音喰らいのレガート

音喰らいのレガート

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***第一章 沈黙の森と招かれざる旋律***

私の飢えは、音の形をしている。腹の底で渦巻く不協和音が、喉を掻きむしる。世界から切り離されたこの森で、私は永いこと、風の葉擦れや小川のせせらぎといった、魂の宿らない音ばかりを啜って生きてきた。それは水だけで日を繋ぐようなもの。か細い生命線は、いつぷつりと切れてもおかしくなかった。

私は「響喰い(きょうばみ)」。人の奏でる音、その魂の律動を糧とする、呪われた一族の最後のひとり。音を喰らえば、その奏者は二度とその音を紡げなくなる。指が弦を忘れる。喉が歌を失う。私が生きることは、誰かの世界から色彩を奪うことと同義だった。だから私は、人を避けてきた。この深い森の奥、朽ちかけた小屋で、沈黙と共に我が身が滅びるのを、ただ静かに待っていた。

その日、森は重い雨に濡れていた。飢えで霞む視界の中、小屋の扉を叩く音がした。驚きと恐怖で体が強張る。こんな場所に、人が来るはずがない。震える手で扉を押し開けると、そこに一人の青年が立っていた。濡れた亜麻色の髪を額に貼りつかせ、背にはリュートを収めた革袋を背負っている。

「すみません。道に迷ってしまって……。一夜だけでいい、雨風をしのがせてはいただけませんか」

穏やかな声だった。だが、私が息を呑んだのは、彼のその瞳だった。美しい玻璃玉のような青い瞳は、けれど、どこにも焦点を結んでいなかった。彼は、盲目だったのだ。

「……どうぞ」

かすれた声で招き入れると、彼は安堵したように微笑んだ。エリオ、と彼は名乗った。旅の楽師で、次の街へ向かう途中、この森で嵐に見舞われたらしい。私はリラ、とだけ短く告げた。

冷えた体を温めるため、暖炉に薪をくべる。ぱちぱちと炎がはぜる音だけが、気まずい沈黙を埋めていた。彼が、背負っていたリュートを静かに取り出した時、私の心臓は嫌な音を立てて跳ねた。

「お礼と言っては何ですが、一曲いかがです? 音楽は、冷えた心を温めるのに一番ですから」

やめて、と叫びたかった。その楽器に触れないで。あなたの魂の音を、私に聴かせないで。だが、喉は乾ききって声にならない。エリオの指が、ためらいなく弦に触れた。

ぽろん、と響いた最初の音。それは、蜂蜜色の光の粒となって私の全身に染み渡った。飢えきった細胞の一つ一つが歓喜の声を上げる。彼の指が紡ぐ旋律は、穏やかで、どこか懐かしい暖かさに満ちていた。それは、私がこれまで口にしてきたどんな自然の音とも違う、生命そのものの輝きを宿した「ご馳走」だった。

腹の底の不協和音が、彼の音楽と共鳴し、狂おしいほどの渇望に変わる。私は両腕で自分を抱きしめ、爪が食い込むのも構わずに耐えた。この音を喰らってはいけない。この優しい光を、消してはならない。けれど、一度知ってしまった魂の味は、抗いがたい毒のように私を蝕んでいく。彼の音楽は、私にとって救いであると同時に、断頭台の刃でもあった。

***第二章 偽りの調和と芽生える想い***

嵐は三日三晩続いた。森を出られないエリオと私の、奇妙な共同生活が始まった。彼は目が見えない代わりに、他のすべての感覚が研ぎ澄まされていた。私が息を潜めて飢えに耐えていることも、言葉の端々に滲む孤独にも、きっと気づいていたのだろう。彼は毎日、決まった時間にリュートを弾いてくれた。

「君は、とても静かな人だ。まるで、森そのものみたいに。でも、僕の音楽を聴いている時だけ、君の呼吸が少しだけ深くなるのを、知っていますか?」

彼の言葉に、私は何も答えられない。彼の音楽は、私にとって甘美な拷問だった。彼の旋律を浴びるたび、生命力は僅かに満たされる。けれどそれは、渇いた喉を湿った布で撫でるようなもので、根本的な飢えは増すばかりだった。音を「喰らわず」に聴き続けることは、私の魂を少しずつ削り取っていく行為に他ならなかった。

それでも、私は彼のそばを離れがたかった。エリオと過ごす時間は、生まれて初めて感じる安らぎを私に与えてくれた。彼は、私が響喰いであることなど知る由もなく、ただ一人の人間として接してくれた。森の植物の名前を尋ねたり、私が淹れた不味いハーブティーを「優しい味がする」と言って微笑んだりした。

彼の前では、私は呪われた化け物ではなく、ただのリラでいられた。陽だまりのような彼の存在に、凍てついていた心がゆっくりと溶かされていくのを感じた。そして、気づいてしまったのだ。私は、エリオを大切に思っている。彼のその音を、彼自身を、この世界から失いたくないと、心の底から願っている。

その想いは、私を更に苦しめた。彼への愛情が深まるほど、彼を喰らいたいという本能的な欲求もまた、色濃く、鮮やかになっていく。それは矛盾した、引き裂かれるような痛みだった。

ある晴れた日の午後、エリオは言った。
「僕の目が見えなくなったのは、幼い頃の病が原因なんだ。光を失った時、世界が終わったと思った。でも、母が僕にこのリュートを与えてくれた。音の世界は、光の世界よりもずっと豊かで、色鮮やかだって教えてくれた。僕にとって音楽は、光そのものなんだ」

彼の指先から生まれる音は、彼が見ることのできない陽光であり、空の青さであり、咲き誇る花々の色彩なのだ。それを、私が奪う? 生きるために? 許されるはずがなかった。私は、この想いと共に、この飢えと共に、静かに朽ちていこう。それが、私が彼にできる、唯一の誠意なのだから。

