残響の地平、白紙の君

残響の地平、白紙の君

0 3463 文字 読了目安: 約7分
文字サイズ:

第一章 脈打つ皮膚

俺の皮膚は、生きた歴史書だ。右腕にはアレクサンドロス大王の遠征地図が古代ギリシャ語のグリフとして浮かび、左肩にはバスティーユ牢獄を象徴する鎖が皮膚の下で蠢いている。俺、カイの身体は、人類の記憶を刻みつけられた呪われた羊皮紙だった。

この日も、街は「歴史の残響」に揺れていた。舗装された現代の道路の上に、一瞬だけローマ軍団の石畳が陽炎のように滲む。馬蹄の硬質な音が耳元をかすめ、乾いた土埃の匂いが鼻をついた。人々は慣れたもので、眉一つ動かさずにその幻影の中を通り過ぎていく。だが俺には、そのすべてが耐え難い。残響に触れるたび、対応するグリフが灼熱の鉄のように脈打つのだ。

懐の「古びた羅針盤」が、不意にカタカタと震えだした。決して北を指さぬその針は、今、狂ったように街の中心を指し示している。ガラスの表面には、見たこともない紋様が砂嵐のように明滅していた。

その時だった。ゴォン、と腹の底に響くような、鈍い崩落の音。人々が息を呑んで振り返った先、街のシンボルである鋼鉄の時計塔が、砂の城のように音もなく崩れ、その場所には霧の中から現れたかのように、苔むした巨大なドルメン(古代の支石墓)の影が聳え立っていた。現在の事物が、過去に喰われたのだ。

俺は凍りついた。それと同時に、胸に刻まれた産業革命の歯車のグリフが、ひび割れた陶器のように鈍い痛みを立てて、その輪郭を失っていくのを感じた。腐敗が、始まっていた。

第二章 羅針盤の囁き

羅針盤に導かれるまま、俺は足を踏み入れた。そこは街の地下深くに忘れられた「中央古文書館」。黴と古い紙の匂いが、濃密な沈黙と共に鼻腔を満たす。埃をかぶった書架の迷宮を、羅針盤の微かな光だけを頼りに進んだ。

ここは歴史の残響が淀む場所だ。耳を澄ませば、ページをめくる乾いた音、学者たちのラテン語での議論、インクが紙に染み込む微かな囁きが聞こえてくる。俺の皮膚のグリフが、その一つ一つに共鳴して熱を持った。指先で書架に触れると、中世の修道士が写本に込めた祈りの追体験が、激痛と共に脳を焼いた。

「くっ…!」

歯を食いしばり、濁流のような記憶の奔流に耐える。俺自身の記憶なのか、それとも歴史から流れ込んできた誰かの記憶なのか、境界線はとうに曖昧になっていた。

羅針盤は、書庫の最深部、巨大なドーム状の閲覧室の中央を指して止まった。そこには何もない。ただ、磨き上げられた大理石の床があるだけだ。だが、空気が違う。水飴のように粘り気を帯び、空間そのものが静かに歪んでいるのが分かった。羅針盤の表面には、無数の顔が苦悶の表情で浮かび上がっては消えていく。囁きが、そこから漏れ出していた。

『還れ…還すのだ…重すぎる…』

第三章 消えゆくグリフ

震える指を、歪みの中心へと伸ばした。触れた瞬間、世界が砕け散った。

それは、もはや一つの出来事の追体験ではなかった。火薬の匂いと薔薇の香り、鋼鉄の絶叫と赤子の産声、革命の歓喜と処刑台の絶望。ありとあらゆる時代の、無数の人々の感情と記憶が、一つの巨大な津波となって俺の意識を飲み込んだ。歴史が、その奔流のままに俺という器に注ぎ込まれていく。

「あああああっ!」

絶叫が喉から迸る。視界の端で、自らの腕が見えた。ナポレオンの戴冠式を刻んだグリフが黒いシミのように腐り、皮膚ごと剥がれ落ちていく。まるで、インクで書かれた文字が水に溶けていくように。俺の存在を定義していた歴史が、俺の中から消えていく。

激痛が頂点に達した時、目の前の空間から、影が滲み出した。光と闇が複雑に編み込まれたような、定まらない輪郭を持つ人型の何か。それは実体を伴わず、ただ純粋な「意志」としてそこに在った。忘れ去られた存在。歴史を喰らう者。俺のグリフを腐らせる元凶。

憎しみを込めて睨みつける俺に、その存在は静かに語りかけてきた。その声は男でも女でもなく、まるで風が古文書をめくるような、乾いていて、そして途方もなく悲しい響きを持っていた。

