虚無晶のアルケミスト

虚無晶のアルケミスト

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第一章 虚ろな心と黒い石

人々が感情を宝石に変える街、アウリエル。喜びは陽光を閉じ込めた黄水晶に、深い悲しみは夜空の欠片のような青藍石に、そして燃えるような怒りは血のように赤い柘榴石へと結晶化する。街は常に、人々がこぼす微細な情晶石の煌めきで満ち、カラン、コロンと澄んだ音を立てて石畳を転がっていた。それは世界の祝福であり、富の源泉だった。

僕、リヒトは、その祝福の外側にいた。物心ついた頃から、僕の心は凪いだ湖面のようで、強い感情という波が立ったことがない。両親の葬儀でさえ、一粒の青藍石も流せなかった僕を、親戚たちは「空っぽ(ガランドウ)」と呼んだ。情晶石の加工を生業とする家系において、石を生み出せない僕は、存在そのものが欠陥品だった。

今日も僕は、工房の片隅で、他人が生み出した石を研磨する。恋人たちが囁き合いながらこぼした甘美な桃水晶、武闘大会の勝者が誇らしげに流した栄光の金剛石。それらは美しかったが、僕の心には何も響かない。ただの作業。ただの、色のついた石ころだ。

そんな無為な日々が続くと思っていた。あの日、祖父の遺した古い書斎を整理するまでは。埃っぽい棚の奥、幾重にも布で包まれた小さな木箱があった。開けてみると、中には奇妙な石が一つ、鎮座していた。

それは、黒。光を飲み込むような、 абсолюート(絶対的)な黒だった。どんな情晶石とも違う。喜びも、悲しみも、怒りも、何の色も帯びていない。まるで、世界のどこかに空いた穴のようだった。そっと指で触れる。ぞくり、と背筋に冷たいものが走った。石に触れた指先から、自分の存在が希薄になっていくような、形容しがたい喪失感に襲われる。それは恐怖とは違う、もっと静かで、底なしの虚無だった。

僕は生まれて初めて、胸の奥に微かな疼きを感じた。これは、なんだ? この石は、一体何なのだ? それは「好奇心」と呼ぶにはあまりに淡く、だが確かに僕の中で生まれた、初めての感情の萌芽だった。僕はその黒い石を、誰にも見つからないよう、自分の部屋の奥深くに隠した。僕だけの秘密。僕だけの、謎。虚ろだった僕の世界に、初めて一つの問いが立った瞬間だった。

第二章 色彩の少女と無色の僕

黒い石の正体を突き止めようと、僕は街の古文書館に通い始めた。そこは、忘れられた歴史とインクの匂いが染み付いた場所。僕のような若者が足を運ぶことは珍しく、白髪の館長は怪訝な顔をしながらも、書庫への立ち入りを許可してくれた。

「感情鉱物学大系」「稀少晶石図鑑」…手当たり次第にページをめくったが、あの黒い石に関する記述はどこにもない。すべての情晶石は、光を透過、あるいは反射する性質を持つとされている。光を吸収し尽くす石など、理論上ありえないのだ。

行き詰まりを感じていたある日、背後から声をかけられた。

「あの、何かお探しですか?」

振り返ると、そこに立っていたのは、太陽のかけらを髪に編み込んだような少女だった。彼女が瞬きをするたびに、睫毛からキラキラと輝く黄水晶の粒がこぼれ落ち、床で愛らしい音を立てた。エラ。街で一番のパン屋の娘で、その底抜けの明るさと豊かすぎる感情で有名だった。彼女の周りは、いつも幸福の色で溢れている。

