残響を歩く者、或いは無音のソナタ

残響を歩く者、或いは無音のソナタ

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第一章 足音のない街

俺の耳には、一つの音だけが届かない。自分自身の、足音だ。

敷石を蹴る革靴の硬質な響きも、湿った土を踏む鈍い音も、俺の世界では常に無音だった。その代わり、世界は他の音で満ち溢れている。遠くで鳴る教会の鐘の余韻、囁き交わす恋人たちの息遣い、街路樹の葉が風に擦れる乾いた音。あらゆる音が、まるで俺の静寂を埋めるかのように、鮮明に鼓膜を震わせる。

人々は、己が持つ『声』の周波数に従って、異なる時間軸を知覚するという。テノール歌手のように高い声の持ち主は未来の兆しを、バス歌手のように低い声の持ち主は過去の痕跡を色濃く感じる。そして俺のように、本来あるべき音を持たない者は、世界との繋がりがどこか希薄だった。

「またか……」

広場の中心で、俺は足を止めた。目の前の空間が陽炎のように揺らぎ、石造りの噴水が一瞬、ガラスと金属でできた未来的なオブジェへと姿を変える。人々は眉をひそめ、不安げに空を見上げる。近年頻発する『時間の乱れ』。過去の馬車がアスファルトの道を駆け抜け、未来の飛行体が青空をかすめて消える。世界の調律が、狂い始めている証拠だった。

俺には、その歪みの正体がおぼろげに見えた。俺が歩いてきた道筋には、他者には見えない青白い光の軌跡――『残響』が残る。それは時間の侵食を受けた場所で特に強く発光し、まるで傷口のように空間に刻まれていた。

その時だった。

「あなたの、それ……見えるの」

振り返ると、ひとりの少女が立っていた。透き通るような高い声。ライラック色の瞳が、俺の足元、正確には俺がたった今通り過ぎた空間の『残響』をじっと見つめている。

「それは、未来の傷痕の色。どうしてあなたがそれを連れているの?」

少女の名はリラ。彼女の声は、未来の予兆を『色』として捉える、極めて希少な周波数を持っていた。そして彼女は、俺という存在が、この狂った世界の唯一の鍵であることを、その瞳で見抜いていた。

第二章 砂時計の囁き

リラのアトリエは、古いハーブの匂いと、未来の色彩で満ちていた。壁にかけられたキャンバスには、まだ起こらぬ出来事の断片――崩れ落ちる塔や、見知らぬ花々が咲き乱れる庭園――が描かれている。彼女は声を持たない妹が、時間の乱れによって存在そのものが消えかかっているのだと、震える声で語った。

「原因は、特異な周波数を持つ『声』の持ち主だと噂されているわ。その声が世界の調律を乱し、時間をかき混ぜている、と」

リラは俺の『残響』を指差した。それはアトリエの中にも、青白い軌跡として淡く漂っていた。

「でも、あなたの足跡は違う。歪みそのものではなく、歪みを指し示す道標になっている。まるで、時間の裂け目を縫い合わせる糸のように」

俺は頷き、ポケットから古びた革袋を取り出した。中に入っているのは、掌に収まるほどの大きさの『砂時計の欠片』。祖父の形見で、理由は分からないが、ずっと肌身離さず持っていたものだ。リラはそれを見て、息を呑んだ。

「まさか……それは『時の耳』。残響を音に変える触媒よ」

促されるまま、俺はアトリエに残る自らの『残響』をゆっくりと辿った。欠片を握りしめた手に、微かな温もりが宿る。すると、欠片が凛、と鈴のような音を立て、そこから柔らかな声が流れ出した。

――大丈夫、あなたは独りじゃないわ――

それは、遠い昔に亡くした母の声だった。記憶の底に沈んでいた子守唄の断片。俺の口が、意思とは関係なくその旋律をなぞる。生まれて初めて「声」のようなものを発した。だが、それは俺自身の声ではなかった。ただの記憶のこだま。満たされるはずの心が、逆に乾いていくのを感じた。

第三章 歪みの協奏曲

俺たちは、時間の歪みが最も激しいとされる旧市街の「大時計台」を目指した。そこへ至る道は、過去と未来が入り乱れる混沌の回廊と化していた。煉瓦造りの壁に未来のネオンサインが明滅し、足元では石畳が時折、透明なパネルへと変貌する。

「アキト、右へ!」

リラの鋭い声が飛ぶ。彼女の瞳には、数秒後に崩落する建物の未来が『濁った赤色』として映っていた。俺は咄嗟に身を翻し、彼女の腕を引く。直後、背後で轟音と共に瓦礫が降り注いだ。

俺の『残響』は、この混沌の中を貫く唯一の安全な道筋を示していた。青白い光の帯は、時間の裂け目を避け、安定した時空の地面だけを正確に捉えている。俺は無音の足で道を示し、リラは未来視の声で危険を告げる。言葉を交わさずとも、互いの存在が道標となった。

