色彩の墓標と透明なプリズム
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色彩の墓標と透明なプリズム

第一章 無色の亡霊

雨上がりの石畳から、濡れた犬の毛皮と錆びついた鉄の臭いが立ち上っている。

アステルはフードを目深に引き下げ、逃げるように広場を早足で歩いた。だが、瞼を閉じたところで逃げ場はない。網膜に焼き付くのは、暴力的なまでに鮮やかな色彩の奔流だった。

すれ違う恋人たちの背中からは、煮詰めた蜂蜜のような黄金の粘液が垂れ流され、石段にうずくまる物乞いの老人の足元には、コールタールのごとき鉛色の澱が溜まっている。怒鳴り合う商人たちの間を飛び交うのは深紅の棘だ。それらが空間を裂き、アステルの視神経を直接紙やすりで削るように苛む。

世界は色で溢れすぎていた。

他者の腹の底で渦巻く感情が、視覚情報として強制的に流れ込んでくる。

アステルは自身の胸に手を当て、視線を落とす。そこには、何もなかった。

極彩色の世界の中で、彼だけが切り取られた空白だった。陽炎のように揺らぐ透明な輪郭。硝子細工のように中身が透けて見える、虚無の器。

(僕には、温度がない)

吐き出す息が白く凍る季節だというのに、アステルの心臓だけは冷たい水底に沈んだ石のように沈黙している。他者の激情は皮膚が爛れるほど熱いのに、自分の内側を探っても、指先が凍傷になりそうな空洞が広がるだけだ。感情の飽和と欠落。その落差に精神を引き裂かれぬよう、彼は誰もいない、死に絶えたような路地裏を選んで歩くしかなかった。

不意に、肋骨の裏側を焼かれるような熱を感じた。

懐に入れた布包みが、心臓の拍動と同期して高熱を発している。

アステルは廃教会の瓦礫の影に滑り込み、震える指で包みを解いた。

現れたのは、琥珀色の結晶片。

かつての幼馴染、リアムが遺した唯一の形見だ。

世界を満たす感情の流れを操り、奇跡を起こす代償として己を削り続けた彼が、最後に燃え尽きて残した残骸。本来なら冷たい石ころであるはずのそれが、今はアステルの指の皮を焦がすほどに熱り立っている。

瞬間、視界が裏返った。

色彩の洪水が退き、荒涼とした荒野が脳裏に広がる。

その中心に、一本の巨大な樹が聳え立っていた。

この世のどんな顔料でも描けない、純白の光で織り上げられた樹。だがその根本は、腐肉のように黒ずんだ大地に食らいつき、苦しげに明滅している。

白い樹の根元に、半身が透けたリアムが立っていた。

言葉はなかった。

彼はただ、悲しげに眉を寄せ、枯れ落ちそうな樹の幹に手を添えている。そしてゆっくりと振り返り、アステルを見つめた。その瞳は、何かを訴えるように揺れ、やがて北の空を指差した。

