第一章 無音の旋律
私の村は、音で満ちていた。鍛冶屋の鎚が鉄を打つ硬質な響き、市場の喧騒、小川のせせらぎ、そして子供たちの屈託のない笑い声。それら全てが混ざり合って、村の生命そのものを奏でる心地よい音楽となっていた。だが、その音楽が、ある日突然、ぷつりと途絶えた。
「無音の病」と、誰が呼び始めたのか。それは前触れもなく村を覆い尽くした。まず、小鳥たちが歌うのをやめた。森は墓場のように静まり返り、風が梢を揺らす音さえも、まるで分厚い壁に吸い込まれるように消えた。次に、人々から声が失われた。最初は囁き声になり、やがて唇を動かせど、何の音も生まれなくなった。笑いも、嘆きも、愛の言葉も、すべてが沈黙の底に沈んでいった。生気までが奪われ、村人たちの瞳からは輝きが消え、ただ虚ろに日々を過ごすだけになっていた。
私の名はリラ。この村の片隅で、名もなき草花のようにひっそりと生きてきた。私には、一つの秘密があった。「言紡ぎ(ことつむぎ)」の力。言葉を紡ぐことで、ささやかな奇跡を起こすことができる。例えば、「太陽の温かな光が、この冷えた手に降り注ぐ」と心から願って語れば、雲間から陽光が差し込み、手のひらに確かな温もりを感じるのだ。
しかし、この力には大きな代償が伴う。物語を紡ぎ、現実をわずかに改変するたび、私の記憶が一つ、きれいさっぱり抜け落ちるのだ。それはまるで、本から一枚のページを破り取るような感覚だった。幼い頃、怪我をした小鳥を癒すために「健やかな翼」の物語を紡いだ日、私は大好きだった祖母の顔を忘れた。些細な願いを叶えるたびに、私の過去は虫食いのように失われていった。だから私は、この力を固く封印してきた。失うことの恐怖が、誰かを助けたいという願いに勝っていたのだ。
だが、目の前の光景は、私の臆病さを許してはくれなかった。隣家の幼なじみ、エリオが、母親に何かを必死に伝えようと口を動かしている。その目には涙が浮かんでいるのに、嗚咽一つ聞こえない。その光景は、私の心の奥底にある固い扉を、静かに、しかし抗いようのない力でこじ開けた。
この静寂は、死だ。緩やかに村全体を蝕む、音のない死。
私は震える手で、胸に手を当てた。ここには、まだ失われていない記憶がいくつも残っている。父が教えてくれた星の名前。母が焼いてくれたパンの香り。エリオと初めて手を繋いだ時の、不器用な温かさ。これらを失うことは、自分自身が死ぬことよりも恐ろしい。
それでも。
私は、エリオの涙を見て、決意した。たとえ私の内なる世界がどれほど空っぽになろうとも、この愛する人々の世界から、これ以上音を奪わせはしない。私は、これまで紡いだことのない、最も大きく、最も力強い物語を紡がなければならない。この死んだような沈黙を打ち破る、生命の物語を。
第二章 失われた色彩
私は自室にこもり、古い羊皮紙を広げた。インク壺の蓋を開ける、かすかな音さえ、今の村では奇跡のように響く。私は震える指でペンを握り、最初の言葉を紡ぎ始めた。
「始まりは、一滴の雫。夜明け前の葉先で震え、朝日を浴びて煌めきながら、大地へと落ちる、その小さな音から――」
言葉がインクとなって羊皮紙に染みていく。すると、窓の外で、ぽつり、と音がした。耳を澄ます。再び、ぽつり。それは、私の家の屋根から滴る朝露の音だった。ほんのわずかな、しかし確かな音。村に最初の音が戻った瞬間だった。
私は歓喜に打ち震え、ペンを走らせた。「そよ風が生まれ、草原の草を撫でる。さわさわと、優しい歌を口ずさみながら。その歌は、木々の葉を揺らし、心地よい囁きとなって森に満ちる」
窓の外のポプラ並木が、ざわめき始めた。それはまるで、長い眠りから覚めた巨人が、深呼吸をするかのようだった。私の紡ぐ物語が、世界に色を取り戻していく。私は夢中で書き続けた。小川のせせらぎを、蜂の羽音を、遠雷の響きを。失われた音の欠片を一つ一つ拾い集め、物語の中に織り込んでいく。
村には、少しずつ音が戻り始めた。人々は驚き、そして喜び、互いに顔を見合わせた。まだ声は出ないものの、その瞳には確かな希望の光が宿っていた。
だが、奇跡には、やはり代償が必要だった。
物語を紡ぐごとに、私の内側から何かが消えていく。それは、色彩が失われる感覚に似ていた。最初に「小川のせせらぎ」を紡いだ時、子供の頃に父と魚釣りに行った夏の日の記憶が、陽炎のように揺らめいて消えた。父の笑い声が、川面のきらめきが、私の頭の中から完全に消え去った。
