忘れられた空の瞬き
第一章 凍てついた街の修理屋
街は、永遠の午後を生きている。歓喜のあまり天を仰いだままのパン屋の主人。悲嘆に暮れ、石畳に膝をついた恋人たち。その表情はガラス細工のように硬質化し、降り積もる埃だけが、彼らに流れない時間の名残を刻んでいた。この世界では、感情が極みに達した者は、その瞬間の姿で永遠に固定される。人々はそれを『感情凍結(アニム・フリグス)』と呼んだ。
俺、リオの左胸には、この世界の法則に逆らうかのような傷がある。常に淡い光を漏らし、決して塞がることのない、時を遡る傷が。この傷に触れた朽ちた木材は若木の色を取り戻し、砕けたガラスは継ぎ目もなく元に戻る。人々が『感情凍結』の直前に壊してしまった思い出の品を修復すること。それが、感情の起伏が乏しく、凍結を免れた『鈍感者』である俺の生業だった。
「……また、広がっている」
古びた外套の下で、疼く胸を押さえる。呪いのように脈打つ傷は、修復の力を使うたび、ほんの僅かずつ、しかし確実にその領域を広げていた。静寂だけが支配する街で、俺は自分の心臓の音と、この傷が刻む不吉なリズムだけを聴きながら、今日も生きていた。街角に立つ、満開の姿で結晶化した桜の木を見上げる。その硬質な花びらは、風にそよぐことも、散ることもない。美しい、牢獄だった。
第二章 鳴らないオルゴールの記憶
その日、俺の仕事場であるアトリエの扉を叩く者がいた。現れたのは、大きな灰色の瞳を持つ少女だった。エマと名乗った彼女もまた、俺と同じ『鈍感者』なのだろう。その表情には、年頃の少女が持つべき華やいだ感情の色彩が欠けていた。
彼女が差し出したのは、ひび割れ、歯車が噛み合わなくなった古いオルゴールだった。
「両親のものです。二人が……凍てつく直前まで、大切にしていた」
静かな声だった。彼女の両親は、このオルゴールの音色を聴きながら、至上の幸福の中で固まってしまったのだという。
俺は黙ってオルゴールを受け取り、左胸の傷にそっと近づけた。外套の布越しに、傷が熱を帯びる。キィン、と澄んだ音が響き、オルゴールの亀裂が光の粒子となって消えていく。歯車が噛み合い、蓋がひとりでに開いた。その瞬間だった。
――温かい光景が、脳裏に流れ込んできた。優しい笑顔の男女。生まれてきた赤子を抱きしめ、愛おしげに囁きかける声。それは、このオルゴールに込められた、エマの両親の『歓喜』の記憶。俺は生まれて初めて、他人の感情の奔流に呑まれ、思わずよろめいた。
「……っ!」
「大丈夫?」
エマが心配そうに覗き込む。俺は首を振り、修復されたオルゴールを彼女に手渡した。彼女はそれを大切そうに抱きしめ、小さな声で呟いた。
「両親は、探していました。『流転の砂時計』を。この世界を、元に戻すために」
第三章 沈黙の聖堂への道標
『流転の砂時計』。それは、この世界のどこかに存在するという伝説の遺物。唯一『感情凍結』の法則に縛られず、持ち主の感情に応じて砂が色と形を変え続ける神秘の道具。エマの両親は、その砂時計に世界の謎を解く鍵があると信じていた。
彼女が広げた古い羊皮紙の地図には、震える文字で「沈黙の聖堂」という場所が記されていた。世界の中心にそびえ、最初に『感情凍結』が起こったとされる場所だ。
「父さんと母さんの研究では、砂時計はそこにある、と」
エマの灰色の瞳に、初めて微かな光が宿るのが見えた。それは希望と呼ぶにはあまりに淡く、か細い光だった。
なぜだろう。俺は、彼女のその瞳から目が離せなかった。広がり続ける胸の傷の痛みが、この旅が何かを終わらせ、そして何かを始めるだろうと告げているようだった。俺たちは、凍てついた人々が並ぶ街道を抜け、沈黙の聖堂へと向かう旅に出た。道中、怒りの表情で固まった川の流れや、驚愕の形で見開かれたままの夜の花を見た。世界は、感情の博物館だった。そして俺たちは、その中を歩く唯一の来館者だった。
第四章 流転の砂が示す真実
沈黙の聖堂は、巨大な感情の墓標のようにそびえ立っていた。内部には、祈り、嘆き、様々な表情で固まった無数の人々が、まるで彫像の森を形成していた。その中心、最も高い祭壇の上に、それはあった。
『流転の砂時計』。