――行ってくれ。君なら、できる。

声にならない嘆願が、結晶の熱を通じてアステルの血管に流れ込む。

幻視はシャボン玉のように弾け、アステルは現実の冷たい石畳の上に引き戻された。

掌に残る結晶は、今も脈打っている。それは北を指す羅針盤のように、あるいは助けを求める救難信号のように、一定のリズムでアステルの掌を焦がし続けていた。

第二章 枯渇する世界

北へ向かう旅路は、緩やかな自殺を見守る葬列に似ていた。

道中で目にするのは、彩りを剥ぎ取られ、死に体となった世界の姿だった。

ある村の広場でのことだ。

かつて水を浄化していたという女性の元・感情術師(カラーリング・マスター)が、井戸の縁に寄りかかっていた。

彼女は微笑んでいた。口角は吊り上がり、慈愛に満ちた表情を貼り付けている。だが、その瞳孔はガラス玉のように開ききっていた。

「……水は、綺麗になりましたか?」

アステルが声をかけると、彼女は首だけを回してこちらを見た。

足元から膝にかけて、肉体が硬質な宝石へと変質していた。皮膚の柔らかさは失われ、関節は鉱物の塊となって癒着している。

「ええ、とても綺麗。私の『愛』をすべて注ぎましたから」

彼女が動くたび、肉と骨が軋む音ではなく、硬い石が擦れ合う音が響く。

美しいはずの宝石が、人体を侵食していく様は冒涜的だった。

「辛くは……ないのですか」

問いかけると、彼女は小首をかしげた。その拍子に、首筋の一部がピシリアと音を立てて結晶化した。

「ツライ? それは、どういう構成要素でしたか? 私にはもう、思い出せなくて」

笑顔のまま、彼女の左目から涙の代わりに小さな水晶の粒が零れ落ちた。

彼女はもう、痛覚も、恐怖も、悲哀すらも、燃料として世界に捧げ尽くしてしまったのだ。残ったのは、人間の形をした美しい鉱石の置物だけ。

アステルは胃の腑から酸っぱいものがこみ上げ、口元を覆った。

生理的な嫌悪と、出口のない絶望が喉を詰まらせる。

これが、この世界を維持するためのシステムだというのか。

懐の結晶が、警告音のように鋭く痛んだ。

北の最果て。「世界の核」と呼ばれる禁止区域。

岩肌が剥き出しになった峡谷を抜けた先、アステルは息を止めた。

幻視で見た「白く輝く樹」は、そこにあった。

だが、その光景はあまりに惨たらしかった。

樹の根元には、無数の色彩豊かな結晶が、まるでゴミの山のように積み上げられていたのだ。村で見た女性のような、かつての術師たちの成れの果て。

樹は、その死体同然の結晶から滲み出る「色」を根から貪欲に吸い上げ、辛うじて輝きを保っていた。

樹の幹には、今にも裂けそうな巨大な亀裂が走り、そこからドス黒いヘドロのような瘴気が溢れ出そうとしている。あれが決壊すれば、世界は感情の濁流に飲み込まれて終わる。

先人たちが封じた「原初の感情」。それを繋ぎ止めるために、今の人間たちは自らの心を薪としてくべ続けているのだ。

第三章 透明という名の器

アステルが足を踏み出すと、大気が震えた。

樹の亀裂が限界を迎え、赤黒い瘴気が噴出したのだ。

それは純粋な「恐怖」と「絶望」の凝縮体だった。物理的な衝撃波となってアステルを襲う。

普通の人間なら、触れた瞬間に精神が崩壊し、廃人となるほどの負の奔流。

「っ……!」

視界が血の色と闇に塗りつぶされる。

だが、痛みはなかった。

アステルは目を見開き、自分の体を見下ろした。

襲いかかった恐怖の赤も、絶望の黒も、アステルの体を素通りしていた。

まるで、空気か水の中を進むように、感情の波は彼という存在を透過して背後へ流れていく。

彼には色がない。染まるべき下地がないから、どんな色も彼を汚染できない。

『……』

不意に、目の前にリアムの幻影が立った。

彼はやはり何も語らない。だが、その瞳はアステルの胸の奥、空っぽだと思っていた空洞を見つめ、静かに微笑んだ。

リアムの手が伸び、アステルの胸に触れる。

幽霊の冷たさはなかった。代わりに、懐の琥珀色の結晶が砕け散り、その光の粉がアステルの体内に染み込んでいく。

その瞬間、アステルは理解した。

言葉による説明ではなく、肉体の感覚として悟った。

(僕は、空っぽじゃなかった)

通り過ぎていくと思っていた色彩たちが、実はアステルの体内で屈折し、混ざり合っているのを感じた。

恐怖の赤、悲哀の青、嫉妬の緑。

それらは彼というレンズを通過することで、互いに溶け合い、高め合い、一つの束になろうとしている。

透明であることは、無ではない。

あらゆる色を拒絶せず、ありのまま受け入れ、そして新たな光へと変換するための「器」だったのだ。

自分はずっと、世界から隔絶された傍観者だと思っていた。

だが違った。彼は、この世界で唯一、すべての感情を混ぜ合わせることができる特異点だったのだ。

体の中で、何かがカチリと嵌まる音がした。

恐怖はもうない。

腹の底から湧き上がるのは、使命感という名の熱。

アステルは樹の前に立った。

暴走する瘴気の風圧に髪を煽られながら、彼は両手を広げた。

今まで「見る」ことだけに特化していた神経を、すべて逆流させる。

外部から受け取るのではない。自身の内側で練り上げ、放出するイメージ。

(全部、くれてやる)

