虚構の錬金術師と創世の砂時計
第一章 砂上の楼閣と銀色の嘘
世界が剥がれ落ちていく音がした。
乾いた漆喰が崩れるように、視界の端から色彩が欠落していく。頭上の空は、かつて青と呼ばれた概念を喪失し、ただの鉛色の板へと成り下がっていた。
足元の砂礫を噛むブーツの感触だけが、俺がまだこの座標に存在していることを伝えてくる。俺は懐から砂時計を取り出した。ガラスの冷たさが指先を刺す。上部の黄金色の砂は、あと数粒で尽きようとしていた。
「……カイン、あっちに果実があったわ。すごく甘そうなの」
背後から聞こえた声に、俺は立ち止まる。
振り返ると、リシアが泥にまみれた何かを両手で捧げ持っていた。それはどう見ても、干からびた木の根だ。水分など一滴もなく、かじれば歯が欠けるだけの残骸。
けれど、リシアは笑っていた。頬はこけ、眼窩はくぼみ、唇は渇きで白くひび割れているのに、彼女は懸命に口角を持ち上げていた。その瞳の奥で、恐怖と罪悪感が小刻みに震えている。
彼女は知っているのだ。俺がそれを「信じる」ことを。
俺は彼女の目を見つめ、その震える手から木の根を受け取った。
ずしりと重い。それは物理的な質量ではなく、彼女が吐いた嘘の重さだ。
「そうか。それは楽しみだ」
俺は彼女の言葉を咀嚼し、嚥下する。
脳髄の奥で、バチリと火花が散る音がした。
次の瞬間、俺の手の中にあった乾いた根は、芳醇な香りを放つ黄金の果実へと変貌していた。果汁が滴り、甘い香りが鼻孔をくすぐる。
リシアが息を呑み、安堵と悲しみが入り混じった顔で涙ぐむのが見えた。
俺は果実を齧る。甘い。強烈に甘い。
その甘露が喉を通り過ぎた刹那、俺の頭の中から「何か」がごっそりと抜き取られた。
空白。
思い出そうとして、思考が白い壁に激突する。
俺は……何が好きだった?
子供の頃、母が作ってくれたスープの味。湯気の向こうで笑う母の顔。それが今、黒いインクで塗り潰されたように消滅した。
母の名前は思い出せる。だが、母に向けられていたはずの俺の愛着が、温度が、ごっそりと欠落している。そこにあるのは、底知れぬ喪失の穴だけだ。
これが代償だ。
嘘を現実に書き換えるたび、俺という人間を形成する記憶と感情が、燃料として燃え尽きていく。
俺は残りの果実をリシアに渡した。彼女はむしゃぶりつくように食べたが、その涙は止まらなかった。
「ごめんなさい、カイン……ごめんなさい……」
謝らないでくれ。その言葉を肯定してしまえば、俺の「痛み」までが嘘になってしまうから。
俺は砂時計を強く握りしめた。黒い砂が、下部に重く澱んでいる。
行かなければならない。俺が完全に「俺」でなくなる前に。
第二章 聖なる欺瞞の結界
聖地への旅路は、歩くというよりも、崩壊する絵画の上を綱渡りするようなものだった。
一歩踏み出すたび、足元の岩盤が透け、その下にある絶対的な虚無が顔を覗かせる。風は音をなくし、ただの圧力となって肌を叩いた。
「見えてきた……」
リシアの掠れた声。
荒野の果て、世界のへそと呼ばれる場所に、それはあった。
伝説に語られる『真実の源』。清廉な光が溢れ、世界を癒やす神の泉。
だが、俺たちの目の前に聳え立っていたのは、光などではなかった。
ドス黒い、粘液のような霧の壁。
天を突き、地平を覆い尽くすほどの巨大なドーム状の幕が、そこで脈動していた。
悪臭がする。腐った卵と、焦げた肉を混ぜ合わせたような、生理的な嫌悪を催す臭気。
「嘘……」
リシアが膝から崩れ落ちる。砂利が彼女の膝を擦りむく音が、やけに鮮明に響いた。
