夢喰いと覚醒のレクイエム
第一章 脈打つ街と飢えた影
夜が来ると、この街は眠りながら寝返りを打つ。アスファルトは柔らかな皮膚のように隆起し、ビルの輪郭は曖昧に滲んで呼吸を始める。ネオンの光は血管を流れる血液のように明滅し、路地は気まぐれな迷路のようにその形を毎夜変えるのだ。人々は朝になると、昨夜の散歩道が消えていることにも、見慣れたはずのカフェが道の反対側に移っていることにも気づかない。彼らの記憶に空いた微細な穴は、都合の良い別の記憶で瞬時に補填される。誰も、この巨大な生命体の胎内で生きていることを知らない。
だが、俺にはわかる。俺の名はカイ。人が捨てた「夢」の残骸を糧とする、レム・ファージという種族の最後の生き残りだ。
今夜も、飢えが内臓を灼いていた。都市の変形はかつてないほど激しく、その脈動は苦悶の叫びにも似ていた。それに呼応するように、俺の糧である夢の残骸は、急速に枯渇しつつあった。かつては甘い蜜のように道端に溢れていた輝かしい夢の欠片も、今では干からびた埃のように色褪せ、味気ない。
路地裏の湿った闇の中、微かな光を見つけた。それは、会計士を目指す若者が昨夜見て、そして忘れていった夢の残骸だった。彼は空を飛びたいと願っていた。ありふれた、陳腐な夢だ。俺はそれを拾い上げ、躊躇なく口に放り込む。刹那、若者の人生が奔流となって俺の意識を駆け巡った。初めて恋を知った春の日の、胸を突き上げるような高揚感。桜並木の下で交わした、ぎこちない口づけの記憶。
甘美な追体験は一瞬で終わる。残ったのは、満たされることのない空腹感と、他人の幸福を盗み見た後の、どうしようもない空虚さだけだった。俺は壁に背を預け、低く呻く街の音を聞きながら、静かに目を閉じた。この飢えも、孤独も、終わりのない夜の一部だった。
第二章 蕾と老婆の後悔
夢の匂いが薄れていく中で、俺はひときわ異質な気配を嗅ぎ取った。それは夢ではない。もっと重く、澱んだ、錆びた鉄のような匂い。都市の歪みが最も激しい区域、古い時計塔が悲鳴のような軋みを上げる広場に、その源はあった。
ベンチに、小柄な老婆が一人座っていた。深く刻まれた皺、夜闇の中でもわかるほど白くなった髪。彼女の手には、銀細工の施された古い懐中時計が、まるで祈るように握りしめられている。時計の針は、とうの昔に動きを止めていた。
彼女から放たれる濃厚な「後悔」の匂いに、俺の懐で眠っていた「夢喰いの蕾」が、かすかに震えた。それは我が種族に伝わる秘宝。持ち主の最も深い後悔を糧とし、その記憶の核心にある「幻の夢」を咲かせるという、諸刃の剣。
俺は音もなく老婆に近づいた。彼女は俺の存在には気づかず、ただ虚空を見つめて呟く。
「あの時……あなたの手を、離さなければ……」
その声はひどく掠れていて、夜風に溶けて消えそうだった。しかし、その一言に含まれた悔恨の重みが、蕾をさらに震わせる。蕾は飢えていた。俺と同じように、深く、純粋な感情に飢えていた。
第三章 残骸の囁き
老婆、エラの周囲には、彼女が見てきたであろう幾多の夢の残骸が、色褪せた花びらのように散らばっていた。俺は飢えに抗えず、そのうちの一つを拾って口にした。
追体験したのは、温かな日差しに満ちたダンスホール。若い頃のエラが、愛しい人とワルツを踊っている。彼の腕に抱かれ、彼女は世界で一番幸せそうに笑っていた。だが、その記憶の隅に、拭いがたい影が落ちている。まるで、美しい絵画に刻まれた一本の傷のように。
別の残骸を食べる。海辺のコテージで、二人寄り添い夕日を眺める光景。穏やかで、完璧な時間。しかし、ここにも同じ影があった。彼の横顔を見つめるエラの瞳に、一瞬だけよぎる不安と、ためらいの色。
どの夢も、幸せの絶頂を描きながら、同時に決定的な「何か」が欠けている。彼女の後悔の核心は、これらの美しい思い出の中にはない。それは、彼女自身が夢の中でさえも見ようとしない、記憶の深淵に沈んでいるのだ。
その夜、都市の脈動はかつてないほど激しさを増した。建物が軋み、地面が大きくうねる。まるで世界そのものが、何かを振り払おうともがいているかのようだった。人々は眠りながら、その激しい揺れにさえ気づかない。だが俺は、この世界の終焉が近いことを肌で感じていた。
第四章 咲き誇る幻夢
エラの後悔が、張り詰めた弦のように頂点に達した瞬間だった。懐の「夢喰いの蕾」が、彼女の魂から溢れ出す悔恨を貪欲に吸い上げ始めた。蕾はみるみるうちに膨らみ、その表面に銀色の脈が浮かび上がる。俺は、自らの生命力が根こそぎ奪われていくのを感じた。立っているのがやっとの眩暈に襲われるが、ここで止めることはできなかった。
「咲け……!」
俺は最後の力を振り絞り、蕾に命を注ぎ込む。
