空が赤く滲むのではなく、安っぽい磁器のように砕け散った。
剥がれ落ちた空の破片を、僕は無感動に見つめ、その一片を掌で受け止める。
焼きつくような夕焼けの色をしているのに、それは氷のように冷たかった。
ここは『最果ての図書館』。
世界中のあらゆる魂が、最後にたどり着く場所。
そして僕は、ここでただひたすらに、死者の記憶を本へと仕立てる『編纂者(エディター)』だ。
「ねえ、私の記憶はどこ?」
静寂を切り裂くような、鈴を転がした声がした。
振り返ると、そこには色彩の抜けた少女が立っていた。
髪も肌も、着ているワンピースさえも、すべてが透き通るような白。
唯一、瞳だけが燃えるような茜色をしていた。
「ここには完成された記憶しかない」
僕は手元の『原石』――まだ本になっていない記憶の結晶――を磨きながら答える。
僕の声には抑揚がない。感情がないからだ。
かつて、優秀な編纂者になるために、邪魔な感情をすべて『館』の地下に捨てた。
その代償として、僕はどんな激しい悲劇の記憶に触れても、眉一つ動かさずに製本できる特異な才能を得た。
「嘘よ。私が持っているのは、これだけ」
少女が差し出したのは、真っ白な本だった。
タイトルもなければ、ページに文字も刻まれていない。
「白紙の記憶……?」
あり得ない。
人は死ぬとき、必ず走馬灯という物語を持ってくる。
何も書かれていない本など、生まれたばかりの赤子でも持ち合わせない。
「名前は?」
「リラ。……それ以外は、何も思い出せないの」
リラと名乗った少女は、縋るように僕の袖を掴んだ。
その瞬間、僕の指先がピクリと震えた。
冷徹なはずの僕の胸の奥で、何かが軋む音がした。
第一章 痛覚という名の色彩
「君の記憶を探す義務は、僕にはない」
「でも、あなたが触れると、少しだけ温かいの」
リラは強引だった。
僕の仕事場である無限書架を、彼女は裸足で駆け回る。
書架には、水晶のような背表紙が何億冊と並んでいる。
「これ、何かしら?」
彼女が指差したのは、青白く発光する一冊だった。
「『沈没船のピアニスト』の記憶だ。海水と絶望の味がする」
僕は淡々と解説する。
だが、リラはその本を手に取り、胸に抱きしめた。
「……ううん。違うわ」
彼女が本を開くと、そこから溢れ出したのは海水ではない。
優しい旋律だった。
最期まで音楽を愛した男の、誇り高い指先の感覚。
「綺麗……」
リラの頬に、一筋の雫が伝う。
その涙が床に落ちた瞬間、図書館の床に波紋が広がり、灰色の石畳に『青』が滲んだ。
ドクン。
僕の心臓が、大きく跳ねた。
痛い。
胸が焼けるように熱い。
「……君は、何をした?」
「ただ、感じただけよ。彼が愛した音を」
リラが微笑むと、僕の視界が歪んだ。
自分の手を見る。
指先に入った亀裂。
僕の皮膚は、いつの間にか硝子のように硬質化し、そして今、ヒビ割れていた。
感情を捨てた僕の体は、感情を受け入れる器としての機能を失っている。
それなのに、リラを通して『感動』が流れ込んでくる。
「あなたが痛いの? ごめんなさい」
「いいや……不快なだけだ」
嘘をついた。
この痛みは、どこか懐かしかった。
僕は知らず知らずのうちに、次の本へと手を伸ばしていた。
第二章 埋葬されたラブレター
僕たちは、迷宮のような書架を旅した。
リラが白紙の本を埋めるための『インク』を探す旅だ。
老兵の記憶に触れ、彼女は『後悔』を知った。
踊り子の記憶に触れ、彼女は『情熱』を知った。
そのたびに、リラの白いドレスは少しずつ色づき、僕の体には亀裂が増えていった。