次に「蜂の羽音」を紡いだ時、母が庭で育てていた蜜のように甘い香りのする花の記憶が色褪せた。花の名前が思い出せない。母がその花を愛でていた時の優しい横顔が、靄のかかった風景画のようにぼやけていく。
恐怖が、冷たい蔓のように心臓に絡みついてくる。失うのは、ただの思い出ではない。それは私という人間を形作る、土台そのものだった。エリオとの記憶を失うのが怖くて、私は人の声に関する物語を紡ぐことを躊躇した。だが、市場で、身振り手振りだけで必死にリンゴを売ろうとする老婆の姿を見た時、私は再びペンを取らざるを得なかった。
「少女の歌声は、澄んだ泉の水のように。少年の笑い声は、弾ける木の実のように」
その一文を書き終えた瞬間、激しい喪失感に襲われた。何かが、ごっそりと抜け落ちた。温かくて、少し照れくさくて、私の胸をずっと支えてくれていた何か。それが何だったのか、もう思い出せない。ただ、頬を伝う涙だけが、それがかけがえのないものであったことを教えていた。
ふと顔を上げると、窓の外から微かな声が聞こえた。子供たちが、たどたどしく、しかし確かに、笑い合っている。その声を聞いた村人たちが、堰を切ったように泣きじゃくり、そして、互いの名前を呼び合った。
村は音を取り戻した。だが、私の世界は、音を失うよりもっと深刻な、色のない静寂に包まれ始めていた。私は、誰なのだろう。この涙は、一体誰のために流れているのだろう。
第三章 物語の挿絵
村は完全に元の姿を取り戻した。いや、以前にも増して生命力に溢れていた。人々は音のありがたみを噛みしめるように、歌い、語らい、笑い合った。その光景を、私は遠くから、まるで他人事のように眺めていた。
最後の仕上げとして、私は村全体を祝福する、最も力強い物語を紡いだ。「この地に、永遠の喜びと、絶えることなき音楽の祝福を」。それを書き終えた時、私の内側で最後の何かが砕け散った。それは、この「言紡ぎ」の力を得た最初の記憶。自分が何者で、どこから来たのか、その根源に関わる部分だった。
私は、空っぽになった。名前も、過去も、愛した人々の顔も、全てが遠い霞の向こうにある。ただ、ぼんやりとした喪失感だけが、冷たい霧のように心を覆っていた。
その時だった。
私の目の前の空間が、インクを水に垂らしたように、静かに歪んだ。そして、光の粒子が集まり、一人の人影を形作った。その姿は男でも女でもなく、年齢も分からない。ただ、星空を映したような深い瞳と、古びた羊皮紙のような色の衣をまとっていた。
「見事な物語でした、言紡ぎよ」
その声は、風の音にも、水の音にも、そして紙をめくる音にも聞こえた。
「あなたは…誰?」私の口から、かろうじて言葉がこぼれた。
「私は、あなたが紡いだ物語そのもの。いわば、物語の守り人です」
守り人は、そっと手を差し伸べた。すると、私が書き綴った羊皮紙が宙に舞い上がり、目の前でひとりでにページをめくり始めた。
「あなたは、記憶を失ったと思っている。だが、それは間違いです」
守り人の言葉に、私は目を見開いた。羊皮紙のあるページが、私の目の前で止まる。そこには、私が紡いだ「夏の日の小川」の物語が書かれていた。しかし、文字の間で、淡い光が瞬いていた。目を凝らすと、そこには信じられない光景が広がっていた。
幼い私が、屈託なく笑う父親の隣で、小さな魚を掲げてはしゃいでいる。川面は太陽の光を浴びてきらめき、木々の緑が目に鮮やかだ。それは、私が失ったはずの記憶、そのものだった。
「あなたの記憶は、消滅したのではありません。あなたが紡いだ物語を彩る、『挿絵』として、ここに封じ込められているのです」
守り人は続けた。「あなたは、自らの最も美しい瞬間を差し出すことで、世界に奇跡をもたらした。あなたの記憶は、物語の中で永遠に生き続けている」
羊-皮紙が次々とめくれていく。母が庭で微笑む姿。友人たちと焚き火を囲む夜。そして、エリオという名の、もう顔も思い出せない少年と、夕焼けの丘で手を繋いでいる光景。どれもが、息をのむほど美しく、そして切ない挿絵となって、物語を飾っていた。涙が、後から後から溢れてきた。忘れていたはずの温かい感情が、胸の奥から込み上げてくる。
「言紡ぎよ」と、守り人は静かに告げた。「あなたの物語は、まだ終わっていない。最後の章が、白紙のまま残されている。その最後の章をどう紡ぐかで、あなたの運命が決まります」
守り人は、私の前に二つの選択肢を提示した。
