第一章 無影の烙印
リヒトの世界では、人の価値は地面に落ちる影の濃さで決まった。影は魔力の源泉であり、魂の器の現れだと信じられていたからだ。濃く、長く、輪郭のくっきりとした影を持つ者は、強大な魔力を操る素質を持つとされ、人々から尊敬と畏怖を集めた。
そして、リヒトには、影がほとんどなかった。
陽光が最も強く降り注ぐ真昼ですら、彼が地面に落とす影は、まるで淡い水彩絵の具を滲ませたかのような、頼りない染みでしかなかった。人々は彼を「無影(むえい)のリヒト」と呼び、侮蔑と憐憫の目を向けた。その視線は、彼の心をじりじりと焼き、自信というものを灰にしてしまった。
彼の苦しみを一層深くしたのは、兄ジークの存在だった。ジークの影は、まるで漆黒のベルベットのように深く、意志を持っているかのように蠢いた。彼は若くして王宮魔術師の地位に上り詰め、一族の誇りだった。ジークはリヒトを見るたびに、その濃い影を揺らめかせ、失望を隠そうともしなかった。
「リヒト、お前はなぜそこに『在る』のだ? 影無き者は、存在せぬも同じだというのに」
その言葉は、リヒトの胸に氷の杭のように突き刺さった。彼は何も言い返せず、ただ俯いて自分の足元にある儚い影を見つめるだけだった。どうして自分だけが。どうして兄のような、濃く力強い影を授からなかったのか。その問いは、答えのないまま彼の内で渦巻いていた。
そんな絶望の日々の中、リヒトは一縷の光を見つける。父の書斎に忍び込み、禁書とされている古文書を読み漁っていた時のことだ。埃っぽい羊皮紙の上に、彼は信じがたい記述を発見した。
『世界の果て、禁じられた森の奥深くに、月光を溜めし「影呼びの泉」あり。その水を一口飲めば、無影の者にも神々の影が宿るだろう』
心臓が大きく跳ねた。震える指でその一文を何度もなぞる。迷信かもしれない。危険な罠かもしれない。だが、リヒトにとって、それは現状という名の牢獄から抜け出すための唯一の鍵のように思えた。今のまま、存在しない者として生き続けるくらいなら、どんな危険な賭けにだって出てやる。
その夜、リヒトは誰にも告げず、小さな鞄にけちな食料と古文書の写しを詰め込んだ。窓から見上げた夜空には、兄の魔力が作り出したオーロラが輝いていた。あの光は、自分には決して届かない場所にある。だが、泉の水を手に入れれば、自分も。
彼は、己の足元に広がる、夜の闇に溶けて消えそうなほど薄い影に別れを告げ、固く決意して家を抜け出した。これが、彼の世界の全てを覆す旅の始まりになるとは、まだ知る由もなかった。
第二章 禁じられた森の囁き
禁じられた森は、その名の通り、人の立ち入りを拒絶していた。鬱蒼と茂る木々は太陽の光を遮り、昼なお暗い森の中は、濃い影を持つ魔物たちの領域だった。リヒトのような無影の若者が一人で踏み入ることなど、自殺行為に等しいと誰もが言った。
だが、不思議なことに、森はリヒトに対して敵意を見せなかった。むしろ、彼を避けているかのようだった。木々の影、岩の影、それらがまるで生き物のように蠢き、リヒトが近づくとさっと身を引くのだ。彼はその奇妙な現象に首を傾げながらも、おかげで危険な魔物に遭遇することなく、森の奥深くへと進むことができた。
旅の途中、彼は奇妙な生物に出会った。蛍のように淡い光を放つ、手のひらサイズの蟲だ。その蟲には、影がなかった。リヒトが恐る恐る手を差し出すと、光蟲は彼の指先に止まり、温かい光で彼を包んだ。その光に触れている間、心が不思議と安らいだ。まるで、初めて自分と同じ存在に出会えたような、孤独が和らぐ感覚だった。光蟲はしばらく彼と共に行動し、道に迷いそうになると、光を強くして進むべき方向を示してくれた。