『恐れるな、歴史の書庫よ。これは破壊ではない』

第四章 時の剪定者

その存在は自らを「アニマ・テンポリス」、時の魂だと名乗った。

『お前たちが歴史と呼ぶものは、無限に蓄積され続ける記憶の堆積だ』

アニマ・テンポリスの声は、直接脳に響いた。

『宇宙という器は、無限ではない。膨れ上がり続ける歴史の重さに、時間は悲鳴を上げている。やがて器は砕け散り、過去も未来も現在も、全てが意味を失った混沌のスープへと溶け落ちるだろう。それを「時間的崩壊」と呼ぶ』

目の前に、幻影が広がる。ビルが溶けてピラミッドと融合し、空飛ぶ車が恐竜の群れに突っ込む。人々は生まれながらにして老い、死んでから赤子に戻る。時間の流れが完全に崩壊した、終末の光景だった。

『私はそれを防ぐ。宇宙を救うために、歴史を「剪定」しているのだ。物語の幹だけを残し、些末な、あるいは過剰に茂りすぎた枝葉を切り落とす。時計塔が消え、ドルメンが現れたのは、この土地の歴史において、時計塔よりもドルメンの方がより根源的な「幹」だったからに過ぎない』

俺は言葉を失った。破壊ではなかった。救済だったというのか。

『そして、お前の身体…そのグリフは、剪定されるべき歴史を一時的に保管しておくための「生きた書庫」だ。お前のグリフが腐敗しているのは、プロセスが最終段階に入った証。集められた歴史を、無へと還す時が来たのだ』

アニマ・テンポリスの影が、俺にそっと触れようと手を伸ばす。

『お前こそが、この剪定の鍵なのだ』

第五章 白紙の選択

選択を迫られているのだと、直感で理解した。

このまま剪定を拒めば、やがて世界は時間崩壊に飲み込まれる。俺が愛した街も、すれ違う人々の笑顔も、全てが混沌に溶けて消える。

だが、受け入れれば。俺の体に刻まれた全ての歴史が消える。それは、俺が俺であることの証明そのものだった。苦痛に満ちてはいたが、それこそがカイという人間の全てだった。歴史と共に、俺の記憶も、感情も、何もかもが消え失せる。

俺は、誰でもない「白紙」の存在になる。

脳裏に、他愛もない日常がよぎる。カフェの店主の笑顔。公園で遊ぶ子供たちの笑い声。夕焼けの空の美しさ。それらは全て、これから紡がれるべき未来の物語だ。俺が失う過去の物語と引き換えに、守るべきもの。

「…わかった」

声は、自分でも驚くほど穏やかだった。

俺は懐から羅針盤を取り出し、強く胸に押し当てた。アニマ・テンポリスが、静かに頷くのが分かった。

「未来を、頼む」

羅針盤が、太陽のように眩い光を放った。それは最後の道標。俺の身体という書庫を解放する鍵。皮膚から、無数のグリフが金色の粒子となって舞い上がった。ジャンヌ・ダルクの燃える旗が灰になり、アポロ11号の月面着陸の軌跡が星屑に還る。一つ一つの歴史が剥がれ落ちるたび、激痛と、そして信じられないほどの解放感が俺を包んだ。記憶が、感情が、色が、音が、世界から遠ざかっていく。

意識が薄れる最後の瞬間、俺は確かに見た。アニマ・テンポリスの輪郭が揺らぎ、その影の中に、涙のように光る一筋の雫がこぼれ落ちるのを。

第六章 朝焼けの栞

全てが終わった後、世界には穏やかな朝が訪れていた。街のシンボルである鋼鉄の時計塔は、何事もなかったかのように静かに時を刻んでいる。歴史の残響は凪いだ湖面のように落ち着き、人々は新しい一日を始めていた。

公園のベンチに、一人の青年が静かに座っている。

彼の肌は、傷一つない、生まれたてのように滑らかだった。グリフの痕跡はどこにもない。彼はぼんやりと空を見上げているが、その澄んだ瞳には、何の過去も映っていなかった。彼はもはや「カイ」ではない。名前も、記憶も持たない、ただの「誰か」だった。

彼の足元に、古びた羅針盤が一つ、転がっていた。役目を終えた針はぴくりとも動かない。ただ、朝日を浴びたそのガラスの表面に、一瞬だけ、まだ誰も見たことのない未来の街並みの幻影が、きらりと映り込んだ。

そして、静かに消えた。

青年はそれに気づくことなく、ただ頬を撫でる風の心地よさと、陽光の暖かさを感じていた。彼の物語は終わった。だが、彼が守った世界で、今、無数の新しい物語が始まろうとしていた。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る