「聖典には、美しい白亜の神殿があるって……世界を支える輝きがあるって……」
彼女が縋るように俺を見上げる。
「ねえ、カイン。私の目が悪いのよね? 本当は綺麗なんでしょう? そうだと言って!」
彼女の悲鳴が、俺の鼓膜を揺らす。
今、俺が「そうだ」と頷けば、この黒い壁は白亜の神殿に変わるだろう。
だが、俺の本能が警鐘を鳴らしていた。懐の砂時計が、ガラスが割れんばかりに激しく振動している。
違う。
この黒い壁こそが、この世界を数千年にわたって守り続けてきたものの正体なのだ。
俺はリシアの肩を抱き寄せた。震える彼女の体温だけが、この狂った世界での唯一の確かな感触だった。
「リシア、よく見ろ。あれは壁じゃない」
俺は目を凝らす。異能の視力が、霧の向こう側にある「構造」を捉えた。
それは、膨大な数の「言葉」で編み上げられていた。
『世界は平和である』『明日は必ず来る』『あなたは一人ではない』
人々が苦しみから逃れるために吐いた、無数の優しい嘘。それらが泥のように積み重なり、凝固し、巨大な防壁となって何かを封じ込めている。
「世界は真実によって支えられているんじゃない」
俺の声は、砂を噛んだように乾いていた。
「嘘が、世界を繋ぎ止める鎹(かすがい)だったんだ」
その時、黒い霧が裂けた。
中から響いてきたのは、声ではない。頭蓋骨を直接きしませるような、圧倒的な「圧」だった。
『……還れ』
空間が歪む。
『ここにあるのは絶望のみ。知る必要のない真実のみ。我が骸(むくろ)と共に、夢を見続けよ……』
霧の裂け目から、中枢が見えた。
そこに神はいなかった。
玉座に座っていたのは、枯れ木のように干からび、今にも塵になりそうな巨大な何かの死体だ。その死体が、最後の力を振り絞って「世界は美しい」という虚構を垂れ流し続けている。
創造主。あるいは、最初の嘘つき。
その姿を見た瞬間、俺の脳裏に焼き付いていた「世界」の認識が音を立てて砕け散った。
第三章 創造主の遺言と最初の真実
死にかけの創造主の背後、黒い霧の裂け目から、「外」の空気が漏れ出した。
ヒュウ、と音が鳴る。
その風が俺の頬を撫でた瞬間、皮膚が焼け爛れるような激痛が走った。
「ぐっ……!」
「カイン!?」
リシアが悲鳴を上げる。彼女の髪の毛先が、外気に触れてチリチリと炭化していく。
毒だ。
いや、違う。これが「真実」の大気なのだ。
俺たちが呼吸していた空気、踏みしめていた大地、降り注ぐ陽光。それら全てが、創造主の肉体をフィルターにして濾過された「安全な虚構」だった。
本来のこの星は、猛毒の嵐が吹き荒れ、灼熱の溶岩が海を成す、生命の生存を許さない地獄だったのだ。
創造主は、その地獄の上に「楽園」という名の膜を張り、自らの命を削って維持し続けてきた。
だが、その限界が来た。砂時計の黒い砂は、創造主の命そのものだったのだ。
『……嘘は尽きる。真実が……世界を焼く……』
創造主のうめきと共に、黒い壁がガラガラと崩れ始めた。
裂け目が広がる。
その向こうに見える紅蓮の炎。あれが現実。あれが真実。
美しく着飾った世界の化粧が剥がれ、ただの焼却炉としての素顔が露わになる。
「そんな……じゃあ、私たちは生まれてくるべきじゃなかったの?」
リシアが顔を覆う。「私たちが生きてきた時間は、全部偽物だったの?」
熱波が押し寄せる。俺のコートの裾が焦げ始めた。
俺は砂時計を見た。最後の一粒が落ちるまで、あと数秒。
俺の中で、記憶の空白が叫んでいる。母の笑顔も、友の声も、リシアと過ごした旅の夜も。
偽物?