しかし、森は安らぎだけを与えてくれる場所ではなかった。ある開けた場所で、リヒトは言葉を失う光景を目の当たりにする。そこには、一体の石像のように固まった魔術師がいた。その男の足元には、異常なまでに濃く、巨大な影が広がっていた。影はもはや男の形を留めておらず、無数の触手を持つ怪物のようにのたうち回り、不気味な囁き声を上げていた。
「もっと…もっとだ…我に魂を…力を…」
男の目は虚ろで、生気は感じられない。ただ、その影だけが、飽くなき渇望を叫んでいた。リヒトは背筋が凍るのを感じた。あれが、濃い影を持つ者の成れの果てだというのか? いや、あれはきっと道を誤っただけだ。自分は、あんな風にはならない。彼は自らに言い聞かせ、足早にその場を立ち去った。
数日後、古文書が示す泉の場所に、リヒトはついにたどり着いた。しかし、彼の目に飛び込んできたのは、想像していた光景とは全く異なるものだった。そこは、暗く淀んだ泉などではなかった。水晶のように澄み切った水が満たされ、底から柔らかな光が溢れ出す、神々しいほどに清らかな場所だったのだ。そして、その泉のほとりに、一人の老婆が静かに座っていた。
彼女の足元を見て、リヒトは息を呑んだ。
彼女には、影がなかった。リヒトと同じ、いや、彼以上に完璧な「無影」だった。
第三章 泉の真実
「よくぞ参った、光の子よ」
老婆は、皺の刻まれた顔に穏やかな笑みを浮かべてリヒトを迎えた。彼女の声は、泉の水音のように心に染み渡った。
「あなたが…この泉の守り人ですか? 私は、影を求めてここに来ました。この水を飲めば、私にも…」
リヒトが言い終わる前に、老婆は静かに首を振った。
「お前さんが求めておるのは、影ではない。呪いじゃ」
「呪い…? 何を言っているのです! 影は力の源、魂の証です! それがないから、私は…!」
感情的に叫ぶリヒトを、老婆は悲しげな目で見つめた。そして、世界の根幹を揺るがす真実を語り始めた。
「影は、魂の証などではない。あれは、異次元からこの世界に忍び込んだ寄生体…我らが『蝕影(しょくえい)』と呼ぶ存在じゃ」
老婆――エルミナと名乗った――の言葉に、リヒトは思考が停止するのを感じた。
「蝕影は、人の魂に寄生し、それを喰らうことで力を得る。そして、喰らった魂の対価として、持ち主に『魔力』という名の力を与えるのじゃ。人々が信じる影の濃さとは、どれだけ蝕影に魂を深く侵食されているかを示す、ただの指標に過ぎん」
信じられなかった。信じたくなかった。父の威厳も、人々の尊敬も、そして何より、自分が焦がれてやまなかった兄ジークの強大な力も、すべては魂を喰われた代償だというのか。
「では…偉大な魔術師たちは…?」
「魂のほとんどを喰われ、もはや蝕影の意のままに動く操り人形よ。彼ら自身の意志は、とうの昔に闇の底に沈んでおる。お前の兄上も…おそらくは」
エルミナの言葉が、リヒトの世界を粉々に砕いた。憧れは、一夜にして恐怖と絶望に変わった。あの石化した魔術師の姿が脳裏に蘇る。あれは道を誤ったのではない。あれこそが、影を求めた者の必然的な結末だったのだ。
「この泉は、蝕影を呼び出す場所ではない」とエルミナは続けた。「ここは、蝕影に穢された魂を浄化するために用意された、古の聖域。そして、わらわのような『無影』の者が、その番人として代々この場所を守ってきたのじゃ」
