残響の巡礼者

残響の巡礼者

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第一章 触れられぬ旋律

リノは呪われた調律師だった。彼がその繊細な指先で触れるものは、楽器に限らず、ありとあらゆる物体の「最後の記憶」をその脳裏に焼き付けた。それは、捨てられた椅子が感じた雨の冷たさであったり、古書が最後に映した読み手の涙であったり、あるいは、使い古されたカップが受け止めた最後の温もりであったりした。他人の記憶の断片は、絶え間なくリノの世界に流れ込み、彼の心を静かに侵食していく。だから彼は、極力何にも触れず、誰とも深く関わらず、まるで薄氷の上を歩くように生きていた。手袋は、彼の皮膚であり、世界との隔壁だった。

そんな彼のアトリエの扉を叩いたのは、秋風が最初の冷たさを運び始めた日の午後だった。現れたのは、背筋をしゃんと伸ばした、銀髪の老婦人。エマと名乗る彼女の依頼は、リノがこれまで受けたどんな調律の仕事よりも奇妙なものだった。

「これを、捨ててきてほしいのです」

彼女がテーブルの上に置いたのは、紫檀の木で作られた小さなオルゴールだった。細やかな鳥の彫刻が施され、長年大切にされてきたであろう滑らかな艶を放っている。

「伝説の『音喰い谷』へ。あそこは、世界中のあらゆる音を喰らい、完全な沈黙をもたらす場所だと聞いております」

リノは眉をひそめた。「なぜです? こんなにも美しいものを。壊れているのなら、私が修理を…」

「いいえ、壊れてなどいません」エマは静かに首を振った。「むしろ、完璧すぎるのです。このオルゴールの奏でる旋律は、あまりに美しく、そして…あまりに悲しい。亡き夫が遺したこの音は、今や私の心を苛むだけ。どうか、この音を世界から完全に消し去ってください」

その瞳に宿る深い哀しみに、リノは抗えなかった。そして、何より彼を捉えたのは、好奇心だった。彼は依頼を引き受ける条件として、一度だけそのオルゴールに触れる許可を求めた。エマは一瞬ためらったが、静かに頷いた。

リノが手袋を外し、冷たい指先でそっとオルゴールの側面に触れた瞬間、記憶の奔流が彼を襲った。

陽光が満ちる部屋。窓辺で微笑むエマの若き日の姿。そして、彼女を見つめる温かい眼差し。愛おしさに満ちた感情が、まるで春の陽気のようにリノの心を包む。だが、その光景はすぐに色褪せ、深い影が差し込む。病床の苦悶、掠れた呼吸、そして、言葉にならない想いを旋律に託そうとする、必死の願い。温もりと絶望が混じり合った、あまりに濃密な記憶。

リノは息を呑んで手を引いた。

「わかりました。その谷へ、私が運びましょう」

彼の冒険は、一つの音を消し去るための、沈黙への旅として始まった。

第二章 風紋の道標

音喰い谷への道は、地図にも載らない風の道標を頼りに進む、過酷な旅路だった。リノは紫檀のオルゴールを厚い布で幾重にも包み、決して素肌が触れぬよう背負った。それでも、彼の呪われた能力は、道中のあらゆるものから記憶を吸い上げてしまう。

乾いた荒野に転がる動物の白骨に触れれば、餓えと渇きの最後の苦悶が喉を焼いた。打ち捨てられた農家の扉に手をかければ、去りゆく家族の後ろ姿を見送る、家の嘆きが胸に響いた。記憶はどれも断片的で、脈絡がない。しかし、その一つ一つが持つ「終わり」の感触は、リノの精神を着実に削っていく。彼は自分が、世界の巨大な墓標を巡る巡礼者のように思えた。

旅が数週間を過ぎた頃、リノは深い森で道に迷った。疲労困憊し、雨宿りのために身を寄せた大樹の洞で、彼はついに限界を感じていた。降りしきる雨音と、まとわりつく無数の記憶の残滓。孤独と疲労が、彼の理性を麻痺させていく。

その時、不意に背中の荷物から、くぐもった音がした。振動で留め金が緩んだのか、オルゴールが微かな音を立てたのだ。

ポロロン、と。

それは、水面に落ちた雫が作る波紋のように、澄み切った音だった。たった一音。しかし、その音は森のざわめきや雨音を貫き、リノの鼓膜を直接震わせた。彼ははっと息を呑んだ。

消し去るべき音。依頼主を苦しめる悲しみの旋律。そう頭では理解しているのに、彼の心は、その音の続きを渇望していた。

この音を、本当に消してしまっていいのだろうか。

エマの夫が託したという、この旋律の正体は何なのだ。

リノは衝動的に、オルゴールを包む布を解きかけた。だが、指先が木肌に触れる寸前で思いとどまる。最後の記憶を見てしまえば、この旅の意味そのものが変わってしまうかもしれない。彼は再び布を固く結び、オルゴールを胸に抱いた。雨上がりの冷たい空気の中、リノは決意を新たにする。この旅を終わらせるまでは、決してこの音の正体に触れてはならない、と。

第三章 音喰い谷の真実

幾多の山を越え、乾いた川床を渡り、リノはついに音喰い谷の入り口に立った。そこは、巨大な大地の裂け目だった。風が絶えず谷底から吹き上げ、奇妙な唸り声を上げている。しかし、その風の音以外、鳥の声も、虫の音も、木の葉のざわめきすら聞こえない。伝説通り、谷はあらゆる音を吸い込み、世界から隔絶された沈黙の領域を作り出しているかのようだった。

リノは崖の縁に立ち、眼下に広がる深い闇を見下ろした。ここへ投げ込めば、あの美しい旋律は二度と誰の耳にも届くことはない。エマの悲しみも、この谷の沈黙に溶けて消えるだろう。

彼は背中の荷物を下ろし、丁寧に包まれたオルゴールを取り出した。紫檀の木肌が、淡い陽光を浴びて鈍く輝いている。

これで、終わりだ。

リノはオルゴールを高く掲げ、谷底へと投げ込もうとした。

その瞬間。彼の脳裏を、旅の道中で触れた数多の「最後の記憶」が駆け巡った。餓えた獣、見捨てられた家、そして、オルゴールに触れた時に見た、エマを見つめる夫の温かい眼差し。

それらはすべて、忘れ去られることを望んでいなかった。ただ、誰かに記憶されることを、存在した証を留めることを、願っていたのではないか。

この音を消すことは、本当に正しいことなのか?