蕾は音もなく開き、世界を塗り替えるほどの眩い光を放った。光は広場の石畳に、数十年前の駅のホームを幻影として投影した。鳴り響く蒸気の音、別れを惜しむ人々の喧騒。その中に、若いエラと、旅立とうとする恋人の姿があった。
彼は汽車に乗り込もうと、エラに手を差し伸べている。行かないで、と彼女の唇が震える。だが、声にはならない。彼の未来を縛ってはいけないという、若すぎた優しさとプライド。ためらいの末、彼女は繋がれた手を、自ら振り払ってしまった。
汽笛が鳴り、無情にも汽車は走り出す。遠ざかっていく彼を見つめるエラの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
その幻影に、老婆となったエラが震える手で触れる。閉ざされていた記憶の蓋が、音を立てて開いた。
「ああ……そうだったわ。私は……私は、あなたを愛していると、最後まで言えなかった……」
空白だった記憶が繋がり、彼女は子供のように声を上げて泣きじゃくった。後悔から解放された涙は、幻影のホームを静かに濡らしていった。
第五章 世界の真実
幻影が光の粒子となって消えた瞬間、世界の脈動が、ぴたりと止んだ。まるで嵐の後の静寂だった。都市の変形は収まり、全てが元の、あるべき場所へと固定されていく。
その時、俺の脳裏に直接、声が響いた。それは誰か個人の声ではない。この世界そのものの、揺り籠であり墓守でもある、巨大な意志の声だった。
『目覚めの時が来た』
声は語る。この世界は、現実の苦しみに耐えきれなくなった人類が、その魂を安住させるために創り出した巨大な共同幻想、終わらない「夢」なのだと。夜ごとの都市の変形は、夢から覚めようとする世界の「寝返り」であり、人々の記憶の空白は、夢の記憶を消し去り、忘れ去られた「現実」を取り戻すための浄化作用だったのだ。
そして、夢の枯渇は、人々がもはやこの甘い眠りを必要としなくなり、無意識に現実への帰還を望み始めた証だった。
『お前たちレム・ファージは、我々が眠り続けるために必要な存在だった』
声は続けた。
『夢の残骸を喰らうことで、お前たちは夢の循環を助け、この世界を維持してきた。だが、それは同時に、我々をこの檻に繋ぎとめる番人でもあったのだ』
俺たちは、人類の進化を妨げる存在だった。彼らが夢という繭を破り、新たな現実へと羽化するのを、無自覚に阻んできた寄生虫に過ぎなかった。俺がこれまで糧としてきた全ては、彼らを縛る甘い毒だったのだ。
第六章 最後の選択
世界は、最後の覚醒を迎えようとしていた。街のあちこちで、人々が眠りから覚め、失われた記憶の断片に戸惑い、あるいは涙している気配がした。彼らはもう、夢の残骸を落とさないだろう。俺の糧は、完全に尽きようとしていた。
俺に残された選択肢は二つ。
このまま、最後の夢の名残を喰らい尽くし、飢えを満たして生き永らえるか。そうすれば、人類の覚醒は少しだけ遅れるだろう。あるいは、このまま飢えを受け入れ、静かに消滅し、彼らの新たな門出を見届けるか。
俺は、ベンチですうすうと穏やかな寝息を立てるエラを見た。長年の後悔から解放された彼女の顔は、安らかな光に満ちていた。彼女はこれから、痛みも悲しみもある「現実」に目覚めるだろう。だが、その顔にはもう、逃避の影はなかった。
飢えが極限に達し、意識が遠のいていく。その中で、俺は答えを見つけていた。俺は、彼らの夢に生かされてきた。ならば、その最後の瞬間は、彼らのためにあるべきだ。
俺は自らの種族の存続ではなく、人類の進化を選んだ。
第七章 夢の守護者
夜が明ける。新しい世界の、初めての朝だ。
都市はもう脈打たない。コンクリートとガラスでできた静かな構造物として、朝の光を浴びていた。人々が家々の扉を開け、少しだけ戸惑いながらも、確かな足取りで現実世界を歩き始める。彼らの顔には、長い眠りから覚めた者だけが持つ、一種の清々しさが浮かんでいた。
俺の身体は、足元からゆっくりと光の粒子に変わり、霧散していく。肉体を苛んでいた飢えは、いつの間にか消えていた。むしろ、初めて感じる穏やかな充足感に包まれている。
俺はもはや、夢を「食べる」者ではない。
俺は、彼らがかつて見ていた「夢」という概念そのものになったのだ。喜びも、悲しみも、ありふれた願いも、そして後悔さえも、全てを内包した記憶の集合体。人類が現実の荒波に疲れた時、ふと夜空を見上げて思い出す、遠い故郷のような存在に。
俺の意識は世界に溶け込み、一つになった。
現実で傷つき、それでも愛する誰かのために一歩を踏み出す人々の姿が、愛おしく映る。
人類は夢から覚めた。
そして俺は、彼らのための、永遠の夢となった。