リヒトはがくりと膝をついた。何のために、自分はここまで来たのか。コンプレックスを克服するためだったはずが、今やそのコンプレックスの対象こそが、忌むべき呪いだったと知らされたのだ。
「そんな…じゃあ、僕はずっと…間違ったものを…」
涙が頬を伝った。それは、これまでの人生を全否定された悲しみと、何も知らずに闇に手を伸ばそうとしていた自分への恐怖から来る涙だった。彼の足元では、相変わらず影は頼りなく揺れている。だが今、その薄い影が、恐ろしくも、そしてどこか誇らしくも見えた。
第四章 光を継ぐ者
「絶望することはない、子よ」
エルミナはリヒトの肩にそっと手を置いた。その手は温かく、光蟲の光と同じ安らぎがあった。
「お前さんが『無影』であることこそが、この世界の唯一の希望なのじゃ」
リヒトが顔を上げると、エルミナは力強い瞳で彼を見つめていた。
「蝕影は、光を恐れる。特に、まだ何ものにも穢されていない、純粋な魂が放つ光をな。無影の者だけが、その魂の光を武器として、蝕影を祓うことができる。森の影がお前さんを避けたのも、お前さんの中から溢れる、無自覚の光を恐れたからじゃ」
自分の最大の欠点だと思っていたものが、最大の武器だと告げられ、リヒトは混乱した。しかし、彼の心の奥底で、小さな光が灯るのを感じていた。それは、初めて自分という存在を肯定されたような、温かい光だった。
「私に…そんな力が…?」
「ある。お前さんは、生まれながらにして光を継ぐ者。わらわももう永くはない。次はお前さんが、この世界を守る番じゃ」
エルミナの言葉が、リヒトの中でゆっくりと形になっていく。劣等感に苛まれてきた日々に、初めて意味が見出された瞬間だった。俯いてばかりだった彼は、顔を上げ、背筋を伸ばした。それは、小さな、しかし確かな変化だった。
その時、森の空気が一変した。今までリヒトを避けていた影たちが、殺意を持ってざわめき始める。泉の入り口に、一つの人影が立った。
「リヒト…こんな所まで、愚かな弟を迎えに来てやったぞ」
兄、ジークだった。しかし、その姿はリヒトの知る兄ではなかった。彼の足元から伸びる漆黒の影は、もはや人の形をしておらず、巨大な怪物のようになってジークの身体に絡みついている。ジークの目は赤く輝き、その口元には、人間離れした獰猛な笑みが浮かんでいた。
「その泉の光…気に食わんな。我が『影』が、消し去れと囁いている」
その声はジークのものだったが、響きは冷たく、背後にいる「何か」の意志を感じさせた。
エルミナがリヒトの前に立ち、囁いた。
「来るべき時が来たようじゃな。お前の最初の試練じゃ。忘れるな、お前さんの武器は、魔力ではない。お前さん自身の、魂の輝きじゃ」
リヒトは、異形と化した兄を見つめた。かつてあれほど憧れ、嫉妬したその姿が、今はただ哀れで、救い出すべき対象に見えた。兄を取り戻したい。蝕影に喰われた多くの人々を、この歪んだ世界を、救いたい。
恐怖はあった。だが、それ以上に強い使命感が、彼の心を燃え立たせていた。
リヒトは、静かに一歩、前へ踏み出した。彼の身体から、これまで誰も見たことのない、淡くも力強い光が溢れ始める。それは、彼が初めて自分の存在を誇りに思った瞬間に放たれた、魂の輝きだった。
「兄さん、僕が来たよ。君を、その闇から連れ戻しに」
物語の結末は、まだ誰にもわからない。しかし、無影の烙印を押された少年は、今、世界でただ一人の光の戦士として、その運命に立ち向かおうとしていた。彼の足元にはもう、頼りない影はなかった。彼自身が、闇を照らす光となっていたからだ。