第一章 歌守りの掟
リノの暮らす里では、感情は災厄と同義だった。
喜びは油断を、悲しみは判断を、怒りは理性を、それぞれ蝕む毒だと教えられて育つ。里の民は皆、凪いだ水面のような表情を崩さず、声の抑揚さえも抑制して日々を過ごしていた。彼らは「歌守り」の一族。遠い祖先が感情の奔流によって大いなる過ちを犯したという、もはや誰も真偽を確かめようとしない伝説を、鉄の掟として遵守していた。
彼らの唯一の例外、それが「始まりの歌」だった。
意味も由来も忘れ去られたその歌は、一年に一度、冬至の夜にだけ、次代の歌守りとなる若者によって歌われる。それは感情を伴わない、ただ音階と歌詞を正確に再現するだけの、無機質な儀式に過ぎなかった。
その年の歌い手は、リノだった。
祭壇の中央に置かれた黒曜石の石盤の前で、彼は深く息を吸い、教えられた通りの旋律を唇から紡ぎ出した。彼の声は澄んでいたが、何の彩りもなかった。里の誰もがそうであるように。
だが、その夜は違った。
リノが歌の最後のフレーズを終えた瞬間、静寂を破って、石盤が低く、長く、呻るような音を立てた。これまで何世紀もの間、ただの黒い石塊でしかなかった物体が、まるで長い眠りから覚めたかのように震えている。
リノが驚きに目を見開くと、石盤の表面に刻まれた微細な文様が淡い光を放ち始めた。光はすぐに無数の粒子となり、蛍のようにふわりと宙へ舞い上がる。長老たちの息を呑む気配が、張り詰めた空気を揺らした。
光の粒子はしばらくの間、祭壇の上で渦を巻いていたが、やがて一つの流れにまとまり、北の空、その一点を指し示して静止した。まるで、見えざるコンパスの針のように。
「不吉じゃ……」
誰かが震える声で呟いた。掟を破るもの。平穏を乱すもの。里の空気は、恐怖と猜疑心で急速に冷えていく。
しかし、リノの心には、生まれて初めて、掟では説明できない何かが芽生え始めていた。それは恐怖ではなかった。名状しがたい、胸の奥が疼くような感覚。光の針が指し示す北の果てに、自分を解き放つ何かがあるのではないか。この息苦しいほどの静寂から、自分を救い出してくれる答えがあるのではないか。
「行きます」
リノの声は、自分でも驚くほどはっきりと響いた。
「歌が、石盤が示している場所へ。これが我々『歌守り』の真の使命なのかもしれない」
長老たちの制止を振り切り、彼は旅の支度を始めた。羅針盤も地図もない。頼れるのは、頭の中に刻み込まれた「始まりの歌」の旋律と、あの光が指し示した方角だけ。
感情を知らない青年リノの、自らの存在理由を問う冒険が、こうして静かに始まった。
第二章 旋律の道標
北へ向かう旅は、リノが想像していた以上に過酷だった。
頼りとなる「始まりの歌」は、あまりに抽象的で、謎に満ちていた。
『三つ目の峰が涙するとき、谷間の獣道が開かれる』
歌詞の一節を頼りに、彼は連なる山脈の麓で三日間、ただ待ち続けた。空は無情なほど青く澄み渡り、リノの心は乾いていく。食料は減り、孤独が精神を削り取っていく。自分は歌詞を誤って解釈しているのではないか。すべては妄想なのではないか。疑念が鎌首をもたげたとき、空がにわかに曇り、冷たい雨が降り始めた。見上げると、三つの頂を持つ岩山が、雨に濡れて黒く光り、まるで涙を流しているかのように見えた。そのとき、雨水が特定の岩肌を洗い流し、今まで気づかなかった獣道が、黒い筋となって眼前に現れたのだ。
歌は、真実だった。
リノは歌を口ずさみながら歩き続けた。歌うことで、不思議と身体の芯に力が満ちるのを感じた。歌は道標であると同時に、彼自身を支える杖でもあった。
旅の途中、彼は小さな村に立ち寄った。そこで目にした光景は、リノにとって衝撃的だった。人々は、些細なことで大声で笑い、肩を抱き合い、時には言い争って怒鳴り、そして、友の旅立ちには涙を流して別れを惜しんでいた。
感情の洪水。リノの里では最も忌むべき光景が、そこでは日常として息づいていた。戸惑いながらも、彼はその光景から目が離せなかった。焚き火を囲んで歌い踊る村人たちの輪に、恐る恐る加わってみる。彼らの歌は、リノが知る「始まりの歌」とは全く違っていた。音程はずれで、歌詞も即興。だが、そこには生命力としか言いようのない熱があった。
一人の少女が、リノに木彫りの人形を手渡して、花が咲くように笑った。リノは礼を言おうとしたが、唇がうまく動かない。どういう表情で、どういう声で応えればいいのか分からなかった。ただ、胸の奥が温かくなるような、それでいて少し苦しいような、未知の感覚に襲われた。
「あんたの故郷は、どんなところだい?」
村の長が尋ねた。
「静かな……場所です」
リノは答えた。「私たちは、感情を表に出しません。それが掟なので」
長は驚いたように目を見開いたが、やがて深く、慈しむような眼差しでリノを見た。
「笑わずにどうやって喜びを分かち合うんだい? 泣かずにどうやって悲しみを洗い流すんだい? 感情は、厄介なこともある。だがな、若者よ。それは、生きている証そのものじゃよ」
