔法の力を、その存在の根幹から放棄した。意識の中で、力の源泉となっていた回路が焼き切れるような激痛が走る。その瞬間、彼が代償として失ってきた全ての記憶が、洪水のように彼の心へと帰ってきた。
妹と二人で見た、空いっぱいの流星群。初めて焼いてくれた、少し焦げたクッキーの甘い味。喧嘩して、一日口を利かなかった日の気まずさ。父の厳しくも優しい眼差し。母の温かいハグの感触。一つ一つが、涙が出るほど愛おしい。彼は、魔法使いではなく、ただの「リオン」に戻ったのだ。
「いいの、兄さん」リナは、穏やかに微笑んだ。「なんだか、いつもの兄さんに戻ったみたいで、嬉しい」
力を失ったことで、リナの消滅は加速した。しかし、リオンはもう絶望しなかった。彼は、残された僅かな時間、ただ彼女のそばにいた。そして、取り戻した全ての思い出を、一つ一つ、物語のように語り聞かせた。
「あのね、リナ。君は覚えてないかもしれないけど、僕たちが初めて見た流星群は…」
彼は語り続けた。リナの姿が、ゆっくりと光の粒子となって輪郭を失っていく中で。彼の声だけが、確かなものとして部屋に響いた。
語り終えた時、リナの姿はもうどこにもなかった。彼女がいたはずのシーツの上には、温もりさえ残っていない。世界は、完全に彼女を忘れた。
しかし、リオンの心の中には、リナが生きていた。以前よりもずっと鮮やかに、温かく。彼は世界でただ一人、アリアという少女を記憶する者となった。
彼はもう奇跡を起こせない。だが、愛する者の記憶を、その温もりも痛みも全て抱きしめて生きていく。それこそが、彼が永い旅路の果てに見つけた、本当の強さだった。空は青く、風は葉を揺らす。世界は何事もなかったかのように続いていく。その当たり前の風景の中で、リオンは一人、静かに微笑んだ。彼の心の中では、今も妹が笑っている。彼だけが知る、彼だけの世界で。それで、十分だった。