時計台が近づくにつれ、世界の音は奇妙な協奏曲を奏で始めた。過去の喧騒、未来の機械音、そして現在を生きる人々の悲鳴。だが、俺の足元だけは変わらず静寂を保っている。その絶対的な無音が、この狂った世界の中で唯一、俺を俺自身たらしめていた。

リラがふと、俺の横顔を見つめて呟いた。

「あなたの静けさは、不思議ね。嵐の中心みたい。なんだか、安心する」

その言葉が、俺の乾いた心に小さな雫を落とした気がした。

第四章 無音の神託

大時計台の内部は、異様な静寂に支配されていた。外の喧騒が嘘のように、あらゆる音が死に絶えている。そこは時間の流れそのものが停滞した、世界の墓場のような場所だった。

中央には、巨大な砂時計の残骸が横たわっていた。砕け散ったガラスが星屑のように床に散らばり、その中心には、闇よりも深い空間の裂け目が口を開けている。

裂け目から溢れ出していたのは、圧倒的な『無音』だった。

それは単に音がない状態ではない。音の存在そのものを否定し、あらゆる物質の存在感すら奪い去る、根源的な虚無。リラの未来視も、この無音の前では意味をなさず、彼女の瞳から色彩が消えていく。

「違う……乱れの中心は『声』じゃない……!」

リラが慄きながら後ずさる。

「これは……声が『無くなった』場所。あまりに高次元の静寂。世界の調律を乱していたのは、特異な声を持つ者じゃない。むしろ逆よ……自らの『声』を捨てた、完全に無音となった存在……!」

その時、俺の身体が自然と裂け目へと引き寄せられた。足元の『残響』が、これまで見たこともないほど激しく明滅し、光の奔流となって裂け目に吸い込まれていく。

裂け目の向こうに、俺は『見た』。

それは、かつてこの世界を創造したであろう、偉大な意志の『残響』だった。完璧な調和を持つ世界を創り上げ、その完璧さ故に退屈し、自らの存在(声)を消すことで、新たな混沌(物語)を渇望した、孤独な神の軌跡。

時間の乱れは、神の自殺行為の余波だったのだ。

第五章 残響を継ぐ者

神の無音は、世界そのものを存在ごと消し去ろうとする、優しくも残酷な揺り籠だった。だが、俺だけはその絶対的な静寂の中で、はっきりと立っていることができた。

俺が『足音のない存在』として生まれたのは、偶然ではなかった。俺自身が、神がその身から切り離した『無音』の断片。この世界に唯一残した、自らの模倣者だったのだ。

「アキト……!」

消え入りそうなリラの声が、俺の背中を押した。彼女の妹、この街の人々、奏でられるべきだった未来の音楽。失うには、あまりに惜しい。

俺は決意した。

強く『砂時計の欠片』を握りしめる。そして、これまでの人生で歩んできた、全ての『残響』を解放した。生まれてから今日この瞬間に至るまでの、無音の軌跡全てが青白い光の奔流となり、空間の裂け目へと向かって咆哮を上げた。

光が神の残響と衝突し、融合する。俺の意識は無限に拡散し、宇宙の創造と、星々の誕生と、生命の息吹を追体験した。そして、その果てにある神の孤独と、完璧さへの絶望を知った。それは、俺がずっと抱えてきた孤独と、どこか似ていた。

俺は、神の残響を吸収した。

その瞬間、俺の内に、初めて本当の『声』が生まれた。それは特定の周波数を持たない。過去も未来も現在も、全ての音階を内包する、始まりも終わりもない『物語』そのものの声だった。

第六章 星屑のソナタ

俺は世界を消さなかった。ただ、解放した。

唯一絶対の物語として固定されていた世界を、無数の可能性を秘めた並行世界へと再構築したのだ。時間の乱れは収束し、それぞれの時間軸は、独立した美しい物語として再び流れ始める。

リラの妹は、彼女自身の時間軸を取り戻し、その存在は確かなものとなった。アトリエに戻ったリラは、涙を浮かべて俺に微笑んだ。彼女の声はもう、未来を縛る色ではなく、ただ温かい音色として響いていた。

「ありがとう、アキト。あなたは、世界に新しい冒険を与えてくれたのね」

俺は、この世界の観測者であり、新たな物語の紡ぎ手となった。もう孤独ではなかった。無数の世界で鳴り響く、喜びも悲しみも含んだ全ての足音を、俺は聴いている。

俺が歩む道に、もう青白い残響は残らない。その代わり、俺が一歩踏み出すごとに、足元から名もなき花が咲き、新しい物語の芽が静かに生まれていく。

広大な星空の下、俺はひとり佇む。風が頬を撫でる音。遠い街のざわめき。そして、確かに脈打つ自分自身の心臓の鼓動。

自分の足音だけは、今もまだ聞こえない。

だが、それはもはや欠落の証ではなかった。

無数の物語が生まれるこの世界で、次の一歩を記すための、至高の静寂。始まりを刻むための、無音のソナタだった。

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