「別に…」

素っ気なく答える僕に、エラは臆することなく隣に座った。

「いつも難しい顔をして本を読んでるから。私、あなたのこと、ちょっと気になってたんです」

彼女が微笑むと、今度は頬から柔らかな桃水晶が一つ、ころりと転がり出た。慈愛の色だ。僕とは正反対の存在。眩しくて、目を細めてしまう。

「僕は君とは違う。感情なんて、ほとんどない」

「知ってます。『空っぽのリヒト』さんでしょ?」

悪意のない、あまりに率直な言葉に、僕は思わず黙り込んだ。だが、エラは続けた。

「でも、私、そうは思わないな。だって、あなたの目、すごく静かな湖みたい。いろんな色が溶けたら、きっとすごく綺麗なのにって思う」

それから、エラは僕の調査に付き合うようになった。彼女は僕が探している石のことを話すと、「わくわくする!」と言って、僕以上に目を輝かせた。そのたびに零れる情晶石の色彩は、僕のモノクロームの世界に、少しずつ色を落としていくようだった。

エラと共に過ごす時間は、奇妙な心地よさがあった。彼女が笑えば僕も口元が緩み、彼女が古い物語に悲しめば、僕の胸にも鈍い痛みが走る。石にはならない、ごく微かな感情の揺らぎ。エラは僕を「空っぽ」だと言わなかった。ただ、僕を「リヒト」として見てくれた。僕はいつしか、彼女がこぼす情晶石の輝きを、ただの石ころではなく、美しいものだと感じるようになっていた。

第三章 禁忌の真実と世界の叫び

エラが見つけてきた、ひどく損傷した古文書。それは「異端アルケミストの手記」と呼ばれる禁書だった。その最後の一節に、僕たちは探していた答えを見つけた。

『――究極の感情、それは無。歓喜も悲嘆も越えた先にある完全なる静寂。その心が生み出すは、凡百の情晶を喰らう虚無の結晶、"虚無晶(こむしょう)"。それは世界の彩りを無に帰し、感情の因果律そのものを破壊する禁忌の石なり』

虚無晶。僕が持っている、あの黒い石。それは「無」という感情から生まれたものだった。僕が「空っぽ」だからこそ、生み出し得た石。そして、他の情晶石を喰らい、無に還す力を持つ…。愕然とする僕の隣で、エラは息をのんだ。

その瞬間だった。ゴウッ、と地鳴りのような轟音が街を揺るがした。窓の外を見ると、街の中心に聳え立つ巨大な塔――都市のエネルギーを賄う「情晶炉」から、禍々しい光が天を突いている。情晶炉は、市民から集められた多種多様な情晶石を溶かし込み、巨大なエネルギーを生み出す街の心臓部だ。その心臓が、今、暴走していた。

「どうして…!?」

街へ飛び出すと、そこは地獄絵図だった。暴走した情晶炉は、まるで飢えた獣のように周囲の情晶石を無差別に吸収し始めた。建物に使われている石、人々が装飾品として身につけている石、そして、道に転がる無数の石たちが、光の帯となって炉に吸い込まれていく。

人々はパニックに陥り、恐怖(紫水晶)や絶望(濁った灰水晶)の結晶を滝のように流した。しかし、それが悲劇を加速させた。溢れ出た負の感情の結晶が、さらに炉のエネルギーを増幅させ、破壊の力を増大させていく。

「やめて! 感情を抑えて!」

誰かが叫ぶが、恐怖に支配された人々にその声は届かない。この街の繁栄を支えてきた「感情の豊かさ」が、今、街そのものを滅ぼそうとしていた。

僕は立ち尽くす。僕が欠陥だと信じてきたもの。僕が持たなかったもの。その「感情」が、世界を壊している。皮肉な真実に、頭を殴られたような衝撃が走った。人々が泣き叫び、色とりどりの絶望が乱舞する中で、僕だけが、何も感じず、何も生み出さず、ただ静かにそこに立っていた。