リノの指が、震えた。決心が鈍り、揺らいだその時、彼の指先が、滑るようにオルゴールの鳥の彫刻に触れてしまった。

―――閃光。

再び、あの記憶が、今度はさらに鮮明に流れ込んできた。

病に侵され、痩せ細ったエマの夫。彼の指はもう、ペンを握る力さえ残っていない。声も、とうに失われている。ベッドの傍らで、涙をこらえるエマの横顔。夫は、最後の力を振り絞り、枕元のオルゴールを指さした。そして、弱々しくネジを巻く。

流れ出す、澄み切った旋律。

それは、言葉ではなかった。しかし、リノにははっきりと聞こえた。音のひとつひとつが、文字となり、想いとなって響いてくる。

『愛している、エマ。僕がいなくなっても、悲しまないで。この音色が、僕の最後の言葉だ。僕の代わりに、君を慰め、君を守ってくれるように。だから、どうか、笑っていて』

オルゴールは、悲しみの旋律などではなかった。それは、遺される妻への、究極の愛の言葉であり、祝福の祈りだったのだ。

リノは愕然とした。そして、同時に、風の唸り声の中に、別の音を聞いた。それは、微かで、幾重にも重なった、美しい残響。歌声、祈りの言葉、赤子の産声のような音。

彼は悟った。

音喰い谷。その名は、音を「喰らう」谷ではなかった。谷の特殊な岩肌と風の流れが、中で発せられた音を無限に反響させ、決して消えることなく保存し続けるのだ。古の人々は、忘れられたくない大切な音を、永遠に残すためにこの谷へ「奉納」してきたのだ。「喰う」のではなく、「食(は)む」。慈しみ、育み続ける場所。

エマは、夫の最後の言葉を消し去りたかったのではない。聞くたびに悲しみに打ちひしがれるその音を、手放したいと願いながらも、同時に、永遠に失いたくないと渇望していたのだ。だから、この谷へリノを送り出した。消す、という名目の、永遠の保存。そのあまりに切ない矛盾した願いの真意を悟り、リノは天を仰いだ。

第四章 残響の巡礼者

リノは、もはや迷わなかった。彼は崖の縁に膝をつき、紫檀のオルゴールを両手でそっと掲げた。そして、優しく、慈しむように、その小さなネジをゆっくりと巻いた。

カチ、カチ、と小気味よい音がリノの指先に伝わる。やがて、澄み切った旋律が解き放たれ、谷間に響き渡った。それは、一人の男が最愛の妻に捧げた、最後の「愛している」という言葉だった。

風がその音をさらい、谷底へと運んでいく。すると、谷全体が巨大な共鳴箱になったかのように、その旋律を増幅させ、幾重にも重なる美しい残響に変えた。一つの音が百の音になり、千の音になる。それはもはや、単なるオルゴールの音ではなく、時を超えた愛の交響曲だった。

リノは目を閉じ、その音に耳を澄ませた。

彼の呪いだったはずの能力。触れたものの「終わり」を見てしまう、忌まわしい力。しかし、今、この瞬間、彼は初めてそれを祝福だと感じていた。失われた想いを、忘れ去られた記憶を、掬い上げることができるのは、自分だけなのだ。自分は、終わりを看取るのではなく、永遠へと繋ぐための存在なのかもしれない。

彼は、ただ依頼をこなす孤独な調律師ではない。記憶の巡礼者なのだ。

オルゴールの音が、谷に響き渡る古の音と溶け合っていく。リノは、その残響の中に、旅の途中で触れた名もなき記憶たちの魂もまた、救われていくような気がした。

リノはエマの元へは戻らなかった。報酬も、もう必要なかった。彼女の願いは、最高の形で叶えられたのだから。それを報告するのは野暮というものだろう。

彼は、谷に背を向け、新たな道を歩き始めた。目的のない旅ではない。明確な意志を持った、巡礼の旅だ。この世界には、まだ誰にも知られず、静かに消えようとしている無数の「最後の記憶」が埋もれている。それらを見つけ出し、あるものは然るべき人の元へ、またあるものは、この音喰い谷のような永遠の場所へ届ける。それが、彼の新しい冒険だった。

数カ月後、とある港町の古物商の店先で、リノは足を止めた。そこに置かれていたのは、一脚の古びた揺り椅子。ペンキは剥げ、軋んだ音を立てそうだ。彼は手袋を外し、その背もたれに、そっと指を触れた。

流れ込む、温かい記憶。赤ん坊を抱いた母親が、優しい子守唄を口ずさみながら、ゆっくりと椅子を揺らしている。幸せに満ちた、穏やかな午後の記憶。

リノは、かすかに微笑んだ。彼の横顔には、もうかつてのような孤独の影はなく、穏やかで力強い光が宿っていた。

「君の最後の記憶は、とても優しい歌だったんだね」

彼は静かに呟くと、再び歩き出す。彼の冒険は、まだ始まったばかりだった。

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