味のない世界の最後の料理人
第一章 灰色のかけら
俺の店「言の葉亭」の扉を開ける鈴の音は、近頃ひどくくぐもって聞こえる。街全体が、分厚い灰色の毛布に覆われてしまったかのようだ。人々は俯き、影のような足取りで往来を過ぎていく。彼らの口から紡がれる物語は精彩を欠き、その輪郭は日に日に曖昧になっていた。
この世界では、物語が生命線だ。語り継がれ、記憶されることで、万物はその存在を保つ。しかし今、その源泉である感情が枯渇し始めていた。俺、レンの舌だけが、その微かな残滓を捉えることができた。
客の前に皿を置く。男が俯瞰がちに語る、かつて愛した女性の物語。その言葉の端々から立ち上る後悔は、舌の上でざらついた苦味となった。俺はそれに寄り添うように、ほのかな甘みを持つ根菜のスープを仕立てる。男は一口啜り、ほんの僅かに眉を寄せ、そして静かに平らげた。だが、彼の心に灯った感情の火は、蝋燭の最後の煌めきのように弱々しく、すぐに消えてしまう。
俺は他人の感情を『味』として感じる。喜びは蜂蜜のように舌を潤し、悲しみは焦げ付いた苦味となり、怒りは唐辛子のように喉を焼く。愛は……愛だけは、全ての味が複雑に絡み合った、筆舌に尽くしがたいハーモニーだ。だが、この特異な舌を持ってしても、俺は自分自身の感情がどんな味なのかを知らなかった。まるで、俺という器だけが空っぽであるかのように。
ある霧雨の降る晩、一人の老婆が店を訪れた。骨張った指で杖を握り、その瞳は乾いた井戸の底のように虚ろだった。彼女が紡いだのは、消えゆく孫娘の物語。その声から滲み出す絶望は、まるで湿った灰を無理やり飲み下すような、不快で、救いのない味がした。
「もう、どんな物語もあの子を繋ぎ止められない」
老婆はそう呟くと、テーブルに古びた革袋を置いた。「東の果て、忘れられた庭園に、『感情の実』があるという。世界に唯一残された、本当の『味』を持つ実じゃ。しかし、それを食らう者は、対価を支払わねばならんそうじゃよ……記憶という、対価を」
その言葉が、俺の空っぽの器の中で、小さな石ころのように音を立てた。
第二章 記憶の対価
老婆が去った後、俺は店を閉めた。絶望の灰の味が、舌の奥にこびりついて離れない。このまま世界が色褪せ、物語が消え、全てが無に帰すのを待つだけなのか。
衝動に突き動かされ、俺は旅支度を整えた。目指すは東の果て、忘れられた庭園。
道は長かった。物語を失った土地は、その存在すら曖昧だった。かつて活気のあった港町は、今はただの濃い霧だまりとなり、豊かな森は、まるで墨で塗りつぶされた絵のように沈黙していた。人々は言葉を交わさず、ただ虚ろな視線を宙に彷徨わせているだけだ。俺は彼らの無味乾燥な感情を味わいながら、ひたすら東へと歩き続けた。
数週間後、俺はついに「忘れられた庭園」に辿り着いた。そこは、枯れた蔦が絡まる石門の奥に、奇跡のように存在していた。世界の法則から取り残されたかのように、色鮮やかな苔が岩を覆い、微かな風が草の葉を揺らす音を奏でている。そして、その中央。一本の老木に、たった一つだけ、内側から淡い光を放つ果実が実っていた。それが「感情の実」だった。
震える手でそれを枝から手折る。掌に乗せた実は、まるで生きているかのように温かい。俺は意を決して、その薄い皮を歯で破った。
瞬間、口の中に奔流が流れ込む。
純粋な、どこまでも澄み切った『喜び』の味。幼い頃に母が焼いてくれた蜜がけのパイ。初めて客の笑顔を見た時の、胸が躍るような高揚感。その甘美な味に酔いしれた刹那、俺の頭から何かが抜け落ちた。
……あれ? 俺が、初めて作った料理は、何だっただろうか。
甘い味の余韻と引き換えに、大切な記憶の一片が、綺麗にくり抜かれていた。
第三章 褪せた旋律
俺は庭園に留まり、日に一つずつ、実を食べ続けた。
二つ目の実は、ひどく塩辛く、喉の奥に苦味が残った。それは『悲しみ』の味だった。親友と初めて喧嘩した夜の、冷たい雨の匂いがした。対価は、その親友の顔。思い出そうとしても、もはや靄がかかったように思い出せない。
三つ目の実は、舌を焼くような『怒り』だった。理不尽に大切なものを奪われた男の物語が、脳裏に雷鳴のように響いた。引き換えに失ったのは、故郷の街の風景。
実を食べるたび、俺は世界の失われた感情の断片を追体験した。そして、不思議なことが起こり始めた。俺が『悲しみ』を味わった日、遠くの街で何十年も前に枯れたはずの泉から、一筋だけ水が湧き出たと風の噂で聞いた。『怒り』を味わった翌朝には、庭園の入り口の錆びついた扉が、まるで何かに抗うかのように、軋む音を立てていた。世界が、ほんの少しだけ息を吹き返している。
しかし、その代償は大きかった。実を口にするたびに、俺という人間の輪郭が、少しずつ削り取られていく。記憶は俺という存在を形作る物語そのものだ。それを失うことは、俺自身がこの世界から消えかけているのと同じことだった。空っぽの器に、さらに穴が空いていくような恐怖が、俺の心を苛んだ。