エラが僕の腕を掴んだ。彼女の瞳からは、大粒の青藍石が後から後から溢れ落ちている。

「リヒトさん…怖い…!」

その青い輝きが、情晶炉に吸い寄せられるのを見て、僕は悟った。

この狂った奔流を止められるものが在るとすれば。それは、すべての彩りを飲み込む、あの黒い石だけだ。僕の「空っぽ」だけだ。

第四章 空っぽが満たされる時

「僕が行く」

決意を込めた声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。

「だめ! 行ったらあなたまで吸い込まれちゃう!」

エラが必死に僕を引き留める。彼女の流す悲しみの石が、僕の足元で砕ける音がした。僕は振り返り、初めて彼女の目をまっすぐに見つめた。

「君たちの豊かな感情を守るために、僕の空っぽを使うんだ。僕にしか、できないことなんだ」

懐から虚無晶を取り出す。それは、周囲の狂乱の光を嘲笑うかのように、静かな闇を湛えていた。僕はそれを握りしめ、暴走する情晶炉の中心へと走り出した。人々が逃げ惑う流れに逆らって、ただ一人、破壊の中心へ。

炉の間近は、嵐のようなエネルギーが渦巻いていた。様々な感情が混ざり合った不協和音が鼓膜を突き破りそうだ。中心部には、巨大な亀裂が走り、眩い光が溢れ出ている。あそこだ。

僕は立ち止まり、目を閉じた。そして、自らの内にある「無」と向き合った。これまで感じてきた疎外感。誰にも理解されない孤独。色のない世界に生きるしかなかった、底なしの虚無。それは僕の痛みであり、僕自身だった。だが今は、それを嘆かない。受け入れる。これが僕なのだと。

心のすべてを集中させる。僕の虚無よ、形になれ。すると、胸の奥から冷たい何かがせり上がってくる感覚があった。それは涙のように頬を伝い、ぽつり、と手の中に落ちた。目を開けると、そこには僕がこれまで見たこともないほど大きく、そして深く、美しい虚無晶が生まれていた。それは僕が初めて、自らの意志で生み出した、僕の魂の結晶だった。

僕はそれを、力の限り、炉の亀裂へと投げ込んだ。

黒い石は、すべての光を飲み込むブラックホールのように、暴走するエネルギーを吸い込み始めた。悲鳴を上げていた光と音が、一瞬で沈黙に変わる。渦巻いていた色彩が、黒に染め上げられ、そして――消えた。

街を覆っていた禍々しい光が嘘のように消え去り、絶対的な静寂が訪れた。僕はその場に崩れ落ち、意識が遠のいていくのを感じた。

次に目覚めた時、僕は自分の部屋のベッドにいた。窓から差し込む光は、以前と何も変わらない。だが、世界は決定的に変わってしまっていた。

「…リヒトさん」

そばにはエラがいた。彼女の瞳は少し赤いが、そこから情晶石がこぼれることはなかった。

「虚無晶が、情晶炉の力を中和したみたい。それだけじゃなくて…この世界の誰も、もう感情を石に変えることができなくなったの」

世界から、情晶石は失われた。富の源泉も、エネルギーも、あの美しい煌めきも。僕は、この世界の彩りを奪ってしまったのだ。だが、窓の外から聞こえてくるのは、絶望の声ではなかった。人々の話し声、笑い声、子供の駆け回る足音。それは、石に頼らない、生身の感情の音だった。

エラが僕の手を握った。その手は温かかった。

「みんな、最初は戸惑ってた。でもね、すぐに気づいたの。石がなくても、言葉で伝えられるって。こうして、手で触れられるって」

彼女は微笑んだ。その時、彼女の頬を、一筋の透明な雫が伝った。それはただの水だったが、僕が今まで見てきたどんな宝石よりも、美しく見えた。

僕の胸の奥に、温かい何かがじんわりと広がっていく。それは喜びでも悲しみでもない、穏やかで満ち足りた感情。僕はずっと「空っぽ」だと思っていた。だが、違った。この静かな充足感こそが、僕の心だったのだ。

僕は、生まれて初めて、かすかに微笑んだ。情晶石なき世界で、僕たちの本当の物語が、今、始まろうとしていた。

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