アステルは、黒く濁った亀裂に両手を突き刺した。

第四章 色彩の夜明け

瞬間、アステルの輪郭が消失した。

彼の体そのものが発光体となり、七色の閃光となって樹の内部へと注ぎ込まれた。

熱い。

血管の代わりに光が循環し、細胞の一つ一つが歓喜に震えるような感覚。

アステルの内側で、世界中から集められた色が荒れ狂う。

それを、彼というプリズムが束ねていく。

赤と緑が光となって重なり、青と黄色が溶け合い、濁流は清冽な「白」へと昇華されていく。

(これが、光……)

痛みはなかった。あるのは、自分が何者かに成ったという強烈な充足感だけ。

封印の綻びが、アステルの放つ純白の光によって縫い合わされていく。

積み上げられた結晶の山から色が吸い上げられ、アステルを通じて浄化され、樹の導管を駆け巡る。

視覚情報としての「色彩」を見る能力が、音を立てて崩れ去っていくのを感じた。

世界を覆っていた極彩色のフィルターが、薄皮を剥ぐように剥がれ落ちていく。

最後に残ったのは、リアムの琥珀色の暖かさだけだった。

それはアステルの魂の深部、誰も触れることのできなかった一番奥の部屋に、種火のようにそっと根を下ろした。

光が弾け、世界を白く染め上げる。

アステルの意識は、その輝きの中に溶けていった。

***

風が、頬を撫でる感触で目が覚めた。

土の匂い。草いきれ。遠くで鳥が鳴いている。

アステルはゆっくりと身を起こした。

そこは、先ほどまでの荒野だった。

だが、目の前の白い樹は、もはや悲痛なきしみ声を上げてはいなかった。

ただ静かに、そして力強く、大地に根を張って佇んでいる。

アステルは自分の手を見た。

ただの肌色の、血管が透けて見える人間の手だ。

空を見上げる。雲の切れ間から、柔らかな薄日が差し込んでいる。

そこには、あれほど彼を苦しめてきた「感情のオーラ」は微塵も見えなかった。

世界は、ただそこにあるがままの物質として、静謐な色彩を湛えている。

「……あ」

能力は失われた。彼はもう、誰の心も覗くことはできない。

だが、胸の奥が焼けるように熱い。

喉の奥がつかえ、呼吸をするたびに肺が微かに震える。

視界が滲んだ。

頬を熱い液体が伝い落ちる。

「これが……」

誰かの色ではない。

彼自身の内側から溢れ出した、形を持たない奔流。

胸の奥に灯った琥珀色の灯火が、じんわりと全身を温めている。リアムが遺した希望と、アステル自身の感情が混ざり合い、確かに脈打っているのを感じた。

アステルは立ち上がり、深く息を吸い込んだ。

冷たく澄んだ空気が肺を満たし、生きている実感が指先まで駆け巡る。

彼はもう、無色の亡霊ではない。

喜びで温まり、悲しみで喉を詰まらせ、怒りで血を滾らせる、ひとりの人間だ。

アステルは一歩を踏み出した。

もう孤独な逃避行ではない。

見えなくなったからこそ、言葉を交わし、手を取り合い、相手の心の形を確かめるための旅が始まる。

世界は退屈なほどに静かで、そして涙が出るほどに美しかった。

AIによる物語の考察

**登場人物の心理**
アステルは自身を「無色」と断じ、他者の感情が視覚情報として氾濫する世界に苦悩していました。しかし、その「透明性」こそが、あらゆる感情を受け入れ、浄化し、新たな「光」へと変換する唯一無二の「器」としての本質でした。彼は幼馴染リアムの導きと犠牲を通じ、自己の存在価値と、感情を持つ人間であるという事実を初めて知ります。

**伏線の解説**
物語冒頭の「切り取られた空白」「虚無の器」という描写は、アステルが単なる「無」ではなく、感情の奔流を透過・変容させる「プリズム」としての本質を暗示していました。リアムが遺した琥珀色の結晶片は、単なる形見ではなく、彼の「愛」と「希望」の凝縮であり、最終的にアステルの魂に宿ることで、彼が感情を獲得する触媒となります。

**テーマ**
本作は、感情の過剰な飽和と個人の感情の枯渇という世界の矛盾を背景に、真の「感情」と他者との「繋がり」を問います。アステルが自身を「無」ではなく「器」として受容し、能力を失うことで得た「感じる」喜びは、視覚情報に囚われず、自らの心で世界と向き合うことの尊さを描いています。
この物語の「続き」を生成する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

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