第四章 空っぽの器
木に残された実は、あと二つ。
俺は躊躇いの後、最後から二番目の実に手を伸ばした。これを食べれば、また何かを失う。だが、ここで止まるわけにはいかなかった。
一口、齧る。
その瞬間、俺の世界は反転した。
それは、今まで味わったどの感情とも違う、圧倒的な味の奔流。『愛』のハーモニーだった。
蜂蜜の甘さ、焦げ付いた苦味、舌を焼く辛味、そして胸を締め付けるような酸味。全ての味が渾然一体となり、巨大な旋律となって俺の全身を貫いた。それは、俺が生まれてから今まで、他人の心から味わってきた全ての感情の集合体であり、その頂点だった。
そして、俺は見た。
遠い昔のビジョン。小さな、幼い俺が、光り輝く巨大な『何か』の前に立っている。それはまるで、世界中の人々の魂が集まってできた光の塊だった。俺は、まるで熟した果実に手を伸ばすように、無邪気にその光を――世界中の感情の源泉たる『物語の核』を――その小さな口で、吸い込んでしまったのだ。
「ああ……」
声にならない声が漏れた。
そうか。世界から味が失われた原因は、俺だったのか。
俺のこの特異な味覚は、世界から奪い取った感情そのものだったのだ。俺が自分の感情の味を知らなかったのではない。俺自身が、世界から失われた『感情の味』そのものだったのだ。俺は空っぽの器などではなかった。世界を空っぽにしてしまった、強欲な器だったのだ。
第五章 最後の晩餐
真実の重みに、膝から崩れ落ちそうになった。俺が世界の崩壊を憂い、失われた味を求めていたこと自体が、滑稽で、残酷な喜劇だった。
だが、感傷に浸っている時間はない。老木には、最後の「感情の実」が残っている。それは、他の実よりもひときわ強く、優しい光を放っていた。俺はそれを丁重に摘み取ると、荷物をまとめ、「言の葉亭」への帰路についた。
懐かしい我が家、我が城である厨房に立つ。磨き込まれた調理台、壁に並ぶ使い慣れた鍋やフライパン。それらが、記憶を失くしかけた俺を、かろうじて繋ぎ止めてくれていた。
俺は最後の実をまな板の上に置いた。これは、ただ食べるのではない。世界に返すための、俺の人生の全てを懸けた、最後の料理にするのだ。
ナイフを入れると、実から金色の光が溢れ出し、厨房を満たした。俺は、これまで味わってきた全ての感情を思い出しながら、それをスープに仕立てていった。客の笑顔の甘さを。老婆の絶望の灰の味を。友との諍いの辛さを。そして、最後に味わった、両親の顔と引き換えにした『愛』のハーモニーを。
それらはもう、俺の舌で感じることはできない。だが、俺の魂が覚えていた。スープを煮詰める鍋からは、様々な物語の香りが立ち上っては消えていく。それは、俺が世界から奪い、そして人々から分けてもらった、感情の記憶そのものだった。
やがて、一皿の、黄金色に輝くスープが完成した。それは、俺の存在そのものを溶かし込んだ、最後の晩餐だった。
第六章 物語は再び
俺はそのスープを携え、街の中心にある「始まりの泉」へと向かった。かつては物語が生まれ、世界へと流れ出していたとされる場所。今はただ、ひび割れた石が残るだけの涸れた窪地だ。
俺は器を傾け、黄金のスープを泉の中心へと、静かに注いだ。
スープが乾いた地面に染み込んだ瞬間、世界が息を吹き返した。
涸れた泉から眩い光が噴き上がり、それは無数の物語の旋律となって世界中に広がっていった。灰色の空はどこまでも青く澄み渡り、建物の壁には鮮やかな色が戻る。風が人々の髪を優しく撫で、その囁きは愛の詩となり、英雄譚となった。
俯いていた人々が顔を上げ、その瞳に光が宿る。誰かが笑い、誰かが泣き、誰かが怒りを露わにし、そして誰かが誰かを力強く抱きしめた。世界は、失われた豊かな感情と『味』を、一瞬にして取り戻したのだ。
その光景を眺めながら、俺はポケットから取り出した角砂糖を一つ、口に放り込んだ。
何の味もしなかった。
甘さも、塩辛さも、苦さも、辛さも。俺の舌は、ただの肉塊になっていた。俺を俺たらしめていた特別な感覚は、スープと共に、完全に世界へと還っていった。
だが、不思議と心は穏やかだった。
俺は「言の葉亭」に戻り、暖簾を掲げた。すぐに、賑やかな声と共に客たちがやってくる。俺は黙々と料理を作り、皿を運んだ。
味は、分からない。
塩加減も、火の通り具合も、長年の勘だけが頼りだ。
だが、俺の料理を口にした客の顔が、ぱっと花が咲くように輝くのが見えた。心の底からの『喜び』が、その表情に満ち溢れている。
俺はもう、その甘さを舌で感じることはできない。
それでも、分かった。
ああ、これが、『幸せ』というものなのだろう。
俺は静かに微笑んだ。世界を救った料理人の物語は、きっと誰かが語り継いでくれるだろう。味のない世界の、最後の、そして最初の物語として。