無香の調香師

無香の調香師

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第一章 沈黙の祝祭

世界は香りで満ちていた。喜びは蜜のように甘く、悲しみは雨に濡れた土の匂いがした。人々が紡ぐ魔法――香魔法(アロマ・マギア)は、想いを香りに変え、風に乗せて奇跡を運んだ。しかし、俺、リントの世界には、色がついていなかった。生まれつき、俺には嗅覚がなかったのだ。

年に一度、俺の住む村では「豊穣の祝祭」が開かれる。村一番の香魔法使い(アロマ・マギ)である長老が、秘伝の香料を焚き上げ、大地を潤す「恵みの香り」を紡ぎ出すのだ。広場の中央、巨大な香炉から立ち上る煙は、夕焼けを溶かし込んだような琥珀色にきらめき、やがて新緑の息吹を思わせる翡翠色へと変わっていく。村人たちは目を閉じ、うっとりとその芳香に身を委ね、頬を紅潮させていた。

「ああ、なんて生命力に満ちた香りだ……」

「今年も畑は豊作だな」

隣人の交わす言葉が、俺の胸を針で刺す。俺に見えるのは、ただゆらゆらと舞う色のついた煙だけ。人々が語る、焼きたてのパンのような安心感も、朝露に濡れた花びらの初々しさも、俺には理解できない。それはまるで、音のない世界で音楽を語られるような、途方もない孤独だった。

その夜も、祝祭の喧騒から逃れるように、俺は村はずれの丘に一人座っていた。眼下では、魔法の残り香が燐光のように漂い、幻想的な光景を作り出している。綺麗だとは思う。だが、それだけだ。この世界の魂とも言える「香り」を感じられない俺は、美しいガラスケースの外から、中の世界を眺めているだけの存在だった。

その時だ。

ふっと、世界から色が抜け落ちた。いや、違う。眼下の村を包んでいた燐光が、まるで蝋燭の火が吹き消されるように、一斉に消え失せたのだ。広場から、人々の混乱した声が風に乗って聞こえてくる。

「香りが……消えた?」

「どういうことだ! 恵みの香りが……!」

村中がパニックに陥る中、俺は信じられない感覚に襲われていた。静寂。完全な静寂が訪れたはずの世界で、俺の鼓膜を、いや、魂を直接震わせるような、微かな音が聞こえたのだ。それは、高く、澄んだ、鈴の音のようでありながら、どこかガラスが砕けるような悲しみを帯びた音だった。

嗅覚を持たない俺だけが、香りが死んだ瞬間の「断末魔」を聞いていた。世界が沈黙したその夜、俺の物語は、予期せぬ音色と共に幕を開けた。

第二章 世界の記憶

「香り喰い」の仕業だ、と村の誰もが噂した。世界の香りを喰らい、虚無に変えてしまうという古の災厄。長老たちは古い文献を漁り、祈りを捧げたが、失われた香りが戻ることはなかった。作物は色を失い始め、人々の顔からは活気が消えた。香りのない世界は、魂を抜かれた抜け殻のようだった。

俺は、あの夜に聞いた音のことが頭から離れなかった。あれは、ただの幻聴ではない。世界の何かが壊れた音だ。香りを取り戻す鍵は、きっとあの音にある。そして、もし香りを取り戻すことができたなら、俺もいつか、この鼻で世界を感じられるかもしれない。そんな淡い期待を胸に、俺は旅に出ることを決意した。目指すは、香魔法の源流が眠ると言われる禁じられた「沈黙の森」。

苔むした巨木が天を覆い、陽の光さえも緑色に染まる森の奥深くで、俺は一人の老人と出会った。朽ちかけた小屋に住むその男は、セージと名乗った。かつて宮廷に仕えた偉大な香魔法使いだったが、ある思想の違いから追放されたのだという。

「香りが消えた村から来た、か。そしてお主には、鼻がない。……面白い」

セージは、俺の「欠落」を一目で見抜いた。俺が事情を話すと、彼は静かに頷き、古びた蒸留器を指さした。

「リントよ、香りの正体とは何だと思う?」

「人々の想いや、自然の恵み……ですか?」

「それも一理ある。だが本質は違う。香りとはな、世界の『記憶』そのものなのだ」

セージは語った。花が咲く香りは、それが種子だった頃からの記憶。人が流す涙の塩辛い香りは、その人が経験した悲しみの記憶。世界は、無数の記憶の香りで織りなされた、巨大なタペストリーのようなものなのだと。

「お主が聞いた音は、おそらく記憶が消え去る瞬間の悲鳴だろう。香りを失うということは、世界が過去を失うということだ」

彼の言葉は、俺の中で燻っていた疑問に火をつけた。俺は、嗅覚を得る方法はないかとセージに懇願した。彼はしばらく俺の目を見つめた後、重々しく口を開いた。

「方法がないわけではない。だが、それは禁忌の調香だ。世界の根源に触れることになる。お主が求めているのは、甘い花の香りか? それとも、焼きたてのパンの香りか? もしそうなら、やめておけ。真実の世界は、お主が思うほど芳しいものではない」

セージの警告は、俺の決意を揺らがせはしなかった。知らないまま孤独でいるより、たとえどんな真実であろうと、この世界の一部になりたかった。俺は彼の指導のもと、失われた嗅覚を取り戻すための秘薬作りを始めた。月の雫を集め、夜明け前の霧を蒸留し、決して枯れることのないと言われる賢者の木の根を煎じる。それは、自分自身の存在を賭けた、静かで熾烈な調香だった。

第三章 絶望の芳香

数ヶ月後、ついに秘薬は完成した。黒曜石のように滑らかな液体が、小さな硝子瓶の中で静かに揺れている。俺は震える手で瓶を傾け、一気にそれを飲み干した。喉を焼くような熱が走り、全身の血が逆流するような感覚に襲われる。そして――。