長の言葉は、リノの心に深く突き刺さった。里の教えが、初めて揺らいだ瞬間だった。感情は本当に、ただの災厄なのだろうか。この胸の温かさは、毒なのだろうか。答えの出ない問いを抱えながら、リノは再び北へ向かって歩き出した。彼の口ずさむ歌に、ほんのわずかな、彼自身も気づかないほどの揺らぎが生まれていた。
第三章 静寂の谷の答え
幾多の困難を乗り越え、歌の最後の節が示す場所へ、リノはついにたどり着いた。
『最果ての地、音なき風が魂を撫でる場所』
そこは「静寂の谷」と呼ばれていた。壮大な遺跡も、輝く秘宝も、そこにはなかった。ただ、荒涼とした岩と砂が広がり、風が奇妙な音を立てて吹き抜ける、空虚な空間があるだけだった。
リノは膝から崩れ落ちた。
旅は、無意味だったのか。一族の掟を破り、孤独と危険に身を晒した結果が、この空っぽの土地だというのか。
絶望が、冷たい霧のように心を覆っていく。これまで抑制してきた何かが、堰を切ったように溢れ出しそうになる。彼は、無意識に「始まりの歌」を口ずさんでいた。声は震え、途切れ途切れだった。
すると、信じられないことが起こった。
リノの歌声に呼応するように、谷を吹き抜ける風の音が変わった。ただの風音ではない。それは、リノの歌う旋律と寸分違わず重なり合い、壮大なハーモニーとなって谷全体に響き渡ったのだ。
谷そのものが、巨大な楽器となって歌っているかのようだった。
その音の奔流に包まれた瞬間、リノの脳内に、奔流の如く映像と感覚が流れ込んできた。
それは、遥か昔の、祖先の記憶だった。
豊かな感情を持ち、笑い、泣き、愛し合っていた祖先たちの姿。しかし、あるとき、彼らの強すぎる感情が、憎しみと争いを生み、大きな災いを引き起こしてしまった。生き残った者たちは、感情の力を恐れた。そして、未来の子孫たちが同じ過ちを繰り返さぬよう、感情を抑制する掟を作った。
だが、彼らは感情を憎んでいたわけではなかった。むしろ、その素晴らしさを誰よりも知っていた。だから、彼らは最後の希望を遺したのだ。
それが、「始まりの歌」だった。
この歌は、物理的な場所への道しるべではなかった。それは、失われた感情を取り戻すための、壮大な「魂の地図」だったのである。
旅の途中でリノが体験したことすべてが、パズルのピースのように組み上がっていく。
『三つ目の峰が涙するとき』――それは「悲しみ」という感情を追体験させるための仕掛け。
『陽光に踊る草原を渡れ』――それは、心の底から湧き上がる「喜び」を思い出させるための道程。
飢えは「渇望」を、孤独は「寂寥」を、そして村人たちとの出会いは「温もり」と「戸惑い」を、リノの心に刻みつけるための試練だったのだ。
静寂の谷は、ゴールではなかった。ここは、旅を通して集めてきた感情の断片を、一つの完全なものとして統合する場所。祖先が遺した、巨大な共鳴装置だった。
一族が災いと恐れていたものは、感情そのものではなかった。それとの向き合い方を知らなかった、かつての未熟さだったのだ。感情を封印することは、生きることから目を背けることに他ならなかった。
第四章 生まれ変わる歌
すべての真実を悟ったとき、リノの頬を、熱い雫が伝った。
生まれて初めて流す涙だった。
それは、単なる悲しみの涙ではなかった。旅の苦難を乗り越えた達成感。祖先たちの深い愛への感謝。自分自身を、失われた半分を取り戻した歓喜。そして、これまで虚無だった自分の世界が、無限の色と響きで満たされていく感動。あらゆる感情が入り混じり、浄化するように流れ落ちていった。
彼はもう、凪いだ水面のような青年ではなかった。その瞳には、星空のような深遠な輝きが宿り、唇には確かな微笑みが浮かんでいた。
リノは、静寂の谷に背を向け、故郷への道を歩き始めた。
彼の足取りは、来た時とは比べ物にならないほど力強く、軽やかだった。
彼は帰らねばならない。そして、伝えねばならない。一族に、「始まりの歌」の本当の意味を。感情は災厄ではなく、我々が生きるための力であり、道標なのだと。もう、何も恐れることはないのだと。
どうやって伝えればいいだろうか。理屈で説いても、長老たちは受け入れないかもしれない。
ふと、答えはもう自分の中にあることに気づく。
リノは、口笛を吹いた。それは「始まりの歌」の旋律だったが、もはや儀式的な無機質な音階ではなかった。旅の途中で見た朝焼けの赤、森の木々が囁く緑、村の少女がくれた笑顔の温かさ、そして今この胸に満ちる希望。すべての感情が織り込まれた、全く新しい生命を持つ歌だった。
彼の帰りを待つ里へ、この新しい歌を届けよう。感情との向き合い方を、この歌を通して伝えよう。それが、祖先の記憶と感情を受け継いだ、新しい「歌守り」としての、リノの使命なのだ。
夕暮れの荒野を、リノは一人歩いていく。しかし、彼はもはや孤独ではなかった。彼の内側では、名もなき幾多の感情が、祖先から受け継いだ無数の魂が、新しい歌となって、高らかに鳴り響いていた。
彼の冒険は終わったのではない。本当の意味で、今、始まったのだ。