***第三章 嵐が喰らう魂のリュート***

運命は、残酷なほどに皮肉な選択を私に突きつけた。再び嵐が森を襲った夜のことだった。古い小屋は、尋常ではない風雨に耐えきれず、不吉な軋みを上げていた。エリオと暖炉の前で話していた、その時。轟音と共に、天井の太い梁が裂け、私たちめがけて崩れ落ちてきた。

「危ない!」

私は咄嗟にエリオを突き飛ばした。だが、私自身の体は、迫りくる死の影から逃れる術を持たない。飢えで弱りきった体は、鉛のように重かった。

「リラ!」

エリオの悲鳴が響く。その声に突き動かされるように、私は最後の力を振り絞ろうとした。だが、動かない。間に合わない。このまま二人とも、ここで終わるのか。絶望が思考を塗りつぶした瞬間、私の耳に、あの音が届いた。

突き飛ばされたエリオが、側にあったリュートをかき鳴らしていたのだ。恐怖に震えながらも、必死に。それは祈りにも似た、切羽詰まった旋律だった。そして、その音は、私の本能を直接揺さぶった。

喰らえ、と魂が叫ぶ。生きろ、と渇望が喉を焼く。彼の音を喰らえば、力が漲る。この梁を止められる。彼を、救える。

だが、それは、彼から光を奪うこと。彼の世界を、永遠の沈黙に突き落とすこと。

逡巡は一瞬。目の前には、私を信じ、命懸けで音を紡ぐエリオの姿があった。彼の命か、彼の音楽か。そんな選択肢があるものか。私は、彼に生きていてほしかった。たとえ、その世界から音が消えようとも。

「ごめんなさい、エリオ……」

私は泣きながら、その旋律に意識を集中させた。両手を広げ、彼の魂の輝きを、そのすべてを、我が身へと受け入れた。蜂蜜色の光の奔流が、私の体を駆け巡る。恍惚と罪悪感が入り混じった嵐の中で、私の力は爆発的に増大した。崩れ落ちる梁を、私は片手で受け止めていた。

すべてが終わった時、小屋には不自然な静寂だけが残っていた。私はエリオに駆け寄った。彼は無事だった。けれど、その顔からはすべての色が抜け落ち、呆然と虚空を見つめていた。彼の手の中のリュートは、ただの木片になっていた。

「……音が、聴こえない」

エリオが、か細い声で呟いた。
「風の音も、雨の音も……君の声さえも、何も。僕の世界から、音が消えてしまった……」

彼の青い瞳が、ゆっくりと私を捉えた。その瞳には、もはや恐怖も憎しみもなかった。ただ、底なしの喪失感が、静かな湖のように広がっているだけだった。彼は、すべてを悟っていた。私が、彼の光を喰らったのだと。

***第四章 君がための音語り***

私は、エリオの前から消えようとした。彼を救うために彼のすべてを奪った私が、彼のそばにいる資格などない。夜明け前、荷物をまとめ、そっと小屋を出ようとした私の腕を、静かな力が掴んだ。エリオだった。

「どこへ行くんだ」
「……あなたを、傷つけた。もう、一緒にいられない」
「僕を傷つけたのは、君じゃない。僕を救ったのが、君だ」

彼の言葉は、刃のように私の胸を抉った。
「君が奪ったのは僕の音だ。なら、責任を取ってくれ」
彼は続けた。その声は、不思議なほど穏やかだった。
「君が、僕の新しい音になればいい」

その言葉の意味を、私はすぐには理解できなかった。だが、彼の真剣な眼差しに、逃げることは許されなかった。私は、初めて自分の罪と、そして彼の喪失と、正面から向き合う覚悟を決めた。

あの日から、私たちの本当の関係が始まった。私はもう、音を喰らう必要はなかった。エリオの魂の音は、私の内に満ち、永続的な糧となっていたからだ。その代わり、私は彼のために「音を語る」存在となった。

「エリオ。今、夜明けの鳥が鳴いているわ。一声目は少し臆病で、二声目は空気を震わせるように力強いの。その羽ばたきは、乾いた葉っぱが舞うみたいな、軽やかな音がする」

私は、世界のあらゆる音を言葉に変え、彼に届けた。風が木々を揺らす音、岩に砕ける川の音、遠くで響く雷鳴。それらを、私の声で、私の感性で、彼のためだけに再構築する。それは歌ではなかった。響喰いの一族が最も不得手とする、魂を込めて「与える」ための音だった。

エリオは、私の語る音に、静かに耳を傾けた。時折、彼は私の手にそっと触れる。彼の指は二度とリュートを奏でることはない。私の声帯も、歌を紡ぐようにはできていない。私たちは二人とも、不完全で、大きな喪失を抱えていた。

けれど、不思議なことに、心は満たされていた。私は、奪うだけの存在だった自分が、誰かのために何かを与えられる喜びに打ち震えていた。エリオは、失った音の世界の代わりに、私の言葉を通して、新しい世界を感じ取ってくれていた。

私たちは森の小屋で、静かに暮らし続けている。彼が奏でた美しいリュートの旋律を、私は二度と聴くことはできない。彼は、私の本当の声を聴くことはできない。私たちの間にあるのは、永遠の喪失と、その上に築かれた、切なくも確かな絆。

今日も、私は彼の隣に座り、窓から見える夕焼けの美しさを、音にして語る。
「空が、燃えるような音を立てているわ。静かで、荘厳な、和音のように……」
エリオは、穏やかに微笑んで、私の言葉に耳を澄ます。喪失から始まった私たちのレガートは、これからも滑らかに、どこまでも続いていく。奪い、与えられた、この命の限り。

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