パリン、と乾いた音がする。
左腕の肘から先が砕け散り、光の粒子となって消えた。
「もうやめて! あなたが壊れてしまう!」
リラが叫ぶ。
だが、僕は止まれなかった。
砕けた腕の断面から覗くのは、骨や肉ではない。
空洞だ。
僕の中身は、最初から空っぽだったのだ。
「……リラ、僕は気づいてしまったんだ」
僕は残った右腕で、彼女の白紙の本を開く。
そこにはいつの間にか、文字が浮かび上がっていた。
『私の愛する人へ』
それは記憶の記録ではない。
誰かに宛てた手紙だった。
「この図書館は、死後の世界じゃない」
周囲の風景が揺らぐ。
無限に続くと思われた書架が、病室の壁のように白く変色していく。
「ここは、君の心の中だ。リラ」
彼女は息を呑んだ。
「君はまだ生きている。深い眠りの中で、目覚めることを拒絶しているんだ」
そして僕は、編纂者などではない。
彼女が辛い現実に耐えきれず、心を閉ざすために作り出した防衛本能。
『感情を遮断する人格』こそが、僕の正体だった。
僕が感情を取り戻すこと。
それは、彼女を守るための『壁』である僕自身が、崩壊することを意味する。
第三章 君が目覚めるためのプロローグ
「嫌よ……思い出させないで!」
リラが耳を塞ぐ。
世界が激しく振動する。
彼女が拒絶していた現実――それは、最愛の人を失った悲しみだった。
白紙だった本に、猛烈な勢いで文字が刻まれていく。
恋人との出会い。
初めてのキス。
そして、唐突な別れの事故。
その悲しみに耐えられないから、彼女は記憶を消し、僕という『無感動な監視者』を生み出した。
「僕がいる限り、君は悲しまなくて済む。でも、喜びも感じることはできない」
僕の足が、膝から下へと砕け散る。
もう立つこともできない。
「行かないで……あなたがいないと、私、一人で泣くこともできないのよ」
リラが崩れ落ちる僕を抱きしめる。
硝子の破片が彼女の柔らかな肌に刺さるが、彼女は離そうとしない。
その温もりが、僕の全身に『愛おしさ』という名の致命傷を与えた。
「大丈夫だ、リラ」
僕は、残った右手の指先を、彼女の持つ本へと伸ばす。
指先がペン先に変わる。
「僕が、最後のインクになる」
「やめて!」
「Show, Don't Tell.(語るな、示せ)」
僕は微笑んだ。
生まれて初めて、顔の筋肉が『笑顔』の形を作ったのがわかった。
その瞬間、顔の半分が音を立てて砕けた。
僕は自らの存在をすべて、彼女の本へと流し込む。
硝子の体が溶け出し、光り輝くインクとなってページを濡らした。
僕という『拒絶』が消えれば、彼女は痛みを思い出すだろう。
毎晩、涙で枕を濡らすだろう。
それでも。
『空はこんなにも青く、君の涙はこんなにも温かい』
僕が最後に書き記した一文。
光が溢れた。
図書館が崩壊し、眩しい朝の光が差し込む。
「……さようなら、私の弱虫な騎士様」
薄れゆく意識の中で、リラが涙を拭いながら笑っているのが見えた。
その笑顔は、どんな完成された記憶の結晶よりも、鮮烈に美しかった。
***
消毒液の匂い。
心電図の電子音。
ベッドの上の少女が、ゆっくりと瞳を開けた。
その頬には、一筋の涙が伝っている。
彼女は胸元をぎゅっと握りしめた。
そこには何もない。
けれど、確かに何かが残っていた。
硝子のように脆く、けれどダイヤモンドより硬い、守るべき約束が。
彼女は窓の外を見る。
空は青く、雲は流れている。
「痛いなぁ……」
彼女は呟き、そして笑った。
生きていく痛みが、これほどまでに愛おしいとは知らなかったから。