来た。

最初に感じたのは、湿った土と腐葉土の匂いだった。セージの小屋の床の匂い。次に、古木の乾いた匂い、燻された薬草の苦い匂い。次々と、情報が鼻腔から脳へと流れ込んでくる。これが、香り。これが、俺がずっと焦がれてきた世界。

「どうだ、リント。これが世界だ」

セージの声に促され、俺は小屋の外へ一歩踏み出した。森の空気を胸いっぱいに吸い込む。しかし、その瞬間、俺は息を詰まらせ、その場に崩れ落ちた。

想像していたような、甘美な緑の香りではなかった。それは、言葉にできないほどの悪臭の奔流だった。獣たちの死骸が腐る臭い、虫に食い荒らされる草木の苦痛の臭い、弱い者を虐げる強者の傲慢な臭い。それだけではない。もっと深く、もっとおぞましい何かが混じり合っていた。大地の奥底から湧き上がるような、疲労と絶望の臭い。木々の嘆き、石の呻き。世界全体が、耐え難い苦痛の中で悲鳴を上げているようだった。

「な……んだ、これは……。祝祭の香りは、もっと……もっと甘くて、優しかったはずだ……」

混乱する俺に、セージは悲しげな目で告げた。

「それこそが、我ら香魔法使いが犯した最大の罪だ。人々が感じていた美しい香りなど、全ては偽り。我々が作り出した巨大な『幻香』で、この世界の真実の悪臭を覆い隠していたに過ぎん」

真実は残酷だった。この世界は、美しい香りで満ちてなどいなかった。むしろ、苦痛と悲しみの記憶が発する悪臭に満ちており、香魔法使いたちは、人々がその事実に気づかないよう、偽りの芳香で世界をコーティングしていただけなのだ。

「では、香り喰いとは……?」

「おそらく、この偽りの世界に絶望した者だろう。世界の苦しみを、これ以上見過ごせなくなった者……。全ての香りを消し去ることで、世界を苦しみから解放しようとしているのかもしれん」

嗅覚を得たことで、俺は世界で最も深い絶望を味わっていた。俺が焦がれた世界は、嘘で塗り固められた美しい地獄だったのだ。そして、村を襲った災厄は、世界の偽善を暴こうとする、悲しい復讐者だった。絶え間なく鼻を突く悪臭の中で、俺は自分が求めていたものが何だったのか、完全に見失っていた。

第四章 共存の調香

偽りの芳香が消え失せ、真実の悪臭に満ちた世界で、人々は心を病み、大地は力を失っていった。俺もまた、絶え間なく流れ込む負の記憶に苛まれ、狂いそうになっていた。いっそ、再び嗅覚を失ってしまいたいとさえ思った。

そんなある夜、俺は夢を見た。あの、香りが消えた夜の夢だ。完全な沈黙と無臭の世界で、あの悲しくも美しい鈴の音が響いている。なぜだろう。あの音は、絶望の音ではなかった気がする。そうだ、あの音の中には、微かな希望のような響きがあった。嗅覚がなかったからこそ、俺は偽りの香りに惑わされず、世界のありのままの「声」を聞くことができたのだ。

目が覚めた時、俺の心は決まっていた。

「香り喰い」の気配が最も強く感じられる、世界の最北端、万年雪に覆われた「嘆きの頂」へ向かった。そこにいたのは、黒いローブを纏った痩せ細った人影だった。彼が振り向くと、その顔は苦痛に歪み、瞳からは絶えず黒い涙のような香りが流れ落ちていた。

「お前にも、この世界の苦しみがわかるか」

香り喰いは、か細い声で言った。彼は、かつて世界のあらゆる記憶をその鼻で感じ取ることができた、最初の香魔法使いの成れの果てだった。世界の悲しみに耐えきれず、彼は全ての記憶=香りを消し去り、世界を無に還すことだけを望んでいた。

「あんたの気持ちは、痛いほどわかる。この世界は、苦しすぎる」俺は、鼻を覆うこともせず、悪臭の嵐の中で答えた。「でも、間違っている」

俺は、セージの小屋で調合した、一つの香りを彼に差し出した。それは、祝祭で嗅いだような甘い香りではない。ただ、雨上がりの土の匂いと、傷ついた樹皮から滲み出る樹液の匂い、そして、俺自身の涙の塩辛い匂いを、そっと寄り添わせただけの、素朴な香りだった。

「これは……?」

「悲しみは、消せない。苦しみも、なくならない。でも、その隣に、寄り添うことはできる」

俺は、新たな香魔法を紡ぎ出した。それは、悪臭を芳香で覆い隠す魔法ではない。悲しみの香りの中にそっと希望の香りを、怒りの香りの中に静かな安らぎの香りを寄り添わせる、「共存の調香」。

俺の香りが香り喰いに届いた瞬間、彼の体から溢れ出ていた黒い絶望の香りが、ほんの少しだけ和らいだ。彼の瞳から、一筋の透明な涙が流れる。それは、何千年もの間、彼が忘れていた、純粋な悲しみの香りだった。

世界は元には戻らなかった。偽りの幸福に満ちた、美しい世界は永遠に失われた。だが、それでよかったのだ。人々は、世界の痛みを知り、他者の苦しみに鼻を背けなくなった。大地はゆっくりと、しかし確実に、自らの力で癒え始めていた。

俺は、もう特別な香りを求めることはない。ただ、風が運ぶ土の匂いや、誰かが流す涙の塩辛い香りの中に、かけがえのない世界の息吹を感じる。嗅覚を得て、俺はようやくこの世界の一員になれた。偽りの楽園ではなく、痛みを分かち合う、この不完全で、それでも愛おしい世界の、一員に。

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