ふざけるな。
俺が感じたリシアの手の温もりは、嘘じゃなかった。
俺たちが分け合った飢えも、恐怖も、喜びも、それだけは紛れもない「真実」だった。
舞台装置がハリボテだったとしても、そこで演じた俺たちの命までが紛い物になるわけじゃない。
「リシア」
俺は彼女の手首を掴んだ。強く。痛いほどに。
「俺を見ろ」
彼女が涙に濡れた顔を上げる。その瞳に、燃え盛る世界の赤が映っていた。
創造主の嘘(バリア)はもう持たない。ならば、新しい理(ことわり)が必要だ。
この地獄のような環境でも、人が人として生きていける、新しい物理法則。
それを定着させるには、創造主の残りカスではない、新鮮で強烈な「意志」が必要だ。俺の命すべてを燃料にして。
「嘘をつけ」
俺は言った。
「世界は残酷なんかじゃない。ここは生きるに値する場所だと。私たちは、この炎の中でも笑って暮らせると。俺に、最高の大嘘をついてくれ」
「カイン……何を……」
リシアの顔色が蒼白になる。彼女は察したのだ。俺が何をしようとしているのかを。
「嫌よ。そんなことをしたら、あなたは……!」
「時間がない! 世界が終わるぞ!」
轟音が響き、頭上の空が完全に砕け散った。毒の雨が降り注ぐ。俺の肌がジリジリと音を立てて焼けていく。
リシアは唇を噛み締めた。血が滲むほどに。
彼女は俺の胸倉を掴んだ。その手は震え、爪が食い込む。
彼女は泣きながら、それでも顔を上げ、俺を睨みつけた。
「……世界は、終わらない」
彼女の声が、轟音を切り裂いて響く。
それは祈りであり、呪いであり、そして愛だった。
「この風は心地よいわ。この熱は命を育む暖かさよ。私たちはここで家を建て、子を育て、老いて死ぬの。世界は……世界は、これ以上ないほどに美しくて、優しい場所なのよ!」
その言葉の一つ一つが、釘のように俺の心臓に打ち込まれる。
矛盾だらけの、根拠のない、あまりにも悲痛な大嘘。
だが、今の俺には、それがどんな聖典よりも尊い真実に聞こえた。
俺は笑った。
記憶が消えていく恐怖は、もうなかった。
「ああ……信じるよ、リシア」
俺は砂時計を握りつぶした。
ガラスの破片が掌に突き刺さる痛みと共に、俺という存在の輪郭が溶け出した。
俺の肉体が、血が、記憶が、魂が、光となって弾け飛ぶ。
リシアのついた「嘘」を、この星の新たな「真実」へと書き換えるために。
最終章 名もなき旅人の伝説
光が世界を舐めた。
それは優しく包み込むような光ではない。岩を砕き、大気をねじ伏せ、無理やり形を変えるような暴力的な光の奔流だった。
だが、その光が収まったとき、世界は変わっていた。
毒の雨は、大地を潤す清水へと変質していた。
皮膚を焼く熱波は、生命の鼓動を促す暖かな気候へと姿を変えた。
それはかつての楽園のような、甘やかされた箱庭ではない。冬は凍えるほど寒く、夏は焦げるほど暑い。けれど、そこには確かに生命が根を張り、生き抜くことのできる「厳しさという名の優しさ」があった。
荒野の真ん中で、リシアは一人、立ち尽くしていた。
足元には、砕けた砂時計の残骸と、銀色の砂が混じった名もなき灰だけが残されていた。
彼女は空を見上げた。
かつてのような鉛色でも、絶望的な紅蓮でもない。
どこまでも深く、透き通るような紺碧の空。
彼女が吐いた嘘が、今、頭上に「真実」として広がっている。
「……バカ」
彼女は呟き、その場に崩れ落ちて泣いた。
風が吹いた。その風は、彼女の涙を優しく拭うように、頬を撫でて通り過ぎていった。
***
それから、長い時が流れた。
世界は再構築され、人々は新たな理の中で逞しく生きていた。
「真実の源」を求める旅人はもういない。自分たちの手で井戸を掘り、畑を耕すことが、本当の真実だと誰もが知っているからだ。
ある街の広場。
老いた吟遊詩人が、子供たちに古い物語を語って聞かせていた。
かつて世界を欺き、そして世界に騙された一人の男の話を。
「彼は魔法使いでした。けれど最後には、魔法ではなく、一人の女性の言葉だけを信じて、星になったのです」
広場の片隅、レンガ造りの建物の陰に、陽炎のような「何か」が揺らめいていた。
人ではない。記憶も、名前も、形すら持たない、ただの意識の残滓。
彼には、自分が誰だったのかわからない。
なぜここにいるのかも、何を失ったのかも思い出せない。
けれど、彼は満ち足りていた。
広場を駆け回る子供たちの笑い声。パン屋から漂う小麦の香り。恋人たちが交わす囁き。
それら全てが、かつて彼が命を賭して肯定した「嘘」の結実であることを、彼自身は知らずとも、魂の破片が感じ取っているからだ。
杖をついた老婆が、広場を横切る。
彼女はふと足を止め、何もない空間に向かって、愛おしそうに目を細めた。
「……いい風ね、今日も」
彼女が空気に話しかけると、陽炎は嬉しそうに揺れ、風となって空へと昇っていった。
そこにはただ、残酷で、愛おしい、本物の世界が広がっていた。