「一つは、『記憶を取り戻す』物語を紡ぐこと。そうすれば、全ての挿絵はあなたの元に戻り、あなたは自分自身を取り戻すでしょう。しかし…あなたの記憶を礎として安定しているこの世界の理は崩れ、村は再び無音の病か、あるいはそれ以上の混沌に襲われる危険がある」
「もう一つは、このまま物語を完成させること。世界は完全に安定し、人々は永く平和に暮らすでしょう。しかし、あなたは言紡ぎとしての役目を終え、あなたという個の存在は、この世界から静かに消え去る。人々はあなたのことを忘れ、ただ美しい物語だけが残るのです」
自己を取り戻すか、世界を救うか。あまりにも残酷で、あまりにも優しい、究極の選択だった。
第四章 最後の言紡ぎ
私は、宙に浮かぶ物語の挿絵たちを、ただ黙って見つめていた。陽光の中で輝く父の笑顔。優しい眼差しを向ける母の顔。そして、私の手を握る、エリオの不器用で温かい指先。それらは、私が失った過去の断片であると同時に、私が命を懸けて守りたかった、愛に満ちた世界の証明でもあった。
記憶を取り戻したい。自分が誰であったのかを知りたい。この胸を締め付ける喪失感を埋めたい。その欲求は、嵐のように激しく私を揺さぶった。だが、その記憶の中の父や母、そしてエリオは、この上なく幸せそうに笑っているのだ。私が彼らを忘れた世界で、彼らは音を取り戻し、今も笑っている。私の記憶を犠牲にして手に入れた、その笑顔を、どうして再び奪うことなどできようか。
私は、ゆっくりと顔を上げた。涙は、もう流れていなかった。心は、凪いだ湖のように静かだった。
「決めました」
私は、守り人に向かって、はっきりと告げた。「私は、この物語を完成させます」
守り人の星空のような瞳が、わずかに揺らめいたように見えた。私は、白紙のまま残された最後の羊皮紙に向き合い、ペンを握った。これが、私が紡ぐ最後の言葉。私という存在の、最後の証。
インクをつけ、私は静かに書き始めた。それは、誰かを英雄にする物語でも、奇跡をうたう物語でもなかった。
「少女がいた。彼女は、たくさんの美しいものを愛していた。風が草を揺らす音を、雨上がりの土の匂いを、そして、人々の飾らない笑い声を。彼女は、その全てが永遠に続くことを、心から願った。彼女の名前は、もう誰も覚えていない。彼女の姿も、もう誰も思い出すことはない。けれど、彼女の願いは、この世界のあらゆる場所に宿っている」
ペンを走らせる。
「もし、あなたがふと、理由もなく温かい気持ちになったなら、それは彼女が愛した太陽の光の名残かもしれない。もし、あなたが優しいメロディを口ずさんだなら、それは彼女が紡いだ風の歌の響きかもしれない。彼女は、もうどこにもいない。けれど、彼女は、どこにでもいるのだ。この愛おしい世界が続く限り、彼女の紡いだ物語は、決して終わらない」
最後の言葉を書き終え、ペンを置いた瞬間、私の身体が、足元からゆっくりと光の粒子になっていくのが分かった。消え去る恐怖はなかった。むしろ、大きな安らぎと、達成感に満たされていた。
私は、最後に物語の挿絵に目をやった。夕焼けの丘で手を繋ぐ私とエリオの絵。そうだ、思い出した。あの日、彼は私に花をくれたんだ。私の名前は、リラ。私は、愛する人々の笑顔を守りたかった、ただの村の娘。
「ありがとう」
誰に言うでもなく呟いたその言葉は、音になる前に光の粒となって、風に溶けていった。
***
村には、穏やかな日々が流れている。人々は、どうして村が無音の病から救われたのか、その正確な理由を知らない。ただ、いつの頃からか、村には一つの美しい物語が伝わっていた。それは、音の素晴らしさ、生命の輝きをうたった、不思議で心温まる物語。
人々は、その物語を愛し、親から子へ、子から孫へと語り継いだ。なぜだか分からないが、その物語を聞くと、胸の奥がじんわりと温かくなるのだった。
ある晴れた午後、エリオは丘の上に立ち、眼下に広がる村を眺めていた。風が彼の髪を優しく撫で、どこからか運ばれてきた花の甘い香りが鼻をくすぐる。彼は、ふと胸に手を当てた。時折、理由もなく、ここに誰かが立っているような、そんな不思議な感覚に襲われることがある。それは、切ないようでいて、どこまでも優しい感覚だった。
彼は空を見上げる。澄み渡る青空に、一筋の光がキラリと輝いて消えた。まるで、誰かが微笑んだかのように。エリオも、つられるように、そっと微笑んだ。
世界は、今日も美しい音で満ちている。