黒曜石の枠に嵌められたガラスの中で、白銀の砂が静かに流れ落ちていた。俺がそれに近づくと、左胸の傷が激しく共鳴し、焼けるような痛みが走った。たまらず手をかざすと、砂時計の中の砂が渦を巻き、激しく形を変え始めた。喜びの結晶、悲しみの涙、怒りの炎。そして、俺自身の心の奥底に沈んでいた、冷たい孤独の形を映し出した。
光が溢れ、真実が奔流となって俺の意識に流れ込む。
かつて、この世界は感情の力で満ち溢れていた。しかし、その力はあまりに強大で、憎悪は大地を割り、悲嘆は終わらない雨を降らせ、世界そのものを崩壊させようとしていた。それを憂いた『最初の鈍感者たち』は、世界の調和を願い、この砂時計を使って大いなる法則を発動させた。それが『感情凍結』。感情の暴走を止めるための、苦渋の選択。
だがそれは、緩やかな世界の死を意味した。そして俺の胸の傷は、死に向かう世界が無意識に生み出した、法則への抵抗。時間を巻き戻し、世界を元の姿に戻そうとする『自浄作用』そのものだったのだ。
「そこまでだ、異端の子よ」
背後から、冷たい声が響いた。振り返ると、フードを目深にかぶった複数の人影――この聖堂を守る、鈍感者の長老たちが立っていた。
「その傷は、我らが築いた静寂を破壊する禁忌の力。世界を再び混沌に還す前に、ここで消えてもらう」
第五章 時詠みの決断
長老たちの言葉は、絶対的な静けさへの信仰に満ちていた。彼らにとって、感情は破壊と混沌の同義語であり、この凍てついた平和こそが守るべき秩序だった。俺の存在は、その秩序を根底から覆す、許されざるバグに他ならなかった。
選択を迫られる。このまま傷を放置すれば、やがて自浄作用は完了し、世界は感情を取り戻すだろう。だが、法則を巻き戻すということは、その法則が生み出した俺という存在もまた、『なかったこと』になる。消滅だ。長老たちに従えば、俺は生き長らえるかもしれない。だが、世界は色のないまま、静かに死んでいくだけだ。
ふと、隣に立つエマを見た。彼女は、長老たちを睨みつけ、泣き出すのをこらえるように唇を固く結んでいた。その灰色の瞳の奥に、揺らぎが見えた。恐怖、怒り、そして――祈り。彼女は、感情を謳歌する世界を、両親が愛した世界を、心の底から望んでいる。
俺は、オルゴールから感じた温かい『歓喜』を思い出す。それは、俺が生まれて初めて触れた、本当の意味での『生』の輝きだった。
感情のない世界なんて、壊れたオルゴールと同じだ。
音も、温もりも、何もない。
「……ありがとう、エマ。君に会えて、よかった」
俺は微笑み、自らの左胸に、右手を強く押し当てた。
第六章 忘れられた空の瞬き
「やめろ!」
長老たちの制止の声も、もう俺には届かなかった。傷は最後の楔を解き放たれたように、まばゆい光を放ち始める。体が内側から光に溶けていく感覚。痛みはない。ただ、途方もない解放感と、ほんの少しの寂しさがあった。
最後に思い出したのは、エマと出会えたことへの感謝。そして、この世界で生きてみたいと、心の底から願った、たった一度きりの自分の笑顔だった。
光が世界を包み込んだ。
時間が、凄まじい勢いで逆行していく。
凍てついていたパン屋の主人がくしゃみをし、石畳の恋人たちが立ち上がり、互いの涙を拭う。結晶化していた桜が風に花びらを散らせ、怒涛のまま固まっていた川が轟音と共に流れ出す。世界に、色と音と、温かい感情の息吹が戻ってきた。
沈黙の聖堂で、エマはゆっくりと目を開けた。目の前には、戸惑った表情の長老たちと、そして――優しく彼女を抱きしめる、父と母の姿があった。
「エマ……!」
「お父さん、お母さん……!」
エマの瞳から、大粒の涙が溢れ落ちた。それは、悲しみではなく、純粋な歓喜の涙だった。彼女の記憶から、リオという修理屋の少年の存在は、綺麗に消え去っていた。ただ、手の中には、いつの間にか完璧に修復されたオルゴールが握られていた。
その夜、両親と手をつなぎながら家路についたエマは、ふと夜空を見上げた。満天の星々の中に、ひときわ強く、けれど儚い光が一筋、瞬くのが見えた。まるで、誰かが心からの笑顔で微笑みかけたような、優しい光だった。光はすぐに消え、跡形もなかった。
彼女はその光の意味を知ることはない。けれど、なぜだろう。その一瞬の輝きが、胸の奥を不思議なほど温かくしたことだけは、ずっと忘れなかった。
世界は、再び感情の物語を紡ぎ始める。その未来に、いつかまた『凍結の危機』が訪れる運命にあることを、まだ誰も知らずに。